第25話 きっとすごい投手になっているんだろうなぁ
「えっと。神子ちゃん、ちょっといいかな……?」
いつものように学食での昼食の後、沙織はこっそりと神子を呼び止めた。
「何? 試験の話だったらNGだよ」
神子の目は死んでいた。
学校では中間テスト準備期間として部活は原則として中止(自主練は可)となっている。苦手な試験勉強に加え野球ができないことで、ストレスがたまっているのだろう。その気持ちは同じく勉強が苦手で野球好きな沙織にも、痛いほど分かっていた。
だからこそ、あえて今、話を持ちかけたのだ。
「ううん。試験の話じゃなくって、あたしの投球フォームのことなんだけど」
「えっ? もしかして――」
「うん。まだ試行段階なんだけど、放課後見てもらえたらなって……」
「もちろんOKだよ! ボクも楽しみにしてたんだから」
昼食中もどこか心あらずだった神子が笑顔を見せた。
銀河にピッチングの弱点を指摘されてから、沙織はいろいろ投球フォームの勉強して、練習してきた。それが上手くいっているかどうかは、実際にバッターボックスで見てもらうのが一番いい。
すっかりいつもの調子に戻った神子を見て、沙織も笑顔になっていた。
苦手な試験勉強+野球ができないことに対するストレスは、沙織も同じだったりする。
☆☆☆
誰もいないグラウンドで簡単な準備運動をしてから肩を慣らして、沙織はマウンドに立つ。マウンドの横には五つのボールが置かれている。
「ねぇ、さおりん。打ってもいいんだよねっ?」
同じように素振りして体を慣らしていた神子が、バッターボックスで聞いてきた。打つ気満々の顔をしている。グラブをはめしっかりとヘルメットも被って、こちらも準備万全の様子だ。
「うん。お手柔らかにね」
沙織も慣れたもので笑顔を返す。
けれどその笑顔もここまで。
ボールを持って構えをとる沙織の表情は、きっと引き締まっていた。それはバッターボックスの神子も同様である。
沙織はゆっくりと両腕を振りかぶり、白球を投じた。
「……」
打つ気満々だった神子は投げ込まれたボールに手を出さず、白球がベースの後ろのネットに当たって落ちた。
二球目。
同じように真ん中に投げ込まれた球を今度は神子が綺麗にライト方向へとはじき返した。
「うーん……」
完璧に捉えたにもかかわらず、神子が微妙な表情をしている。
沙織の変化を期待していた神子としては物足りなかったのだろう。
けれどそれもそのはず。
沙織はあえて以前のフォームで投げていたのだ。
そして三球目。
沙織は練習してきた新たなフォームで直球を投げ込んだ。
「――おおっ」
まったく同じコースに投げられたにもかかわらず、神子は大きく振り遅れて、かろうじてボールをバットに当てただけだった。
驚く様子を見せる神子に、沙織は内心、にまっとしつつ、無表情に投球動作に入る。
四球目。
またファール。今回も、神子が直球に押されて差し込まれていた。
そして、最後の五球目。
今度はフェアゾーンに向かった打球が、三遊間へと転がっていった。
外野へ転がっていく打球を見ながら、沙織は軽く汗をぬぐった。
「おお。すごいよ、さおりん! 三球目から何かを変えたよね? 急に速く見えて驚いたよっ」
神子が絶賛してマウンドに駆け寄ってきた。
最後の五球目。やや振り遅れた感じになっていた。神子としては満足な打球ではなかった(つまり沙織の勝ち)のだろう。
もっとも沙織としても綺麗にはじき返されて、微妙に納得はできていなかった。
「うん。本当に基本的なことを変えてみただけなんだけど……」
けれど神子の笑顔を見ているとそのことを言えず、神子に聞かれたとおり投球フォームの説明をした。といっても、大した説明でもない。いろいろな意見を参考に勉強して試したけれど、結局大きくフォームは変えなかったのだ。
肩の開きを抑える。テークバックをコンパクトにする。野球の教本の一番初めに載っていそうな基本的なことを意識し、それを鏡に映したり、葵やあんずに見てもらったりして、微妙に修正を加えながら、何百球も投げ込んで体に染み込ませたのだ。
「でもすごいよ。あっさりとそれをものにしちゃうんだもん」
神子はそう言うと、興奮気味の口調をやや和らげて続けた。
「なんか、さおりんを見ていると思い出すんだ」
「え、なにを?」
聞き返すと、神子はにこっと笑って答えた。
「すんごく速い球を投げる女のピッチャーだよ。さおりんと同じ左利きなんだ。あれ? 前に言わなかったっけ。ボクが頑張ろうって思うきっかけになったすごい人のこと」
「あ。商店街に行ったとき話していたこと?」
神子がうなずく。すごい人としか言っていなかったので、女の人のピッチャーだったということは初耳だった。
神子はまるで自分のことを話すかのように言った。
「ボクが小学六年生の時にね、一度だけ対戦したことがあるんだ。結果は手も足も出なくて、空振りの三振だったけど」
「へぇ。すごい」
神子から三振を取るなんて大したものだ。さぞかし立派な人なのだろう。
「そのときは、まだボクも野球を始めたばっかりで、全然うまくなかったんだけどね。まだ右で打っていたころだし」
「え、右で?」
「うん。ボクは元々左利きだけど、うちのチームのメンバーは全員右打ちで、左で打つ人がいなかったから、恥ずかしくてね」
「は、恥ずかしい? 神子ちゃんが?」
およそ神子らしくない単語が出て、沙織は思わず聞き返してしまう。
神子はおもしろそうに笑いながら答える。
「ふっふっふ。こー見えて、さおりん並に内気な女の子だったんだよ」
「そういえば、そんなことも言っていたよね……」
神子と一緒に商店街に行ったときにも同じようなことを聞いて驚いたんだけれど、今の胸を張る姿を見ると、ついつい忘れてしまうのだ。
「この髪の毛もみんなと違って恥ずかしかったから、ベンチにいるときもずっとおっきなヘルメットを被って、隠していたりしたんだから」
「え」
神子の話を聞いたとたん、沙織は急に昔のことを思い出した。
小学生時代、最後に投げた日の試合のことだった。そのときの最後の打者のことは、あまり記憶にない少年野球時代のことでもはっきりと覚えている。
頭を大きく覆うヘルメットを被って、重そうに大きなバットを構えて右打席に立っていた小さな女の子。
沙織は胸騒ぎを抑えつつ、聞いてみた。
「えっと……そのピッチャーの女の人って、どんな人だったの?」
「背がおっきくてねっ、すごく速いボールを投げるんだよ。カーブもぎゅんって感じで曲がって、全くバットに当たらなかったんだ!」
神子が興奮気味に語る。
「その……つかぬことを聞くんだけど。その当時の神子ちゃんって、背がすごく小さかったりする?」
「えぇっ。どーして分かったの? さおりんすごいねっ。うん。そのときのボクは、今のさおりんよりずっとちっちゃかったんだよ」
「へ、へぇ……。じゃあ、その背の高い女の人は、どうしているのかな……?」
「あれ以来会ったことないから分からないけど、ボクよりずっと大きかったんだから、今はきっと身長180センチくらいになっていて、150キロくらいのストレートを投げるピッチャーになっていると思うんだ!」
「はは……」
沙織は冷や汗をかきながら、乾いた笑みを浮かべた。
神子の言っている「すごいピッチャー」とは、おそらく当時の沙織のことだろう。
神子は単純に自分の成長と同じように、その投手も成長していると思っているため、目の前に沙織がいても気づかないのだ。
今の沙織は小学生時代とほとんど体格は変わっていない。当時小学生の間では速かった球速も、同学年の高校野球球児に及ばない。
「ボクがいっぱい練習して頑張れたのも、その人ともう一度勝負がしたいと思ったからなんだ」
「……で、その人は……?」
「うーん。色々調べてもらったんだけど、まだ見つからないんだよ」
神子が少しだけ顔を曇らせる。
神子がその少女のことを調べさせ始めたのは、自分のバッティングに自信を持つことができるようになってからであり、中学に入ってだいぶ経ってからのことだった。当然、神子と同学年くらいの野球をやって活躍している女の子を探したのだが、そのころには、沙織は野球を辞めて絶賛ステルスぼっち中だった。
神子も小学校の試合だったので、どのチームと練習試合をしていたのか、詳しく覚えていなかったため、今でも見つけられずにいた。目の前にいるとは知らずに。
「でもきっとすごい投手になっているんだろうなぁ」
目を輝かす神子を見て、沙織はいたたまれなくなった。
☆☆☆
「なるほど。そんなことがあったのね」
翌朝、沙織は珍しく自分から葵に、昨日の神子の話のことを説明して相談した。
「神子からその話は聞いたことあるわ。なるほど、沙織のことだったのね。確かに整合性はあるわ」
葵は、本当は知っていたんじゃないのかと思うほど冷静だった。
「どうしよう……」
「どうしようって?」
「だって、神子ちゃんあんなに楽しみにしているのに、もし憧れの投手があたしだと知ったら……」
神子は180センチで150キロの投手(こういうと体重みたいで語弊があるけど)との対戦を夢見ている。その正体がちっこい沙織だと知ったらショックを受けるに違いない。
「別に構わないと思うけれど」
葵はさらりと言った。神子が沙織の実力や才能に惚れ込んでいるのは知っている。想像とは違っても、それはそれで喜びそうなイメージがある。
「でも、あの言葉の件もあるし……」
沙織を一時期野球から離れさせるきっかけとなった「化け物」という言葉。
あの小さな少女が神子だとしたら納得である。彼女にとって「化け物」とは貶すものではなく、「○○の怪物」と同じような、「すごいもの」に対する誉め言葉だったのだから。
けれど当時はそれがきっかけで野球を離れてしまったのも事実である。
神子にもそのことは話している。もし、神子が自分の言葉がきっかけで幼い沙織を傷つけていたと知ってしまったら、ショックを受けてしまうかもしれない。
「まぁ、神子にそのことを話す、話さないは沙織に任せるわ」
「う、うん」
「……ところで」
葵がすぅっと息を吸う。急に葵の表情がきつくなる。
沙織は思わず身を引いてしまう。得も知れない絶対零度的な何かを感じ取ったからだ。
「今の話、昨日のことよね?」
「……う、うん」
「私の記憶が確かなら、昨日はすでに試験準備期間中で部活は休みになっているはずだけれど」
「うっ」
「おかしいわね。本来試験勉強をしなくてはならない時間なのに、どこで何をしていたのかしら? あぁそうそう。草野球部のグラウンドで神子と勝負していたのよね。あなたと神子のことだから、どうせそのあと練習までしていたりして?」
「……うう」
葵という人物は回りくどいことを嫌う。用件は単刀直入にすぱっと言って終わらせる。そういうタイプだ。
そんな葵がこうやってじりじりと言ってくるのがどういう状態か。
人の感情に敏感な沙織にはよく分かってしまった。
葵が怒っていること。そして、その理由も。
「話は変わるけれど、この間行われた英語の小テスト、沙織は何点だったかしら?」
「えっと……16点……?」
沙織は葵から目をそらしながら、なぜか疑問符をくっつけて答えた。
「あら、そうだったわね。ところで、沙織は赤点、という言葉を知っている?」
「ご、50点満点だから……倍にすれば32点だし……」
「先生から聞いた例年赤点ラインは、35点から40点と聞いたけれど」
「ううっ……。だって、英語なんて日本人が話す言葉じゃないんだもんっ!」
沙織はうなだれて、そして当たり前のことを力説した。
「そうね」
当然、葵には通じなかった。
「ところで赤点を取ったら補講授業があるのは知っているわよね」
「う、うん……」
「その日が何日なのかも、当然知っているわよね?」
「……た、大会のある日」
沙織は視線をあさっての方向に向けたまま、答えた。
葵に言われるまでもなく、沙織もヤバいことは分かっている。
けれど現実逃避したくなるのが、世の常である。
葵はこれ見よがしに、大きくため息をついた。
「あなたには、野球だけでなく、勉強の方の特訓も必要のようね」
「うう……」
特訓、という言葉が嫌いになりそうな沙織だった。
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