中年、生き方に惑う

 意を決して風俗店へと赴いたはずなのに、私は客の男に話しかけていた。


 誤解しないで欲しいのは私は同性愛者ではない、ということだ。別に彼らに対して差別意識を持っているわけではなく、事実として。

 また、好き好んで風俗店に訪れたわけではない、ということも。

 十年前に結婚していて以来、妻に対する愛情はまったく冷めていない。なんなら家の電話番号を教えるから聞いてみてくれ。きっと妻はこう答えるだろう――「主人はいい夫です。『愛してる』って言葉にしてくれるくらいなんですよ」と。


 ではなぜわざわざソープランドに足を運んだかと言えば、何のことはない、上司に命令されたからだった。世間には不況がのし掛かっていて、金を払って性欲を発散させるなど小金持ちか独身貴族、あるいは性欲旺盛な人間くらいしかいない。少なくとも私はそう思っていたのだが、上司が言うには「風俗は男のたしなみ」であるらしい。彼はその主張をさんざん押しつけてきて、挙げ句の果てに体験レポートを出さなければ減給だ、と脅してきたのである。上司はプライドが高く、意見を否定されると烈火のごとく罵声を浴びせるような男だ。逆らえるわけもなく、私は鞄の中にレポートを書くための道具を詰め込んで、紹介された店を訪れていた。


 ピンクの看板がかかった、レンガ調の入り口。

 身持ちが固いのがちょっとした自慢である私にとって、その扉はあまりにも禍々しい。そもそもこれまで抱いたことがあるのは妻だけなものだから、罪悪感が勝っている。反発する磁石のようにうろうろとしているうちに十分以上も時間が過ぎてしまっていた。


 彼と出会ったのはそのときである。


 ジーンズに白いシャツの、二十代後半か三十代前半と思しき男だ。彼は、淀んだ路地裏を颯爽と闊歩し、私がいつまで経っても触れることのできなかった扉へと軽々と手を伸ばした。行く先は性風俗店だというのに、一陣の風を彷彿とさせる爽やかな速度だった。


「あの、すみません」


 口が勝手に動いたのは、きっと彼の、淀みのない潔さ、みたいなものに圧倒されていたからかもしれない。だが、とにかく気付けば私は声をかけていた。

 立ち止まった男と私の視線がぶつかる。怪しいと思うのも無理はない、彼は訝るような目を向けてきていた。


「……なんです?」

「えっと、私、こういうところ初めてで、何かコツとかあるんですか」

「……コツ?」そこで男は相好を崩した。「そんなこと、訊く人、いるんですか?」

「あ、やっぱりおかしいですよね」

「まあ、でも、俺に訊いたところで意味ないですよ。俺も来たことないですし」

「え」


 その割に緊張や罪悪感は見受けられない。力が抜けている、というか、気が抜けている、というか、とにかく自然体で、私は一人で合点した。


「あ、この店が、ってことですか?」

「違いますよ。こういう店全般、ってことです」

「……嘘ですよね?」

「どうして嘘を吐かなきゃいけないんですか」


 男はからからと笑って、店の扉を一瞥したあと、頭を掻いた。「なんかそういう気分じゃなくなっちゃったなあ」と言って、私を喫茶店へと誘ってくる。性風俗店から喫茶店に行き先を変えるのは世の中でも我々だけかもしれない。元々話しかけたのは私でもあり、同行することに決めた。


 土曜の昼、駅前の喫茶店はそれなりに混み合っている。私たちは端の席に座り、アイスコーヒーを注文した。自己紹介から始まった会話は舵を何度か切っているうちにどんどん行き先が変更され、終いには私の人生相談じみたものへと行き着いていた。


「自信がなくなっちゃって」


 三十歳である彼に四十歳である私が語るべき内容の話ではなかったかもしれない。しかし、四十にして惑わず、そう言った孔子に「本当ですか?」と問いただしたくなるくらい、私は惑っていたのだ。


「それなりに出世はしてるつもりなんですけどね、昔から運動もできたし、成績もそれなりによかったんです」

「奥さんだっているんですよね」彼は私の左薬指をちらりと見る。

「ええ、大学の時に出会って……結婚するまでずいぶんかかりましたが。そんなときに上司に言われちゃったものだから」

「なるほど、それでソープに」


 彼の明け透けな言葉に私は思わず辺りを見回した。週刊誌やテレビでは性的な話題が人の目を惹きつけるが、一般的な場においてはその限りでなく、公衆の面前で性生活を暴露されるのは堪らなかった。しかし、有線放送から流れるポップミュージックと喧噪が覆い隠していたらしく、誰もこちらに視線を向けていない。

 ほっと息を吐くと青年は呆れるように言った。


「結構いるんですよ」

「なにが、ですか?」

「性欲の強さが人間の価値を決めていると思う人。馬鹿らしいって思いません?」

「まあ……」私は上司の顔を思い出して歯切れ悪く応える。「でも、生物が子孫繁栄のために生きているというなら、間違いではないかもしれない」

「毒されてる!」


 彼の嘆きは鋭く喫茶店の中の空気を貫いた。店員と客の無言は非常識さを戒めてきていて、私はぺこぺこと頭を下げる。

 注意すると、彼は音量こそ落としたものの、熱を上げ、続けた。


「いいですか、人間の価値を決めているのは」

「決めているのは?」

「……なんなんでしょうね。腕力とかにしておきます?」


 なんだ、それは。

 途端に力が抜け、崩れ落ちそうになった。グラスに刺さったストローまでもがぐらりと揺れる。


「まあ、とにかく性欲じゃないことは確かですよ」と彼は咳払いをする。「ということで、今度こそソープ、行きますか」

「え」私は戸惑う。「それは」

「ああ、違いますよ。客としてじゃなくて」


 まさかあの店の従業員だったとでも言うのだろうか。それにしてはあまりに迂遠な勧誘だ。一度、性を否定したのも意味が分からない。

 それを言うと、彼は爽やかに首を振った。


「オヤジが今、あそこで腰を振ってるんですよ。お袋がやめてくれって泣いてるのに続けてるからとっちめてやろうと思ってたんです」


 私は唖然とし、それから彼の名字を思い出した。偶然以上の何かを感じた。彼の名字はあの忌々しい上司と同じで、あの店は上司の行きつけだったからだ。

 喫茶店を出ると、青年は大股で再び性風俗店へと歩いて行く。あとを追う理由などなかったが、足は勝手に動いている。いかがわしい看板を横目に進み、例の店へと辿りつくと、そこで私と彼は同時に「あ」と声を上げた。


 店から出てきたのは、まさしく、「風俗は男の嗜みだ」と言ってのけた私の上司である。やに下がった顔はどこか開放感に満ちており、風に乗って石鹸の香りが漂ってきていた。定年間近の男には相応しくない甘い香りにむかむかとした不快感を覚える。

 上司は息子と私が一緒にいることを不可解に感じたのか、わずかに眉を顰めたあと、下卑た笑みを浮かべた。同類が増えたかのような笑みは聞こえるはずのない声を私に届ける。「いいぞお、この店は」それは私の想像の中で作り出されたものに過ぎないのだが、しかし、確かな音として鼓膜を震わせた。


「オヤジ」と私の隣にいる青年は怒りを滲ませる。「やめろって言ったよな」

「言ったが、それがどうした?」

「お袋が泣いてるんだぞ。ちょっとは自重とかないのかよ」

「あのな」上司の声色は不遜で、一点の曇りもなかった。「お前は死ぬまで同じ食事で生きていられるか? 性欲も変わりないだろう。同じ女ばかり抱いていると飽きが来る」


 何かが頭の中で弾けた。

 いや、何かなどと濁すのはよそう。私が抱いたのは紛れもなく怒りだった。

 既婚者が性風俗を利用することについての是非はたびたび議論になる。私はどちらかの立場についているわけではない。だが、やめてくれと願われたらやめるべきだ。にもかかわらず、上司は悪びれもせず、自分を正当化している。 

 その怒りが、私の反応を一瞬鈍らせた。


 気付けば、見るからに温和だった青年が跳躍していた。飛びかかり、揉み合っているうちに親子は地面に転がる。人気のない路地裏で、誰が見ていると言うこともなかったが、まずい、と感じた。

 上司は自尊心が服を着て歩いているような人間だ。いくら自分の息子と言えど、恥をかかされたなら容赦はしないだろう。


「や、やめろ!」


 私と上司の声が重なる。いつの間にか、青年が上司に馬乗りになっている。青年の拳は固く握りしめられていて、目は興奮でぎらついていた。

 人間の価値を決めているのは――腕力とかにしておきます?

 彼の言葉が脳裏を過ぎる。止めなければならない。私は咄嗟に青年へとしがみついた。彼はもどかしそうに腕を振り、私を突き飛ばそうとしてくる。


「放してください! こいつ、一発殴られなきゃわからないんですよ!」


 青年の鬼気迫る表情に私は気圧された。上司も同様だったようだ、「ひっ」と短い悲鳴を漏らして、硬く目を瞑っている。プライドがはぎ取られた素の反応は、上司らしくない弱々しいものだった。

 そこで、私の中で燃えていた炎が収束した。

 青年を押さえつつ、片手を伸ばして地面に投げ出された鞄から使い捨てカメラを取り出す。体験レポートというのだから写真を撮らなければいけないだろうと思って持ってきていたものだ。既にダイヤルは回してあり、ボタンを押すとカチリ、と乾いた音が鳴った。薄く目を開いた上司は震えながら、私を見つめている。


 ダイヤルを回す。ジジジ。シャッターを切る。カチリ。ジジジ、カチリ。

 青年の動きはカメラに切り取られたかのように固まっていた。上司も呆然としたままだ。息子に馬乗りにされた情けない男の姿に私の口から笑い声が出て行った。


「いやあ、部長も案外怯えたりするんですねえ。同僚たちが見たらきっと見直しますよ」


 恥という感情の色は赤のようだ――かっ、と上司の顔が紅潮する。私の意図に気付いた青年は噴き出し、馬乗りになったまま笑い声を上げると、何事もなかったかのように立ち上がった。これが自分の親を攻撃するもっとも効果的な手段だと思ったのか、私の手からカメラを取り、地面に転がる還暦間近の男を写真に撮った。


「オヤジ、女を抱くときもこんなふうに転がされてるのか?」


 上司ははっとし、いそいそと身体を起こす。その拍子に服から砂が落ち、苛立たしげに払いながら、彼は喚いた。


「お前ら、許さんからな! だいたい、こんな場所、誰でも来ているだろう! お前だって」突き刺すように私に指を向ける。「結局は金を払って女を抱こうと思ったからここに来たんだろう! お前の妻に連絡してやるからな!」

「あ、そうですか」


 私は鞄の中から手帳を取り出し、家の電話番号が記されたページを突きつけた。

 電話をするならしてみるがいい。なんにせよ、私は店には入らなかった。入ろうとしたのは事実だが、妻はこう言うだろう。「でも、利用はしなかったんですよね。主人はいい夫です」と。きっと彼女はその一点を評価してくれる。

 私が少しの動揺も見せないと悟ると、上司は狼狽え、舌打ちをして小走りに駅の方向へと逃げていった。私は青年と互いの顔を見合って、同時に笑った。


「ああ、いい気分だ」青年は称えるように私の肩を叩く。「あなたがいてよかったです」

「私の方こそ」

「その写真、今から、現像しにいっちゃいます?」

「……必要かな?」

「それを見ながら一杯、酒でもやりましょうよ」それから、彼は冗談めかして言った。「気分がよくなったらソープにでも」

「馬鹿を言わないでくれよ。きみにだって恋人くらいいるだろう」

「それがいないんですよね」


 青年は大袈裟に肩を落とす。会社にいる女性でも紹介してやろうか。そう思いながら、彼と一緒にその場を離れた。明日からの仕事には支障が出るかもしれないが、長年悩まされた強大な敵を倒したようで、不思議と気分がよかった。

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