私は犬である
私は犬である。名前はたくさんある。
この街に住む人々は私のことをさまざまな名前で呼んだ。ポチとかシロとかタロとか、長いのだとバカニシヤガッテとかだろうか。これはこの前、ボールを投げてやった男が私につけた名前だ。
何やら怒っていた男を思い出しながら、私は首を傾げる。
人間の気持ちはよく分からない。
遊びにしてもそうだ。
人間は往々にして何かを投げるのが好きである。そこらでいつもボールを投げ合っているし、中には紙飛行機を投げる者もいる。私が拾って渡してやっても再び放ってしまうものだから困りものだ。こっちは好きで拾ってきているではないのだからいいかげんにしてほしい。
とはいえ、彼らがいなければ餌がもらえない。少し前にそれが私に与えられた労働なのだと気がついていたため、文句を言わずに従事していた。
そうなると疑問を呈してくるのが若い連中である。私の家にやって来た仲間の一人が不思議そうに訊ねてきた。
「バカニシヤガッテさんはなんでいつもそんなにあくせく働いているんですか?」
「あのな、生きていくためには働かなきゃいけないんだよ」
「でも、僕は寝てるだけでもごはんをもらえますよ」
初顔の黒い小型犬は声色に少しだけ自慢を含ませている。そうやって快楽ばかりを追い求めているからだめなんだ。私は溜息を吐き、諭してやった。
「なあ、お前。……いいか? そうやって寝て過ごしてお前はどうなった? 身体は衰え、肥え太り、それで何が得られるというんだ」
「ごはんが得られます」
「……あのな、私はそれじゃだめだって言ってるんだ。人間を見習え。あいつら、いつでも忙しそうだろ」
「えっ、あれ、遊んでるんじゃないんですか」
「いいや、私は違うとみてるね。あれは身体を鍛えてるんだ」
「なんのために?」
そこで私は答えに詰まってしまった。人間がなんのために運動しているのか、働いているのか、そんなものは分からなかったからだ。彼らも食事をするようだが、どこから糧を得ているのか、とんと見当もつかない。
黙っていると、黒い小型犬は鼻で笑った。
「なんだ、バカニシヤガッテさんも分からないんじゃないですか」
「……馬鹿にしやがって。見てろ、今に突き止めてやる」
私は身体を一度揺すり、柵を見据える。この家の柵は私にとってあってないようなものだ。身体を鍛えていれば問題なく飛び越えられる。
地面を蹴り、私は思い切り跳躍した。難なく柵を越えると黒い小型犬は賞賛を始める。お前も身体を鍛えれば私のようになれるかもな、まあがんばれよ、それらの思いを込めて小さく吠えると係員の男が迫ってきた。こいつも新顔だ。説得するのも面倒で股下を駆け抜け、庭へと繰り出す。
〇
庭をぐるりと一周してもヒントらしきものは何も得られなかった。この日は風が強くて、あまり人間はおらず、いたとしてもやはりボールを投げているだけだ。確かにそれだけを見ていると人間は遊んでいるだけの存在に見える。まったくいい気なものだ、こちらはお前たちを擁護してやっているというのに。
心がささくれているのを感じる。走り疲れたのもあり、私は癒やしを求め、人間の子どもが集まっている城へと向かった。網や梯子、縄で飾りつけられた「アスレチック」という名の城は豪華絢爛で人間にとっても興奮するものらしい。城へと昇ったり、坂道から滑り降りてきたり、年相応のはしゃぎ声を上げていた。
うむ。やはり人間の子どもはいい。彼らは邪気がなく、私を見るとすぐに崇めてくる。この庭の主としては悪い気分になり得るはずもない。
撫で回され、仰向けになったり、握手の求めに応えたりしてしばらく過ごしていると、私は城の頂上におかしな女がいるのを見つけた。
周りは子どもだけだというのに、一人だけ大人だ。そして、紙で折られた飛行機を飛ばしている。
まったく、ごみを投げ散らかして。
城に登って注意しようかとも思ったが、断念する。子どもの頃、あそこに登って落ちたことがあるからだ。仕方なく私は地面に落ちた紙飛行機を拾うことにした。しかし、女は目を細めるばかりで謝ろうとする気配はない。
もっと低い場所にいたならこれを突きつけてやるのに。
途端に馬鹿らしくなって、私はその場を去ることにした。とはいえ、帰る気にもなれず、庭の外に出る。道ではたくさんの人間が真面目な顔つきをして走っていた。
その真剣な表情に、もしかしたら、と思う。もしかしたら、こうやって走ることが人間の労働なのではないか? 見れば、全員が何かを背負っている。
これだ。
合点がいき、私は思わず吠えた。口から紙飛行機が落ちたため、慌てて拾う。
人間もわたしたちと同じなのだ。誰かが放り投げたものを拾い、運んでいる。それだけが彼らの労働に違いない。
そう考えると彼らを許してやろうかとも思った。ストレス解消はどんな生き物にも必要だ。彼らは日々働かせられている腹いせにボールを投げ合っているのかもしれない。すべてを放り投げたいのに、それができないから何かでごまかす。
そう考えると途端に人間が哀れに思えた。
自分の仕事を一旦中断してでも彼らの仕事を手伝ってやるべきだ。
私は周囲を見渡し、いっとう辛そうにしている人間を探す。そして暗い顔をして走っている男を見つけるまでそうかからなかった。日常に飽き飽きとしているような、黒い影が表情に落ちている。彼の代わりに背負っている荷物を運んでやろう。
私は男の前に躍り出て、任せろ、と叫んだ。その拍子に咥えていた紙飛行機が落ちる。男は何か物珍しそうな顔つきでしゃがみ込み、紙飛行機を手に取った。何か思い出でもあるのだろうか、男は微笑み、背負っている小さなバックパックを降ろした。
よし、交換だな。
私は男のバックパックを咥え、走り出す。幸いそれほど大きくはなかったため、走る邪魔にはならなかった。「何をしてるんだ!」と聞こえたため、立ち止まり、振り向くと男は必死に追いすがってきていた。任せろって。私は再び進み始める。
「……馬鹿にしやがって!」
そう、私はバカニシヤガッテ。きみを救う救世主だ。
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