青年、異世界を救う
「ぐぅっ……私の負けのようだな……だが、安心するな! 私が倒れても新たな闇が再びこの世界を覆い尽くすであろう!」
「えっ、マジで?」
おどろおどろしい装飾がなされた魔王城、その玉座の前で、青年は大いに焦った。
彼が剣と魔法のファンタジーへと召喚されてもうしばらくが経ってしまっている。そろそろ和食が恋しかったし、風呂にも浸かりたい。単位もやばい。シャワートイレどころかトイレットペーパーすら存在しない世界からようやく帰れると思ったのに、これだ。
同じような敵が出現したらこの世界の人々は自分を頼ってくる確信があり、青年はしばらく悩んだあと、「ちょっと」と後ろに控えていた魔法使いに声をかけた。「こいつに回復魔法をかけてくれ。ぎりぎり生きてられるくらいのやつ」
「え、あの、勇者さま?」
山高帽子を被った魔法使いがどんぐり眼をぱちくりとさせている。小柄な彼女は理解できないというように整った顔面を歪め、青年に訊ねた。
「どういうおつもりですか……? だって、この魔王は」
「いいからいいから、大丈夫。楽勝だったろ?」
魔法使いはしばらく躊躇していたが、青年に肩を抱かれると顔を赤らめ、おずおずと頷いた。不承不承といった具合ではあるが、魔法を唱える。すると、魔王の身体にあった痣が消えていった。
魔王は不可解そうに青年を窺う。
「……貴様、手心を加えるのか」
「いやいや」青年は苦笑し、首を横に振った。「それ、どういうシステム?」
「え?」
「いや、お前が死んだら新しい魔王が出てくるんだろ? お前、今、そう言ったよな」
「え、あ、その、それはなんというか」
要領を得ない返答に青年は苛立つ。これでよく魔王軍なんてものを指揮できたものだ。日本なら中間管理職も勤まらないだろう。上司と部下の板挟みになり、そのたびに愚痴を漏らしていた父親の姿を思い出していた。
思春期の頃は電話越しにぺこぺこと頭を下げる父親を軽蔑したものだが、それも昔だ。大学生になり、アルバイトを始めると父親が偉大な人物であることを思い知らされた。家族を養うために役割を演じるのはなかなかできるものではない。青年の家庭は決して裕福ではなかった。だが、それでも青年の父親は我が子を格闘技の道場にも通わせ、大学の学費さえ捻出してきたのだ。
にも関わらず、この魔王はなんだ。
トップに経つなら相応の態度というものがあるだろう。
青年はなんだかむしゃくしゃして、床に膝をついている魔王を蹴り飛ばした。ぎゃっ、と短い悲鳴を漏らして魔王は後ろに転がった。
「もっかい聞くぞ。それって『魔王』に循環システムがあるってことだよな……肉体に依拠しないエネルギーが別の誰かに移動するってことでいいのか?」
「え、あ、はい……あの?」
「お前が死ぬことによって対称性が破れるって考えるべきか……いや、量子のもつれのほうが自然か? 魔王の死が観測されることによって、量子テレポーテーションが生じて誰かが『魔王』たる存在になる……魔法がそこに影響を及ぼしている?」
敵である魔王も、味方である魔法使いや戦士もぽかんと口を開けている。その一方で青年はぶつぶつと呟き続けていた。
ああ、くそ、文転なんてするんじゃなかった。青年の中にあったのはその後悔だけだった。興味はあったけれど、青年には物理は難しすぎたのだ。大学の教養科目である「最先端の科学技術」を履修していたおかげで概要は知っているが、あくまで上っ面の知識に過ぎなかった。
青年はがしがしと頭を掻く。
「面倒だな……サークルでも物理学専攻のやついねえし、考えても意味ねえ……まあ、いいや。どっちにしろ、お前が死ぬか、その観測で新たな魔王が生まれるって考えることにしよう。ああ、だから魔王を封印してたのか。なあ」
呆けていた魔法使いはびくりと肩を震わせた。「あ、はい、なんでしょう」
「封印ってどのくらいのスパンで解けるの?」
「十年とか二十年ですが……」
「えー、三十で魔王退治はちょっといやだな」
「おいおい」痺れを切らした戦士が青年を焚きつける。「なに言ってるのか分からねえけどよ、ぶっ倒しちまおうぜ。とりあえずそれでみんな安心するんだから」
「ばか、脳筋、ばか。対症療法的なもので済ませてるからいけないんだろ。不安を解消したい気持ちは分かるけど、必要なのは根本的な対策だって」
とは罵ったものの戦士の言葉も理解できるため、青年は頭を悩ませる。殺しても封印してもだめ、この世界の人間が勇者を求めるのも自然なこととも言えた。RPGにありがちな無限の許容量を持つ袋には知恵の丸薬が入っていて、飲めば画期的な解決方法が思いつくかもしれないが、研究者に渡すためにわざわざ残したものである。使いたくはなかった。
どうしたものか。
ブーツの踵を鳴らす。かつかつと硬い音が響き、それから、青年はぽんと手を叩いた。
「そうだ!」
「何か思いついたんですか、勇者さま」
「俺がずっと見張ってよう」
戦士が「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。一オクターブ上がった声にはあからさまに制止の意味合いが含まれているようにも聞こえたが、青年は無視する。
「楽勝だったんだし、できるだろ」
「いやいや、寝首を掻かれたらどうするんだよ」
「大丈夫大丈夫」
青年は腰に提げていた袋を外す。サイズは小さいがこいつには何でも入るのだ。もし内部で魔王が死んだとしても観測されることはない。食料をたまに放り込んでおけば餓死することもないだろう。
「じゃあ、魔王、暴れるなよ」
いやがる魔王の足を袋に突っ込む。西遊記に登場する紅ひさごよろしく、魔王は叫び声とともに袋の中へと吸い込まれていった。青年は黒々とした空間が広がっている袋に口を当て、哀れな魔王に言ってやる。
「改心したらたまに外に出してやるからなー! あと、身体は鍛えておくべきだぞー!」
敵がいなくなった魔王城にはしんとした静寂が広がっている。
これで一件落着だ。名残惜しさもあるが、ようやく日本に帰れる。帰ったらこの世界で得たものを使って起業でもしようか。研究者を信じさせることができれば絶対に大金持ちになれるし、女性も腐るほど寄ってくるだろう。世界的な有名人になるのも間違いない。教科書に載ったり、至るところで賞賛されたり……この世の支配者のように扱われる可能性だってある。
青年はその魔王的思考にほくそ笑み、スキップをしながら城を去って行った。
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