〈人生〉「或る男の一生」
少年、サンタクロースを襲う
パパは「早く寝ないとサンタさんが来ないよ」って言ってたけどぼくには寝るつもりなんてなかった。昼にこっそり買っておいた大人用の栄養ドリンクをごくりごくりと飲み干すともう目はギンギン。二本持ってきていたけれど、一本だけで明日の朝まででもずっと起きていられるような気がした。
別に「サンタさんに会いたい」って思ってるわけじゃない。
ぼくはただ、サンタクロースを捕まえたいだけだった。
だって、ぼくの誕生日はクリスマスで、いっつも損した気分になるんだもん。クラスのみんなは誕生日にプレゼントを一つ、クリスマスにプレゼントを一つ、合わせて二つももらう。でも、ぼくは一つだけ。値段は半分だ。実に四分の一。だから手っ取り早くサンタクロースを襲って、たくさんのおもちゃが入っている袋をかっぱらってしまおうと考えたわけ。
でも、相手は世界中を一晩で回ってしまうような人だ。ちょっとした油断が命取りになっちゃうかもしれない。そのためにぼくは今日までたくさんの準備を重ねてきた。
まず一つ、身体を鍛えること。これは簡単だ。ぼくの家の近くには格闘技の道場があって、名前が「黒龍覇王会」ってなんとも漢字だらけのところなんだけど、そこに行った。ぼくには才能があったみたいで、一日で全部の技をマスターした。道場帰りに二メートルくらいはありそうな男の人たちに襲われたけど、楽勝だったからきっと大丈夫だ。まあ、それが逆に不安でもあるんだけど。
でも、身体だけじゃ足りない。サンタクロースはぼくの何倍も生きている大人だからきっと頭もいいはずだ。ぼくはクラスでも成績はあまりよくないほうで、勉強したってそんなに効果が出るとは思えなかった。じゃあ、どうしたらいいかな、って考えて、一つ名案がひらめいた。
ぼくのパパは若い頃に色々なところを飛び回っていたらしくて、書斎にはいろいろ訳の分からないものが置いてあって、その中には珍しい薬なんてのもあるのだ。パパもその国の字が読めないみたいで丁寧に日本語で「頭がよくなる薬」ってシールが貼られているやつ。
ぼくはそこから一粒、白い玉の薬をくすねたんだ。ぼくは馬鹿だからもっと必要かなとは思ったけど、一回に一粒って書かれてたから一粒だけにした。テレビのCMでもそういうのはちゃんと守れって言ってたし。
本当は試した方がいいのかもしれない。でも、試してパパにばれたら大変だったから今はパジャマのポケットに入ってる。ぼくは暖かい布団の中でもぞもぞと動いてそれを取り出して、飲み込んだ。
すると、どうだろう。
私の思考形態は十歳児のものから劇的な飛躍を遂げたではないか。脳回路が研ぎ澄まされている気分だ。知識すらも補填されているようだった。これはおそらく無意識下の学習だろう。人間の「忘却」というシステムは記憶を捨て去ってしまっているのではなく、言うなれば頭の中にある
しかしながら、一抹の不安が過ぎるのもまた事実であった。
赤服の老爺が私よりも格下という保証はない。今ある知識のみで対抗できると決めつけるのはあまりに傲慢で、あまりに自信過剰とも言えた。
私は本棚に並べられた書物の背を眺める。彼が来るまでは十分な猶予があるはずだが、不幸なことに参考になりそうな資料はなかった。
書斎には何かいい本はあっただろうか。
だが、扉に手をかけたところで私の動きははたと止まった。
――果たして世界中の少年たちに玩具を与える彼を捕まえるのは正しいことなのか? 計画が成功すればあとに配達されるはずだった同世代の少年たちは落胆に沈むに違いない。
善と悪、答えのない疑問に懊悩する。
たっぷり十分ほど悩んでから、私はゆっくりと頷いた。
諦めたわけではない。おそらく、明日の朝にはこの知能は十歳児たる本来のものへと戻るだろう。そのとき、私は後悔するはずだ。挑戦せず、分かりきった顔をして意志を翻すのはきっとこれから数十年にも及ぶ人生に暗い一点の染みを残す。
初志貫徹だ。私はその独善的な決意を胸の中で燃やした。そして、独善的であるならばせめて正当で公平な行動をしようと誓った。サンタクロースは私が入念に準備を重ね、待ち構えていることなど知らない。その上で罠まで仕掛けたら彼に勝ち目がなくなってしまう。私は自身の能力のみで立ち向かうことに決めた。
なあに、心配はない。屈強な男たちを指一本で制圧した経験だってあるのだ。
六畳の洋室、私はその中心に立って間取りを再確認する。背後には扉、正面にはベッド、その先には窓がある。左手には押入、右手にはアニメのキャラクターが描かれた学習机。採光用の格子窓があるが、そこは勘定に入れずともよいだろう。
私の部屋には暖炉がない。サンタクロースが物理的な侵入を試みるならば扉か窓を経路とするはずだ。両方を同時に警戒することも可能ではあるが、わざわざ選択肢を与える意味もなかった。私は扉からの侵入を防ぐために部屋の隅に投げ置かれていたゴム製のバスケットボールを手にする。
施錠できないタイプの扉ではあるが、内開きでよかった。扉の端にボールを置き、少し押し込めば摩擦の力で鍵の代わりとなるのは既知の事実である。
しかし、ここで予想できないことが起こった。
誰かが階段を昇ってきているのだ。私は聴覚を尖らせ、その歩調と足音からパパのものであると判断した。パパは時々、就寝時に私の部屋を覗く。扉が開かないと知ったら不審に思うはずだ。それだけではない。私のこのやり口は既に知られていて、攻略法も見出されている。もし私が眠りに就いていないことが露見したらすべてが水の泡となってしまう。
――パパはサンタクロースと裏で繋がっている。
私が希望する玩具をサンタクロースに伝えたのはパパに他ならない。どういうネットワークを媒介して伝達されているのかは隠匿されていたが、それは確実だった。ここで焦り、ベッドに飛び込めば物音が立つ。その不用心な行動をパパに猜疑心を与えるだろう。そして、パパはサンタクロースにこう言うに違いない。
「すみません、うちの子はまだ寝ていなくて……今年はいいです」
あるいはこうだ。
「サンタクロースの旦那、悪ガキが何か企んでいますぜ。寝かしつけておきますか?」
足音が近づいてくる。一瞬の逡巡ののち、その場に留まることを決意した。寝ようとしていないことを知られるよりも寝られないと装った方が自然に思えたからだ。私はその場に座り、静かにバスケットボールを転がす。同時に、探るような用心深さでドアが開いた。
「あれ」とパパは少しだけ狼狽える。「まだ起きてたのか」
「うん、サンタさんが来ると思うと寝られなくて」
「……サンタさんは恥ずかしがりなんだ。寝てないと来てくれないぞ」
普段通りではない声色に私は疑念を抱いた。
感情の揺れが隠蔽されている――それに、どうしてパパは部屋の中に入ってこない? 私が寝ていないとき、パパはいつも肩に手を押してベッドまで連行していくのに……。扉の隙間から顔を覗かせているばかりパパに得体の知れない疑念が膨らむ。だが、それを解消する術などあるわけもなく、ひとまず私は命令を了承することにした。
ゆっくり頷くとパパは莞爾たる笑みを浮かべ、扉を閉める。
日常ならざる行動――それが油断を招いていたと知ったのは冷たい風が窓から吹き込んできたからだった。いつの間にか窓が開いている。カーテンがはためき、その隙間からそりが垣間見えた。まさか、とベッドに目を向けたがプレゼントらしき包みは未だ存在しなかった。
――サンタクロースが来る!
その警戒は容易く裏切られた。いや、それは正確ではない。何かが私目がけて突進してきている。茶色の毛並み――トナカイ。そうだ、なぜ、私は忘れていた? サンタクロースは二体の獣を操って行動している。獣の感覚を用いて索敵するのは予想しておくべき事態だった。
しかし、だからと言って焦る必要はない。「黒龍覇王会」には獣相手の技術も存在する。私は宙を滑るように向かってくるトナカイをいなし、床にそっと投げ置いた。目の前でサンタクロースが窓枠に足をかけている。大きな袋を担いだ老爺は鋭い視線でこちらを睨んでいた。
――さあ、勝負だ。夢と希望、そして玩具の詰まった袋を置いていけ。
私は床を蹴り、サンタクロースへと突撃する。
だが、その瞬間、視界がぐらりと揺れた。倒れる間際、目に映ったのは床に転がるバスケットボールだった。
トナカイめ――蹴ったのか。主人を守ろうと。
ああ、やはり十歳児の知識では対策が足りなかったのだ。万全を捨て、くだらない矜恃に溺れた私の負けだ。
迫り来る激突の予感に私は目を瞑る。
「おっと、危ない」
だが、その瞬間は一向にやってこなかった。ベッドの上にいるサンタクロースは片手で私を受け止めている。老爺とは思えないほどの膂力で――彼は私を持ち上げ、それからゆっくりと床に降ろした。
「慌てちゃいかんよ。プレゼントならあるからね」
プレゼントなどもうどうでもよかった。「……なぜだ、なぜ、助けた」
「何を言ってるのかわからんが……そりゃ助けるだろう」
老爺の微笑みは柔らかく私を打ちのめした。完全に敗北したことを悟ると不思議と苦笑が漏れる。私は嘆息し、布団の中に隠していた栄養ドリンクを差し出した。
「持って行ってくれ。これは私からの餞別だ」
「ほほう……サンタクロースになってから十年も経つが、子どもからプレゼントをもらうのは初めてだ。ありがたくいただこうかね」
赤服の老爺は茶色の小瓶を受け取り、それと引き替えに、リボンのついた包みをベッドへと置いた。受け取れないと強弁しようとしたときには既に彼はそりへと移っている。
「パパには内緒じゃぞ――メリークリスマス」
ささやかな鈴の音を鳴らしながらそりが遠ざかっていく。その頃には私の中に渦巻いていた敗北感は消え去り、心には何か清々しい、あたたかなものが充満していた。小声で「メリークリスマス」と返す。聞こえていたのか、鈴の音が大きくなった気がした。
次の日の朝、ぼくはサンタさんからのプレゼントを机の下に隠して、一階へと降りていった。サンタさんと約束したもんね。でも、なんで「パパには内緒」って言ったんだろう。ぼくの欲しいものを手紙にしてくれたのはパパのはずなのに。
悩んだけれどわかるわけもなく、ぼくは朝ご飯のにおいがするリビングへと入っていった。テレビのニュースはやっぱりクリスマスのこと。女の人とお笑い芸人が楽しそうにはしゃいでいて、大人もやっぱりクリスマスが好きなんだなあと思った。
テーブルにパパがいて、その奥にあるキッチンではママが包丁を動かしている。おはようと言うと二人ともこっちを向いて「おはよう」と言った。でも、二人ともちょっと様子が変だ。少しもじもじしながら目をきょろきょろさせている。
「な、なあ、今年はサンタさん、間違えてプレゼントをリビングに置いていったみたいなんだ」
「え」
「ほら、これだよ……もしかしたら欲しがってるものと違うかもしれないけど、文句はいけないからな」
パパは変な笑い方をして大きな箱をテーブルの上に出した。なんのこと? サンタさんはちゃんと来たよ? ぼくはそう言うのをなんとか我慢する。そのとき、テレビからお笑い芸人の大きな声が響いた。
『全国の子どもたちー! サンタクロースの正体はお父さんだぞ! サンタクロースなんていませーん!』
二人の顔がぐにゃってなる。テレビではアナウンサーがぺこぺこしてる。
……なあんだ、大人たちはサンタさんがいるってこと知らないんだ!
ぼくは笑いながらテーブルに座り、プレゼントを受け取った。お父さんとお母さんはとても焦ってたけど、気にならなかった。
だって、今年は誕生日プレゼントとクリスマスプレゼント、一つずつもらえたから。
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