第19話 ぶくぶくっ!

 雨は若干弱まってきたが、いまだに止む気配はなかった。

 出見高草野球部監督の千代美と、筒井中の監督、そして審判団との協議の結果、このまま試合は終了することになった。



「みんなお疲れさま~。こんな状態だから試合の反省会はまた今度。今日はもう解散するから、早く体を拭いて着替えて、体を温めて帰りましょう~」

「……は、はい」

 千代美は相変わらずのんびりした口調だけれど、きっぱりと言い切った。

 屋根のあるベンチにいた千代美も相手ベンチに行ったり審判団と話したりして、髪の毛や肩が濡れている。

 グラウンドにいた選手たちはもっとひどい。水を被ったというレベルではなく、まるでプールの中に落ちたような有様だ。しかも泥まみれである。皆アンダーシャツを着用しているが、そのシャツまでもぐっしょり濡れていて、女性陣はその下の下着まで透けそうになっていた。

 けれどそれを見て、試合前のように筒井中の生徒たちがはやし立てることはなく、変態の清隆もさすがに状況をわきまえているのか、変な目で見ることはなかった。

 沙織たちをはじめとする女子たちが、着替え用に提供された体育用具倉庫へ向かうのを見ながら、千代美が顔を曇らせる。

「この学校にシャワーがあればいいのだけれど、ここには無いみたいなのよね~。女の子たちは心配だわ~。男の子たちはともかく」

「おーいっ」

 雨の中、狭いベンチで着替えさせられる銀河がツッコミを入れるが、基本的に学生は女尊男卑がデフォである。そのうえ、監督も女性で人数比も女子が上回っているのだから、素直に受け入れるしかないのだ。

「それにしても~、あの沙織ちゃんがここまで打たれちゃうなんてねぇ」

「はい。素人目にはいいボールを投げていたようですが」

「そうだよねぇ。雨のせいかなぁ。それとも、なんか癖でも盗まれたのかな?」

 清隆ととおる、千代美が揃って首をかしげる。

「――いや。もっと単純なことだろ」

 頭をタオルで拭きながら、銀河がぽつりと口にする。

 その言葉に、千代美が驚いた様子をみせて聞き返す。

「それってぇ、単に沙織ちゃんの実力不足、ってことかしら~?」

「いやいや。実力不足ってゆーか、むしろその逆だな」

「私にはさっぱりですが、課題が分っていたのなら、教えてさしあげればよかったのでは?」

 清隆がやや非難めいた表情で言う。下ネタが付きまとうが、基本的にはレディファーストな彼としては、マウンド上でどんどん打たれて落ち込んでいく沙織の姿は見たいものではなかった。

「教えるっても、一応俺だって投手やってたから、あいつとはライバルみたいなもんだしな。敵に塩を送るようなことはあんまり気が進まなかったってゆーか。それに、あいつの性格を考えると、言っても聞かないだろうから、一度打たれてからの方がいいかもしれないなって。まぁ、ここまで打ち込まれるとは思っていなかったけど」

「確かに沙織ちゃんって、意外と頑固だよねぇ」

 とおるが笑う。すでに男子たちの間でも沙織のキャラクターは知られていた。

「ま、さすがのあいつもショックを受けてたようだし、俺やあいつだけの問題じゃなくて、ピッチャーの出来はチーム全体の成績にも関わってくるからな。明日にでも実践してみせてやるよ」

 銀河の言葉に、千代美がベンチから空を見上げた。

「明日~、みんなが風邪をひかなければ、ねぇ~」

「……そだな」

 雨はまだまだ止む様子もなかった。



  ☆☆☆



「うわぁ。もー。ぐしょぐしょじゃん」

 椿姫が愚痴を言いながらユニフォームを脱ぐ。

 ベンチでの千代美と男子たちが会話をしている間、女子たちは体育倉庫で各々着替えていた。

 沙織も同じように上着に手をかける。ユニフォームは体に張り付いて重たく、冷たくて、泥だらけで汚れていた。アンダーシャツや下着も似たような状態だが、替えの下着までは持ってこなかった。

「沙織、大丈夫? 顔色悪いわよ」

「……大丈夫。ちょっと冷えただけだから。葵ちゃんの方こそ、震えてない?」

「そうね。やはり少し冷たくて寒いわね」

「あ。そうだっ」

 神子が何かを思いついたようで、下着姿でタオルを巻いたまま携帯をいじりはじめた。

 どうしたのだろう、と沙織は横目でちらりと見ながら着替えを続ける。

 それからしばらくして、身体を拭き終えたときだった。

「――お嬢様、失礼します」

「ひゃぁっ」

 突然体育倉庫の外から壮年男性の声が聞こえてきて、沙織は思わず下着姿の胸元を覆った。

 だが声の主は更衣室まで入ってくることなく、体育倉庫内の誰かに向け、用件のみを伝えてきた。

「お車の用意ができました。それと屋敷の方にも連絡済みです」

「うん。ありがと」

 謎の声に、当たり前のように答えたのは神子だった。

 沙織は混乱しつつも、神子に聞いた。

「あの……今の人って、神子ちゃんの知り合い?」

「うん。このままじゃ、みんな風邪ひいちゃうもん。だから家のお風呂を用意させたんだよ」

「え、家のお風呂? でも……」

 沙織は更衣室にいるメンバーを数えながら、思わず聞き返してしまった。



 そこからは沙織の知らない世界の連続であった、

 取り急ぎ体を拭き制服に着替えて外に出た沙織たちを待っていたのは、雨を感じさせない黒い服を着こなした初老の男性だった。そして校門の前には、大きな高級車が停められていた。

 神子によって沙織たちは車に強引に押し込まれて、連れてこられたのは、どこぞの美術館か博物館のような広い敷地に建てられた、白塗りの大きな屋敷だった。

 そして車から降りた神子に、マジモンのメイド服姿のメイドさんたちが一斉に頭を下げたのだった。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 と。


  ☆☆☆


「……ふぁぁぁ……あったかい……」

 たっぷりのお湯に肩まで浸かって、神子がとろけていた。

「お金持ちって、本当にいるんっすねぇ……」

 同じように球子が顔だけ湯面に出して、きょろきょろと浴室を見回していた。

「一度来たことあるけれど、やはりまだ慣れないわね」

 葵が腕をさすりながら、いつもの調子で言う。

「な、なんですって。私だってまだお呼ばれしたこと無かったのにっ!」

 神子の体をガン見していた椿姫が悔しそうに声を上げる。

「……あたたかい……」

 あんずはお湯の中で猫のように丸まっていた。

「やっぱりただのシャワーより、お湯に浸かった方が暖まるよねー。って、さおりん、どうしたの。さっきからぼーっとして。のぼせちゃった?」

 神子につんつんと突っつかれて、沙織はようやく我に返った。

「な、何なの、これは? ここは一体……っ?」

 沙織はざばぁっと立ち上がって、辺りを見回した。

 ここは何なのかと言われたら、間違いなくお風呂である。

 ただ沙織が知っている、普通のご家庭のお風呂とはまったく違う。

 銭湯には行ったことないけれど、修学旅行や家族旅行で何度か利用したいわゆる「大浴場」くらいの広さだ。湯船の幅も、足を伸ばせるどころではなく、潜水して泳げるレベルだ。

「ここはボクの家のお風呂だよ。言わなかったっけ?」

「言ってるけど、そういう問題じゃなくてっ」

 言い返した沙織は、ふとみんなの視線が自分に注がれていることに気づいた。

 最初は、自分だけ場の雰囲気に合っていないツッコミを入れてしまったせいかと思った。けれど、皆の視線はどちらかというと、顔ではなくその下の体に向いていた。

「沙織って、背は小さいけれど、胸の方はそれなりにあるのね」

「……べ、別に負けたって思ってないんだから」

「お姉さま……球ちゃん、なんか目覚めそうっす……」

 素っ裸のまま立ち上がっていることに気づいた沙織は、悲鳴を上げてあわてて湯船の中に飛び込んだ。

「わぁっ、さおりん。大丈夫? 滑って転んじゃったっ?」

 神子が慌てた様子で詰め寄ってきた。その反応を見て、沙織は毒気が一気に抜けていくのを感じた。ちなみに、湯の中で立ったため露わになった神子の胸は、予想通り大きくて形も色も綺麗だった。

 思わず見とれてしまったのが恥ずかしくて、沙織は話題を変える。

「……神子ちゃんって、毎日こんなお風呂に入っているの?」

「ううん。まさか」

 神子が笑う。

「これはお客様用だよ。いつもは部屋にあるお風呂に入っているから」

 部屋に風呂があるんかいっ。

 内心ツッコミを入れたけど、沙織はもう何も驚かなかった。

「神子ちゃんち、お金持ちだったんだ……」

 沙織がつぶやくと、葵がどこか呆れた様子で言った。

「沙織、うちの学校の理事長の名前、覚えている?」

「え? えっと……」

 沙織は記憶を呼び戻そうとする。

 入学式で挨拶していて、学校案内のパンフレットの最初のページでも顔付きで挨拶していた人だったと思う。正確な名前までは覚えていないけれど、普通のおじいさんで、確か三文字くらいの名前だったような気がする。

「御代志って言うのだけれど」

「御代志って……え、えぇっ? それって神子ちゃんの……?」

「知らなかったんだ? 理事長は神子のおじいさまよ。神子の家は、うちの高校だけじゃなくて、この辺りのショッピングモールも、出資して経営しているし」

 葵と競うように椿姫が追加で説明する。

「……知らなかった。神子ちゃんって、お嬢さまだったんだね」

「えへへ」

 神子が少し照れくさそうに笑う。金持ちであることをひけらかすこともせず、かと言って必要以上に卑下することもなく、自然な笑みだった。

「まぁ確かに、神子ちゃんのその髪の毛を見れば、ごく一般的な家庭の人じゃないことは分かったのに……」

 もうすっかり見慣れた神子のブロンドの髪の毛を見て、沙織がつぶやく。

「んー? これはあまり関係ないよ。曾おばあちゃんは向こうの人だったけど、その子供のおばあちゃんは黒髪で、お母さんはなんとか遺伝ってやつでボクと同じなんだけど、日本を出たことないし、日本語しか話せないもん」

「あっ。おじいちゃんが理事長だから、野球部が作れたっすねっ」

 お湯の中で丸まったまま、球子が納得した様子で言った。

 確かに入学したばかりの一年生がいきなり部を作って、練習場所や部室、顧問を確保できたのは凄いと思っていたが、祖父の影響が大きかったのだろう。

「うん。孫娘としてこの学校に進学することは決まってたんだけど、学校に女子が活動できる野球部がなかったから、作ってもらったんだ」

「そういう経緯もあって、公私混同って批判を浴びないためにも、理事長からある程度の実績を早く求められているのが現状よ」

 葵の解説で、沙織は今まで気になっていたことが繋がった。

 だがその一方で、葵が口にした「実績」という言葉を聞いて、心が一気に重くなった。練習試合とはいえ今日の試合内容は誉められたものではなかった。

「あの……試合は結局、ノーゲーム、ってことでいいんだよね……?」

 七回までの草野球では、四回の裏の攻撃が終わった時点で、試合が成立となる。だが試合が中断されたのは、四回裏のツーアウトの時点だった。

「そうね。成立していないからそうなるわ。練習試合だから細かい記録は必要ないけれど」

「よかった……」

 沙織はほっと胸をなで下ろした。

 あのまま試合が続いていていたら、逆転は難しく敗色濃厚だっただろう。

 練習試合とはいえ、勝負事にはこだわる性格なのだ。

 せっかく二点を先制してもらったのに。負け試合の展開になった原因は、沙織が打たれて逆転されたからに他ならない。

 だから、ずっと言わなくてはと思っていた。

 沙織は湯船に浸かりながらみんなを見回すと、意を決して頭を下げた。

「今日は……その……ごめんなさいっ!」

 と言った沙織は、驚いて顔を上げた。「ごめんなさい」の声が、自分以外から聞こえたからだ。

 顔を上げた沙織の目の前には、いつもふてぶてしい椿姫の顔があった。

「今日は悪かったわね。ダブルプレー取れるところを二度も失敗して、あんたの足を引っ張ってしまった」

「……えっ、そ、そんな。椿姫ちゃんには好プレーで何度か助けてもらったし」

 恐縮する沙織に、今度は球子が頭を下げる。

「球ちゃんも、本当に申し訳なかったですっ! 球ちゃんのあのエラーがなければ、点を取られなかったはずっす。バッティングでも凡退ばかりで。これからはマネージャー志望だからって甘えないで、まじめに練習するっす!」

「むぅぅ。それを言うなら、ボクだって謝らなくちゃだよ。四回の場面でボクが出塁していれば、もっとさおりんを援護できたのにっ」

「二打席目の神子はホームランをねらいすぎ。そもそも点を取られた原因は捕手の私にもあるわ。リードが単調になってしまっていたのかもしれない」

「……私も得点に繋がったフライ取れなかった……頭では分かっていても守備位置を修正できなかった……」

 口々に発せられる言葉に沙織は混乱する。

「あ、あの……みんな、怒ってないの……?」

「どうして?」

「だって、あんなに点を取られちゃって……試合も負けたようなものだし」

「失点に関しては私のリードや守備、運だって絡んでいるのだから沙織一人のせいではないわ」

「そうっす! 一回二回の沙織お姉さまのピッチングは外野で見ていて感動したっす。その姿は、球ちゃんの頭の中で、永遠の宝にするっす!」

「……ま、あれを見せられたら、あなたがピッチャーをしていることに文句は言えないわね」

「うんうんっ。ボクも中学生チームに移って、さおりんと勝負したくてうずうずしてたもん!」

「……えっと。それはどうかと……」

 戸惑う沙織。

 そんな彼女に向けて葵が微笑んだ。

「結果的に、あまりに沙織の出来がよすぎて、私が力で抑えるリードにしてしまい、無駄にスタミナを消費させてしまったのが、今日の結果につながってしまったわ。ごめんなさい。……けれど、私にそう思わせるほど、沙織の球は受けていて、本当に楽しかったわ。野球をやっていて本当によかった。だからむしろお礼を言わせてほしいの。ありがとう」

「葵ちゃん……」

 沙織はみんなを見た。葵だけではなく、みなが優しい目で沙織を見ていた。沙織はそんな彼女たちの視線から逃れるように、湯船に顔まで浸かった。

「……さおりん?」

「ぶくぶく(何でもない)」

「もしかして、泣いてる?」

「ぶくぶくっ!(泣いてないっ!)」

 けれど涙が止まる前に、息が続かなくて沙織は顔を上げてしまった。

 それを見て、みんなが笑う。沙織も笑ってしまった。

 たっぷり浸かったお湯ごと目尻を拭う。瞳からにじみ出たそれは、悔しさから漏れたものだけではなかった。

 ひとしきり笑った後、沙織はもう一度みんなを見据えて言った。

「みんな、ありがとう。でもあたしもごめんなさい。もっとしっかり投げなくちゃいけなかったのに、試合を壊しちゃった」

 今度はみんなも沙織の言葉を遮ろうとはせず、じっくり耳を傾けた。

「久しぶりの試合ということもあったけれど、三回くらいから、もう疲れを感じてたかも。それにストレートも通用しなかった……」

 軽くうつむく沙織に向け、椿姫が口を挟む。

「守っていて感じたけど、もう少し力を抜いて打ち取るピッチングをしてもいいんじゃない? 常に全力投球してるように見えたわ。まぁそれをするには、うちらがもっと守備を鍛えるのが前提だけど」

「うん。そうだね。ボクも頑張るよ」

「ええ。沙織だけに限らず、スタミナをもっと付けられるような練習メニューも考える必要があるわね。他には?」

 葵が他の皆に意見を求めるように見回すと、あんずがすっと手を挙げた。

「……もう少し球種があった方がいい。後半はカーブを見送られ、ストレートをねらい打ちされていた……」

 普段は無口でも、野球のことになると饒舌になるタイプである。

 葵は苦い顔をしてみせた。自分でも自覚していた部分をずばり指摘されたからだ。やはり、球種がストレートとカーブだけでは、リードにも限界がある。

「……うぅっ。ごめんなさい」

 沙織も申し訳ない顔をする。球種の少なさは、バッテリーを組む葵にも指摘されていたのだが、今まではストレートとカーブだけで十分だったので、特に対応しようとしていなかったのだ。

「ねぇねぇ。必殺技の魔球とかはないの?」

 神子が目を輝かせながら聞いてくる。

「うーん。あたし的にはカーブがそれなんだけど」

 小学生の頃から何度も空振りを奪ってきた伝家の宝刀だ。

 今日の試合だって、カーブは決定的なヒットにされることはなかった。

「それなら、カーブは切り札として、使う回数はもう少し減らした方がいいかしら。ただそうなるとやはり、直球の他にカウントをとれる変化球がほしいわね」

「球ちゃん的には、基本ですが、スライダーがおすすめっす!」

「うん」

 沙織は素直にうなずいた。

 今までは直球とカーブで抑えてきていた。けれど、沙織がこれから対戦していく相手は、少年野球チームの小学生ではないのだ。もっと上の実力を相手にするには、沙織自身も上を目指さないといけない。

「沙織は他に何か気になったこと、ない?」

 葵に聞かれ、沙織はうーんと考える。

 そして昨日父親の鷹司に言われたことを思い出した。

「あ、そういえば、昨日お父さんに良い球なんだけどダメだって、ダメだしされたんだけど……」

「お父さんって、さおりんに野球を教えた人?」

「うん。久しぶりにキャッチボール……っていうか投げ込みを受けてもらったんだけど、なんか素直すぎるみたいなこと言われて……」

 結局自分で考えてみたけれど、鷹司が言っている意味は分からないまま試合に臨んでしまった。

 沙織の言葉に、皆がうーん、と考える。

 けれど誰からも答えが出ない。それを見て、葵がどこか言いにくそうに口を開く。

「実は車で移動中、とおるからメッセージが来ていたわ。どうやら西村が沙織の弱点に気付いているみたい」

「うぇっ、あいつが? 適当なこと言っているだけじゃない?」

 銀河と犬猿の仲である椿姫があからさまに嫌そうな顔をする。

「うーん。でもボクも気になるよ。ねぇ。さおりん、ヒントのためちょっとここでピッチングフォームを見せてみてよ」

「む、無理無理っ!」

 すっぽんっぽんで投球フォームをチェックされるのは、恥ずかしがり屋の沙織じゃなくても罰ゲーム級の恥ずかしさだ。

「……気になるけれど、滑って転んだら怪我する……」

 あんずの言葉に、沙織はぶんぶんうなずいた。

「そうっす。今はお風呂にじっくり浸かって、身体を温めるのが重要っす」

 球子が言う。

 確かに、長い間雨に打たれながらマウンドに立っていた身体は、沙織が思っていた以上に冷えていたみたいで、暖かなお湯が体に染みるようだった。

「そうね。肩は消耗品なのだから、冷やし過ぎないようにね」

「あれ? でもアイシングってするよね。あたしはあまりしたことないけど。どっちが正解なんだろ」

 沙織の発言に、葵が呆れた顔をする。

「アイシングは血行をあえて悪くして炎症を抑えるため。けれど血行を悪くし続けていると、逆に疲労が取れにくくなるわ。温泉に浸かって疲れを取るのは、アイシングとは反対に血行を良くなるからよ」

「……そ、そうだったんだ」

 沙織は何となくあんずを見ると、彼女も常識という顔をしていた。

 ちなみに、神子までそういう顔をしていたらショックで立ち直れない気がしたので、そっちは見られなかった。

「……あんたの場合、ピッチングより先に、もっと覚えることが多そうね」

 椿姫にも呆れられ、沙織は穴に入るかのように、ぶくぶくとお湯の中に潜っていった。

 椿姫の指摘のように、まだまだやらなくてはならないことが多そうだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る