三十路、恋人にふられる
酒はピラニアみたいだ、と男はぼんやりと考えていた。
冷たい風が吹き付ける金曜の夜、屋台の屋根の縁に下げられた赤提灯が揺れている。秋も日に日に深まってきていて、道行く人はコートに身を包むようになっていた。しかし、男が身につけているのはアイロンもかけられていないワイシャツだけである。
「なあ、大将……俺、何か悪いことしたか?」
だが、おでん屋の大将は「まあ、落ち込むなよ、兄さん」と気もそぞろな生返事をするばかりだった。彼の視線は小さなテレビに釘付けで、常連客の苦悩よりも野球中継の方がよっぽど大事だということを窺わせる。男は溜息を吐き、酒を煽った。燗した安酒は工業用アルコールのような臭いがした。
だが、それでも男は構わなかった。酒の味など求めていない。おでんから立ち上る柔らかな香りさえあればいくらでもごまかせるし、何より酔っ払ってしまいたいだけなのだから。
男はすっかり冷めた大根を箸で割り、頬張る。染みこんだ出汁は涙の味がした。
遠距離恋愛をしていた彼女に振られた。
つまるところ、男が意気消沈しているのはそれが理由である。三十になったというのに遠距離恋愛はどうなのか、と思っていたのは自分だけではなかったらしい。問題はそのベクトルが逆であったことだ。男は一緒に暮らすべきだと考えて、女はきっぱり別れるべきだと決断した。「電話とかメールで告白とか別れ話を切り出すのってなんかずるいよね」と雑誌のコラムを批判していた恋人から、その電話がかかってくるなどとは、彼も予想だにしていなかった。
テレビの中で投手が振りかぶり、ボールを投げる。直進した白球はミットの中にすっぽりと収まり、球審がけたたましい声を上げる。ストライク、バッターアウト。大将は小さく「よし」と拳を握る。
何もよくなんてないよ。
思っただけのはずの言葉は口から出てしまっていたらしく、大将にじろりと睨まれていることに気がつく。三点差をつけられている守備側のチーム、そちらが大将の応援しているチームだったようだ。男は「独り言です」と早口にごまかして、新しい酒を注文した。
いけないいけない……どうも酔いが回っているようだ。酒というものはピラニアみたいに思考を食い破って、自制心をぼろぼろにする。男は暖簾に隠された狭い空を見上げて気を落ち着かせるべく、大きく息を吸った。
どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
男は少なからず自分に対して自信を持っていた。幼い頃からスポーツが得意で褒めそやされ、世界を回って、人がしないような経験をしてきたはずだ、容姿だって悪くない、と。だが、そんなものは社会では役に立たなかった。資本主義社会において重要なのは金を稼ぐ才能だ。たとえ材料を持っていたとしても男にはそれを活用する才能がなかったのである。
深い溜息を吐く
そのとき、背後から「やってます?」と一人の客がやってきた。ちらりと目が合う。四十代くらいだろうか、スーツ姿の生真面目そうな男だ。若干の垂れた目は気弱さを感じさせる。どことなくアライグマを彷彿とさせる顔に心の中でその客を「アライグマ氏」と呼ぶことに決めた。
「ああ、いらっしゃい」
おでん屋の大将が億劫さが混じった笑みで応え、いそいそと立ち上がった。アライグマ氏は「すみません、お邪魔します」と律儀に頭を下げ、男の隣に座る。
「いやあ、近くに住んでるんですけど、初めて来ましたよ」
仕事帰りに一杯引っかけに来ただけなのだろうか、酔いが回っているような雰囲気はなかった。彼は不慣れに大根と筋かまぼこ、巾着を注文する。大将がおたまで具材をすくっている間、アライグマ氏はまさにアライグマさながら、手を擦り合わせていた。
そこに光る結婚指輪に男は盛大な嘆息をする。
いいなあ、結婚。
その思いもやはり声となってしまっていたようだ。隣に座るアライグマ氏は少しぽかんとして、それから曖昧な笑みを作った。
「結婚なんていいもんじゃないですよ」
しまった、と男は顔を歪める。「結婚なんて」と言うのに限って自虐を装った自慢をする、と相場が決まっている。自制心の薄弱さに後悔していると、大将がアライグマ氏に皿を差し出した。
いいタイミングだ、立ち上る湯気が自分と彼との壁にならないものか。
男は荒唐無稽な期待を抱いたが、叶うべくもなかった。アライグマ氏は箸に手すらつけず、ぽつりと溢した。
「別れるかもしれないんですよ」
「え?」
「この前、妻とちょっと言い争いになりまして……だから、今日も家に帰りにくくて」
「だからって仕事帰りに屋台かあ」酔いのせいで敬語を使うのも忘れてしまっていた。「そりゃなおさら険悪になるんじゃないの?」
「こういう遊びにも手を出した方がいいのかなって思ったんですよ」
「わっかんねえなあ」
アライグマ氏は苦笑を浮かべ、大将からビールを受け取る。ふとテレビに目を向けると八回裏、大将の応援しているチームの攻撃に移っていた。ピッチャーが内角に鋭い球を放り、バッターは手を出せずに終わる。見逃し三振、テレビ越しにスタンドの溜息が聞こえてきた。
そこにはアライグマ氏の溜息も混ざっていた。
「つまんないって言われたんです……挙げ句の果てに私といるよりテレビを見てる方がよっぽど楽しいって。いろいろやってみたんですけど」
「空振り、いや、見逃しってか」
男は熱燗に口をつけながら横目でアライグマ氏を覗き見る。確かに遊びを知らなさそうな顔をしている。いつ結婚したかなど訊くつもりもなかったが、往々にして中年の女性は刺激を求めるものだ――
――いや、年齢も男女も関係ないかもしれない。だからこそ、なあなあな関係にあった自分たちも別れることになってしまったのだ。
男は電話口で切り出された通告を思い出し、胸の内に赤黒い塊が発生するのを感じた。怒りとも悲しみとも言えない感情が渦巻き、気付けば自分への批判を相手に向かって口にしていた。
「あんた、悪いこととか何にもしなさそうだもんなあ」
アライグマ氏は神妙な顔つきで訊き返してくる。「悪いこと、ですか?」
「そうだよ、ちょい悪オヤジとか知らない?」
「そういうのに疎くて……ファッションでしたっけ」
「あれって恰好だけじゃなくてさ、心意気っていうか、全身から滲み出るオーラっていうか……つまり、経験がなきゃだめだと思うんだよ。別に犯罪をしろって言ってるわけじゃないけど」
違う――男は言葉を吐き出すとともに後悔している。つまらなかったのはアライグマ氏ではない。自分自身だ。
週末、恋人の家に訪れようと思えば行くことができた。呼ぼうと思えば呼べた。それを「今週も疲れた」で終わらせていたのは他ならぬ自分だ。男が女に与えるだけが恋愛ではないことは重々承知していたが、それでも何も与えようとしない男に女は惹かれないだろう。そして、最後まで自分の思いを告げなかった。
「どうかしました?」
アライグマ氏の視線に「いや」と返す。たった今知り合ったばかりの彼に情けない顔を見せたくなくて、男は強がった。
「なんでもないよ。まあ、あんたはもっと広い世界を見てきた方がいいかもな。……あ、そうだ」
男はふと思い立ち地べたに置かれた鞄をまさぐった。取り出したのはずっと大事にしていた地図だ。自分が回ってきた土地に印をつけた地図。勲章のように大事に持っていたが、これこそがくだらないプライドの表れなのかもしれない。
そろそろ足を踏み出すときが来たのだ。
「なあ、これ、やるよ。参考にでもしてくれ」
「地図、ですか? これ、どこの国でしょう」
「どこだったかな、忘れたことにしておくよ」
アライグマ氏はやはり律儀なようで、突き返すことはせずに古ぼけた地図を鞄の中へとしまい込んだ。なんだか同族意識を感じ、乾杯をする。大将が歓声を上げる。いつの間にか野球の試合はとんとん拍子に進んでいて九回表の攻撃が終わったところだった。ベンチへと引き上げていく選手たちを見ていると、アライグマ氏の躊躇いがちな「あの」が聞こえてきた。
「あの、とても不躾なんですが……あなたも恋人とうまくいってないんですよね?」
「な」なぜ、それを。
「すみません、ここに来たときに聞いちゃってて……それも何度も」
口に出していたのか。男は愕然とし、大将に視線を移す。どうりで反応が鈍かったわけだ。同じ言葉を繰り返す酔客に呆れ果てていたのだろう。羞恥心が酒気と混ざり、顔が赤くなっているのを実感した。
男は傍らに置かれている水を飲み干す。同時にアライグマ氏は続けた。
「失敗談で助言するのは恥ずかしいんですが……ちゃんと気持ちを伝えました?」男の顔が固まったのがあからさまだったのか、アライグマ氏は眉を上げる。「やっぱり……。なんかそう言うのって口に出さなきゃだめみたいですよ」
「そんなこと言われてもなあ……今さらなんて言ったらいいのか……」
「定番は『愛してる』とかなんでしょうけど」そこでアライグマ氏は自分の前に置かれている皿に目を落とし、言った。「大根、筋かまぼこ、巾着、なんてどうです?」
「どういうこと?」
彼はおでんのネタを順番に指さし、一語一語区切りながら、妙案のように応える。
「『大、す、き』、ですよ」
そのくだらなさに男は噴き出した。確かにそんなことでは「テレビよりもつまらない」と言われるはずだ。アライグマ氏は恥ずかしそうに頭を掻いている。
しかし、なぜか、男は彼の言葉に勇気づけられている。
少し悩み、男はポケットから携帯を取り出した。電話帳から恋人の電話番号を探そうとしてやめる。初めて彼女に電話したときのことを思い出し、慈しむように頭の中に記憶している数字を押していった。
『さあ、ここでホームランなら一挙四点!』
テレビから響いた実況の声に意を決し、男は通話を開始する。カキン、と澄んだ音が鳴り、実況ががなり立てた。
『これは大きいぞ、入るか、入るか、入ったあ! 逆転サヨナラ満塁ホームラン!』
逆転になるのか、サヨナラになるのか――ぐっと唾を飲み込み、コール音を待つ。
背後で聞き慣れた着メロが鳴り響いたのはそのときである。
思わず立ち上がり、暖簾を上げると、そこには遠く離れた場所に住んでいるはずの恋人の姿があった。
「気付くの遅い」彼女は寒そうに震えながら睨んできている。「面と向かって別れなきゃ気がすまないんだよね」
「なんで、ここに」
「だって金曜の夜はここに来るんでしょ。場所訊いたらその人が連れてってくれて」
突然の事態に慌てふためき、アライグマ氏に視線を移す。彼はこうなると知っていたかのように穏やかに笑っていた。
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