第33話 自由に打っても良かったのに~
「ったく、出来るんなら最初から投げなさいよっ」
ベンチに戻る沙織を椿姫が小突いた。
「さすがお姉さまっす! 球ちゃん、感激で燃え燃えの濡れ濡れっす!」
「ほほう……濡れ濡れとは……」
「えっと、球子ちゃん。谷尾が反応するから、あまり変なこと言わない方がいいと思うよ」
みなが次々と沙織に集まって声をかける。
無口なあんずも、声をかけることはなかったが、無言でこっそりとサムアップしてみせた。沙織もそれを見て、にっこりうなずいた。
「もー、さすがさおりんだよっ。手の内を明かさず様子を見つつ、ここぞってときに本気を出すって感じで格好良かったよ!」
「いや……今まで本気で投げてなかったわけじゃないんだけど……」
神子の言葉に沙織は釈明する。
別にナメプをしていたわけじゃない。あくまで体力温存のためだ。
銀河はそれに一回から気づいていたようだけれど。
と、その銀河がにやりと笑って言った。
「でもさ、無理しないフォームで投げるのはいいけどよ、カーブまで封印する必要はなかったんじゃないか」
「あはは……」
なんだかんだで。
沙織も神子の言うような展開が好きなだったりする。
☆☆☆
「ほほう。なるほど。そういうわけかい」
まだざわめきが残る中マウンドに上がった源は、感心しながら足下に目をやった。
マウンドに出来たスパイクの跡を見て、源は相手投手がいきなり桐生を圧倒した理由を理解した。踏み込みの位置がかなり前へと移動していたのだ。
「確かにこうすれば、理屈では、体感的に球が速くなったように見えるよな。あのちっこい身体でたいしたもんだ」
正木なんかは、「そう! これが彼女のピッチングなんですよっ」と、すっかり舞い上がっていた。お前はどっちのチームなんだよと、思わずつっこみを入れてしまったくらいだ。
まぁけれど、そういう彼の野球バカなところは、源も嫌いではなかった。
(俺も試合終わったら、あの子にあのカーブでも教えてもらうかな)
とはいえ、まだ試合は終わっていない。
下位打線から始まるこのイニングをしっかり抑えて、流れを引き戻すつもりだった。
そんな源の前に、話題をさらった小さな投手よりさらに小さな少女が打席に入った。七番打者の球子である。
源はもともとコントロールの良い方ではない。葵くらいの身長なら、それほどストライクゾーンを気にせず、思いっきり腕を振って投げられるが、ここまで極端に背が小さい相手とはあまり対戦したことがない。
(ま、真ん中めがけて投げていれば大丈夫だろ)
源は投げにくさを感じながらも、初球を投じた。
☆☆☆
きんっという金属音とともに、歓声が上がる。
球子のしっかり振り切ったバットにボールに当たり、一塁側のファールゾーンに転がっていく。
すでにファールは三回に及んでいた。
「まったく、あの子ったら、私がしたいことをしてくれちゃって」
椿姫がまぶしそうに打席に立つ小さな球子を見つめる。
もっとも球子は当ててファールで逃げようと思っているわけでなく、必死にバットを振って、それがファールになっているだけだが。
それでも、沙織が初めて球子を見たときはバットを引きずるようにしていたのに、今では打席での構えも様になっていた。
沙織も球子の気合いに負けないよう大きな声援を送り続けた。
そして。
源が根負けしたかのように、大きく高めにボールが外れた。
「やったーっ。球ちゃん、すごいっ」
神子が自分のことのようにはしゃぐ。
けれど球子は、フォアボールの宣言を聞いても実感がわかない様子でどこかぼーっと立ちっぱなしだった。
そして、自分が一塁に向かっていいのだと気づくと、出見高のベンチを見て、満面の笑みを浮かべた。
☆☆☆
(うーん。源さんに変に警戒させすぎちゃったかな)
まるで初めて塁に出るかのように、おそるおそるといった様子で一塁に向かう球子を見ながら、正木は配球を思い返していた。
先頭打者を出してしまった。これで上位打線まで回るし、気を引き締めていかないと。
次に打席に立ったのは、さきほどの球子とは対照的なすらりとした長身の清隆だった。
ぱっと見た限り、野球歴は短そうだが、それでも七番打者の球子よりは打ちそうな雰囲気がある。
なぜ打順が逆なのか、と考える正木に向けて、まるでその心を読んだかのように清隆が言い放った。
「ふふふ。これぞ計算通りです。球ちゃんナイス。これで私も合法的に美少女の尻を追いかけることが出来ます」
「……はぁ?」
「まぁ、球ちゃんの小尻は非合法っぽさも醸し出していますが、ふふふ、そこがまた良いのですよ」
「…………」
正木は聞かなかったことにした。
四球の後なので、できればストライクを取りたいところだが、とりあえず一球様子を見るため、外にはずすことにした。
しかし、その外の直球を、清隆は強引に腕を伸ばして打ちにきた。
バットの先に当たった打球は三遊間に転がる。ゲッツーシフトをしいていたショートは逆を突かれた格好になる。
それでも当たりが弱いので、遊撃手は体勢を立て直して、そのボールをグラブに収める。
だがそのときには、全力疾走していた球子が頭から二塁ベースに覆い被さっていた。遊撃手は二塁を諦め一塁にボールを送るが、美少女の尻を追うという目的を持った清隆は、通常の1.2倍くらいの走力で一塁ベースを駆け抜けていた。
結局、ボールはそれよりわずかに遅く一塁手のグラブに収まり、打った清隆もセーフとなった。
「え、えーと……」
背後のベンチからわき起こる歓声を聞きながら、ヘルメットをかぶっていた沙織は戸惑っていた。
清隆が初球打ちしたため、まだ心の準備が出来ないまま、無死一二塁というまさかのチャンスで、打順が回ってきてしまったのだ。
マウンドに立つ沙織と打席に向かう沙織はまるで別人のようだと思いながら、椿姫はネクストバッターズサークルに向かう準備をしつつ、千代美に聞いた。
「どうするの?」
「う~ん。何にも~」
千代美が少し考えた様子を見せて言った。
無死一二塁のこの場面でどういう作戦を取るかという意味で聞いたのだが、その意図だけは伝わっていたようだ。
「まぁ妥当でしょうね」
葵がうなずいた。
セオリー通りだったら、確実に送りバントである。
けれど沙織はあまりバントがうまくない。相手ピッチャーも荒れ球の源である。さらに二塁ランナーは球子。実戦経験のない彼女が試合で二塁ベースを踏んだのは、おそらく初めてだろう。この場面、バントする方も難しいが、二塁走者も瞬時に正確な判断を求められる。
それなら下手に動くよりは、素直に三振して、一つアウトが増えるだけのほうがいい。
「けど……」
「おおっ。なんかさおりん、すごい気合いだよ」
打席に向かうまでの戸惑った表情が嘘のように、沙織は真剣な瞳でマウンド上の源を見つめていた。
「さっきはナイスピッチング。でもできれば、前の僕の打席からあれを見せてもらいたかったけどね」
正木が左打席に立った沙織に話しかける。
けれど沙織の耳にはほとんど届いていないほど、集中していた。
もともと、自分が打たなくても点を取られなければいい、というのが沙織の考えだった。だからバッティング練習もどこかおざなりなところがあった。
けれど球子のあれだけ粘りを見せられて、燃えないはずがない。
珍しくきゅっとバットを握りしめて打席に立つ。
初球。高めに外すはずの直球が甘くなり、ストライクゾーンに入ってくる。
しかし、沙織は手が出せず、ストライクがコールされる。そしてその投げおろされる源の直球を見て、沙織の気合は、あっさりと霧散してしまった。
(ピッチャーの自分が言うのもなんだけど、バッターの人って、よくピッチャーが投げる球を打てるなあ……)
こんなに速く飛んでくる小さなボールを打つ打者を、尊敬してしまう。
だからといって、簡単に三振したくはない。
二球目は、神子の打席で投げた緩いカーブだった。
読んでいたわけではないが、物理的にタイミングを合わせられない直球よりは対処しやすかった。
沙織は無心で振ったバットを振る。両手に鈍い衝撃が走った。
(え、うそ……っ)
打球がフェアゾーンに転がる。
沙織は慌てて一塁へと走った。
打球は完全に当たり損ないの、ボテボテの三塁線へのゴロだった。
その当たりが幸いして、送りバントのようになるのかと思われた。
しかし三塁手の桐生が猛然と突っ込んできて、グラブをはめていない右手でボールを掴むと、二塁に向けて送球した。
球子を凝視していて、一塁走者の清隆はややスタートが遅れていた。
清隆が慣れないスライディングを見せるが、二塁はぎりぎりアウトになる。
さらにボールは一塁にも送球される。
けれどそこは全力疾走の沙織の足が一瞬早かった。
セーフがコールされ、沙織はほっとして乱れた息を整えた。
そんな沙織に向け、フェアリーズの唯一の女性選手である品川が声をかけた。
「やー、お見事。ピッチングもすごいけど、足も速いねぇ」
「ど、どうも……」
相手チームの人に声をかけられ、沙織は戸惑った。
言うまでもないが、人見知りする性格なのである。
もっとも、品川はそんなこと気にした様子もなく続ける。
「私には小さな娘がいるだけどね。女の子だからって諦めていたけれど、あなたたちを見ていたら、野球やらせても良いかなって気になってきたよ」
どこか寂しそうな表情を見せた品川を見て、沙織は勇気を振り絞って言った。
「あ、あの……」
「ん、なぁに?」
「あたしも、その、小さい頃、秋……森屋さんに野球を教えてもらっていたんです」
「へぇ……」
沙織の言葉に、品川はにっこり笑った。
「それはいいこと聞いた」
その笑顔を見て、沙織もこんな女性になりたいと思った。
一死一三塁。
出見高草野球部に先制のチャンスがやってきた。
打席に立つのは、打順一番に戻って、椿姫である。
初球。重いストレートが内角高めに決まって、ストライクがコールされる。
(……相変わらず、打ちづらそうね)
相手の守備は、スクイズを警戒しつつも、当たりによってはゲッツーもねらえる形である。
この場面、最悪なのは、内野ゴロでのゲッツーだ。速球に押され内野ゴロを打ってしまったら、相手の思うつぼだ。
(って、何考えているのよ、私は)
椿姫は首を小さく振る。
マイナス思考は結果にも繋がる。けれど一度浮かんでしまった思いは、なかなか頭から離れない。
ベンチを見る。
監督の千代美は乗り出すようにしても両手を組んで祈るように試合を見ている。それはサインでも何でもなく、ただ本当に祈っているだけだ。
(ったく。監督なんだから、サインくらいだしなさいよ……っ)
守備のサインは捕手の葵が出すが、攻撃時は千代美がサインを出すことになっている。もっとも千代美なので、種類は単純なものしかないが。
(だったら、私なりにやらせてもらうわよ……)
椿姫はもう一度相手守備に目をやる。
カウントは1ボール2ストライクになっていた。バントの可能性を捨てたのか、一塁手と三塁手が下がって、通常のゲッツー狙いのシフトになっている。
それを見て椿姫は。
高めのカットボールをセーフティ気味にバントで転がした。
絶妙の勢いでボールが三塁方向へ転がる。ファールにもないそうのない完全なフェアゾーンだ。
だが。
「……えっ、えっと……っ」
ノーサインのスクイズに、三塁走者の球子が戸惑って、棒立ちになっていた。
その間に、桐生が転がったボールに向かう。
「球ちゃん! 戻ってっ!」
ベンチからの神子の声に、球子は弾かれたかのように三塁へ戻る。
ボールを手にした桐生はそれをちらりと確認してから、一塁へボールを送球した。
一塁走者だった沙織は二塁ベースに到達したが、バントした椿姫はアウトとなる。
こうして、二死二三塁へと変わった。
「自由に打っても良かったのに~」
ベンチに戻った椿姫を見て、千代美が不満げに言う。
「だから『自由に』スクイズをしたんです」
椿姫は憮然と答えた。
そんな彼女に向け、千代美はいつもの調子でゆっくりと言った。
「私ね~、基本的に犠牲バントって、あまり好きじゃないの~」
「相手に一つのアウトを簡単に渡すから?」
そういう考え方があるのは椿姫も知っている。
「ううん。そうじゃなくって~、せっかく打席に立った人に、打たないでアウトになれというのが嫌なの~。自由に好きなように打って、塁に出てもらいたいと思わない~?」
「……まぁ、人によりけりだと思いますけど」
監督の指示を忠実に守り、バントを一つの武器としてきた椿姫とは基本的な考え方が違う。けれど、千代美が何も考えていないわけではないと知って、少しは彼女を見直した。
「でもね~」
そんな椿姫に向け、千代美はベンチに座ったまま両手を大きく頭の上で組んで伸びをしながら告げた。
「セーフになるのなら、バントも悪くないかな~って」
☆☆☆
意表を突くセーフティスクイズだったが、結果的にはアウトになって命拾いをした。
源はちらりとネクストバッターズサークルに目をやる。神子がきらきらした目で試合を見つめている。彼女まで打順を回したくはない。
打席に立つあんずは、背こそ女子にしては高めだが、体つきは華奢で力はなさそうである。
四球は避けたい場面。早めに追いこんで、力押で内野ゴロに打ち取る。
正木と考えが一致して、初球からストライクを取りに行く直球。
それに対しあんずは、いきなりバントをしてきた。
「――なっ?」
三塁手と投手のちょうど間くらいにボールが転がる。位置的には源の方がやや近い。
意表を突かれつつもボールを手にする源。
「たぁぁぁぁっ!」
その耳に、三塁走者の球子の叫び声が入った。先ほどの走塁ミスを取り戻そうとするかのように、猛然と本塁へ突っ込んでくる。
「源さん、一塁!」
正木に言われて、源ははっとする。
二死なのだ。本塁に投げる必要はない。一塁でアウトを取ればいいのだ。
と一塁に目をやったら。
「なに――っ」
すでにバントしたあんずは、その俊足を生かして、一塁ベース目前まで迫っていた。
源は慌てて一塁に向けて送球する。
が、ボールが届く前に、あんずは余裕で一塁ベースを駆け抜けていた。
出見高のベンチから歓声が沸き起こる。
本塁へ頭から突っ込んだ球子は、泥だらけになりながら、飛び上がって喜んでいた。
意表を突く攻撃で一点を失って、源はらしくなく動揺していた。
そして、なおランナー三塁に沙織を残して、もっとも注意しなくてはならない三番打者の神子が打席に立っているにも関わらず、集中できないまま中途半端なボールを投げてしまった。
気づいたときにはもう遅かった。
やや甘くなった外角への直球を、思いっきり引っ張られた。
キィィン!
快音とともに白球が青空へと消えていく。
(……はは。すげぇな、やっぱり……)
源はちらりと打球の行方に目をやって、思わず感嘆してしまった。
だが、出見高ベンチから上がっていた歓声が静まり、逆に商店街のチームを応援するギャラリーたちから拍手が沸き起こったのを怪訝に思って、もう一度よく、打球の方向を見た。
右中間の一番深いところで、環が大きく手をあげて、簡易フェンスを背にするような体勢で、神子の打球をグラブに収めていた。
「うーぅぅ……」
一塁ベースを回ったところで、神子ががっくりした声を上げた。
高く上がりすぎたのか、あと一歩伸びなかった。
森屋の指示か正木の指示か、それとも環の独自の判断かは分からないが、あらかじめ長打を警戒して深めに守っていたのだ。
その様子を見て、源は気合いを入れ直した。
「……まったく。環には後でゲームの一つでも買ってやらないとな」
まだ一点差。
勝負を諦めるのは早すぎだ。
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