第8話 うんっ。いいよ
「行くわよ! はい、次!」
小気味の良い音を響かせて、葵がノックバットを振るう。
若干打球が強めなのは、沙織と対決できなかった憂さ晴らしだろうか。
グラウンドではフリーバッティングが終了し、ノックが行われていた。
沙織はその光景を見ながら、神子とのフリーバッティングで外野に飛ばされたボールを拾い集めていた。本来はフリーバッティング時には守備練習も兼ねた球拾いをするものだが、みんな沙織と神子の練習(対決?)を見ていたため、外野にはボールは転がりっぱなしだった。
まぁよく飛ばされたものだと、逆に感心しながら沙織はボールを拾っては、黄色いプラスチックのカゴに入れていく。
地味な作業は嫌いではないけれど、全力投球を続けた後なので、さすがにボールを拾っていると疲れがたまってくる。それにこれ以上ボールを入れると、重たくて持ち運べそうになかった。
沙織が一休みしようとしたら、ほい、とカゴにボールがとぼとぼと入れられた。
西村だった。
「あ、ありがとう……」
どうやら手伝ってくれたようで、他にも何個かボールを持っていた。もっともこれで、ますますカゴは重くなってしまったが。
「まぁ、あれだ。別にお前に負けたとは思ってねーけど、愛しの神子ちんが誉めるだけあって、それなりのピッチングだったぜ」
「ど、どうも……」
ただでさえぼっちなで男子と話すことになれていない沙織なので、どうしても口ごもってしまうが、認められたことは素直に嬉しかった。
「というわけで、ピッチャーはお前に譲る。けど見た感じ、野手も足りていないようだから、俺は野手として入部するぜ」
「え、本当っ?」
と声を上げたのは、話していた沙織ではなく、その近くで沙織と同じように球拾いをしていた神子だった。
神子は西村の言葉を聞きつけて身を乗り出しつつ、遠慮がちに聞く。
「あ、でも野球部はいいの?」
その問いに、西村はばつが悪そうに笑う。
「実は一昨日対決したとき、練習は休みだったんだけど重要なミーティングがあってさ。それをすっかり忘れてすっぽかしちまって。もともと野球部でちょっとした問題ごと起こしてたってこともあって、居づらくなってな。ははは」
「おー。なんだかよく分からないけど、西村君に急に親近感が沸いてきたよ」
「えーと……」
もしかして、この人も神子と似たような天然タイプなのでは……と沙織は何となく思った。
「おお。マジで? 俺のラブが神子ちんに届いちゃった?」
「ううん。それはぜんぜん大暴投だけど♪」
あっさり否定する神子。
かなり天然気味でも一応男を見る目はあるみたいで、沙織はちょっとほっとした。西村には悪いけど。
「でもさ。真面目な話どうなんだ? 入部の話は冗談で言ってるんじゃなくって本気だぞ」
「そうだねー。ボクとしても大歓迎だけど、ひとつ条件があるかなー」
「条件?」
西村が聞き返す。沙織もちょっと驚いて神子の顔を見てしまう。神子のことだから無条件でOKを出しそうだったので、意外だったから。
神子は、そんな沙織の方をちらりと見ると、なぜかにんまり笑って、西村に告げる。
「うちの部活、まだまだ試合するには人数が足りないから、他にもう一人部員候補を連れて一緒に入部することが条件だよ。あ、そうそう。たまたまそこに、部活をやっていなくてピッチャーが出来る女の子が一人いるよねー」
「えっ、ええぇっ?」
まさかの無茶ぶりである。
だが西村は普通に納得した様子で、沙織に視線を向ける。
「お、そうか。ピッチャー捜してたってことは、お前もまだ入部してないんだっけ。ちょうどいいや。一緒に入部しようぜ」
「え、えっと……」
沙織は戸惑った。
そんな彼女に向け、神子がにこりと笑って告げる。
「ほら、さおりんだって、一人で入部するより、二人の方が気が楽だよね?」
確かに西村のキャラはちょっとあれだが、神子の言うとおりすでに部員が何人もいる輪の中に一人で入るよりは、二人の方が気が楽だった。
「しかも今なら特別、仮入部からでもOKっ!」
仮入部と普通の入部がどう違うか沙織には分からなかったが、さらに心が揺らぐ。
「ふっふっふ。交渉事は最初に無理難題を言ってそれから徐々に落としていくのがセオリーだって、葵が言ってたよ」
「って、それを今、あたしの前で言っちゃ駄目だしっ!」
沙織は反射的にツッコんでしまった。
けれど、沙織の中の心の天秤は、すでに片方に傾いていた。
神子に全力投球して空振りを奪ったときから、心のどこかで神子に誘われるのを待っていたのかもしれない。
そして神子がきっかけのお膳立てをしてくれた。だから後は、沙織が勇気を出して答えるだけだった。
沙織は意を決して深呼吸すると、頭を下げた。
「あ、あの……っ。仮入部からでお願いしますっ」
下げた顔を上げると、神子はにっこりと微笑んでいた。
「もちろん。大歓迎だよ」
☆ ☆ ☆
横山家の夕食は静かだ。
話好きの母親が北海道に単身赴任してからは、父と娘が、流れているテレビを見て、一言二言会話を交わす程度である。基本的に話しかけられるのが苦手で、一人でいる方が気が楽な沙織にとってはありがたい空間かといえばそうでもなくて。二人以上の無言空間もそれはそれで堪えるのである。
だが今日の沙織には、話すネタがあった。
話すべきか悩んだけれど、やっぱり父親には話しておきたかった。
「お父さん。あたし、また野球を始めることにしたの」
「そうか……」
父の鷹司は小さく答えて味噌汁を啜った。今日の夕食は鷹司の番なのでやや濃いめである。偶然だが、久しぶりの練習で汗をかいた沙織にはちょうど良い塩梅だった。
もともと父に勧められて始めて、沙織の意志でやめた野球だった。
鷹司がどういう反応をするか。
素直に喜ぶのか。それとも、一度やめたくせにと怒られるかもしれない。
だが鷹司の反応はそのどちらでもなく、野球をやめると宣言したときと同じように小さくつぶやいただけだった。
けれどぼっちなだけに、他人の心情の変化には敏感な沙織である。無口で無表情だけれど、父がどこか嬉しそうにしているのをを感じ取っていた。
「久しぶりだから無理はするなよ」
「……うん」
「練習で忙しくなるのなら、家事は俺がするから」
「うん。ありがとう。でも大丈夫だから」
一方的に野球を辞めていたことに後ろめたさがあった。それが反抗期と重なって鷹司とはどうしても疎遠になってしまっていた。
けれど今日の一言で、少しは昔のような関係に戻れたのかな、と気が楽になっていた。
相変わらず食卓ではほとんど会話がなかったが、不思議といつもより食事がおいしく感じられた。
「沙織」
「ん、なぁに」
「今度、久しぶりにキャッチボールでもするか」
「うんっ。いいよ」
沙織は笑みを浮かべてうなずいた。
父の前で笑顔を見せたのも、ずいぶん久しぶりのことだった。
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