〈恋心〉「八重樫せんぱい。」
唐揚げ選手権
から-あげ【空揚げ】(「唐揚げ」とも書く)
小魚・鶏肉などを、衣につけず、あるいは小麦粉・片栗粉などを軽くまぶして油で揚げること。また、その揚げたもの。
(新村出,“空揚げ”,広辞苑,第六版,財団法人新村出記念財団,2008,p.593)
から-あげ【唐揚げ】
①子どもに人気の肉料理。味付けをした肉に小麦粉などをつけて、揚げたもの。
②我がサークルにおいて争奪戦になるもの。居酒屋〈ちゃんぷ〉では一皿に六つ載っているため、五人全員が揃うと一個余ることになる。「すみません、唐揚げ選手権には一つ足りないんですけど」
(九藤やえ,“唐揚げ”,八重樫先輩攻略辞典,第一版,九藤やえ書房,20XX,p.22)
〇
「五名でお待ちの八重樫さまー!」
その声に八重樫先輩たちは同時に立ち上がり、ロールプレイングゲームみたいに統率の取れた動きで店内へと進んでいった。その姿を見るのが久しぶりだったため笑みが溢れる。そこで、レジのそばにいた女性店員のヒトミさんがこちらを見て目を細めていることに気がついた。髪を金色に染めている彼女は以前とまったく変わりない快活な笑みでわたしに小さく手を振ってくる。
「やえちゃん、おひさー。最近、来てないけどどうしたの?」
その大袈裟な物言いにわたしは呆れ、返す。
「先輩たちがみんな卒業しちゃったからですってば」
何度かしたことのある予定調和の会話にヒトミさんは含み笑いをした。それから彼女は先を歩いている先輩たちに視線を送り、声を潜めた。
「その後、やっぱり八重樫くんとは何もなかったよね?」
「う」
「やっぱ進展なしかあ。そりゃそうだよね、だって」
と、そこまで言われたところで、わたしは彼女の言葉を遮った。
「今夜、きめますから」
「お」
「上手くいく気は全然まったくしないんですけどね」
「あたしもそう思う」
「あ、ひどい」
「まあ、骨は拾ってあげるよ。箒とちりとりは準備しておいたからさ」
けらけらと笑うヒトミさんを置き去りにして、八重樫先輩のもとへと向かった。先輩たちはかつて定位置であった座敷に陣取っていて、わたしはブーツとコートを脱ぎ、お誕生日席に座る。もはや注文するものは各々の中で決定しているらしく、先輩たちはメニューを開くことすらせずに料理の名前を告げた。それを店員に伝えるのはいつもわたしの役割で、それはこの男性ばかりのメンバーの中で女子力を発揮できる機会が精々そんなときくらいしかないからなのだが、とにかく、わたしはヒトミさんに一つずつ注文していった。
いくつかの料理と、ビールを五つ。そこまで一息に言って、深く息を吸う。十年以上前のポップミュージックが流れる店内、わたしの宣言は高らかに響き渡った。
「あと……唐揚げ選手権をします」
空気が止まる。曲と曲の間にあるわずかな空白が長い沈黙を浮き上がらせ、緊迫した雰囲気がテーブルの上に充満した。開店直後だったため、客は他に二組しかいなかったが、彼らの視線もこちらへと集まっている。
「いいですよね?」
わたしは八重樫先輩たちに視線を送る。先輩たちは何を言うわけでもなく、同時にこくりと頷いた。だが、ヒトミさんは眉を顰めたまま、首を大きく横に振る。
「やえちゃん、悪いことは言わない。勝てっこないよ」
「いえ、今日が最後のチャンスなんです。絶対に勝ってみせます」
「でも」
「店員さん」
そこで声を発したのは眼鏡をかけている先輩だった。唐揚げの味を想像しているのだろうか。今ばかりは理知的な表情をぎらつかせている。
「やえが言い出したことです」
「勝算があるんでしょ」と人懐っこい笑みを浮かべて別の先輩が頭の上に手を組んだ。いつもは小動物的なかわいさがあるというのに、その口調には肉を素早く捕獲する猛禽類じみた鋭さがあった。
「……あんたら、本当にずるいね。どうせやえちゃんから言い出さなくたって唐揚げ選手権するつもりだったくせに」
「なんでそんなこと言えんの?」
髪を逆立てた先輩が指でこつこつとテーブルを叩いた。普段はひょうきんでみんなを笑わせてくれるその先輩は今も愉快げに笑っている。だが、そこには狡猾に唐揚げを狙う盗人の表情が滲んでいた。
「確証がないのに、そんなことを言って欲しくないなあ」
「確証ならあるわ」
「ほう、聞かせてみてくれないか」
浅黒い肌に黒い短髪、筋骨隆々とした体躯、唐揚げ選手権最多優勝者の先輩がじろりとヒトミさんを睨む。高タンパク質な唐揚げと過酷なトレーニングで作られたその身体に、彼女はわずかに後退りした。
「だって、あんたら今日もドラクエみたいな感じで店の中入ってきたじゃない。一人が横に逸れれば全員がそんな感じに揺れて、あれじゃやえちゃんはあんたらを抜かせない。それであんたらはやえちゃんにこの席を押しつけた! これじゃやえちゃんのポジションが悪すぎる!」
「ヒトミ!」
ヒトミさんを一喝したのは厨房にいる店長だった。タオルを頭に巻いた、気難しそうな顔の店長は鶏肉を掲げ、静かに告げた。
「――揚げるぞ」
「店長!」
「ヒトミさん」わたしは彼女のTシャツの裾を掴む。「いいんです、本当に」
その言葉にヒトミさんは苦しげに目を閉じた。わたしの覚悟が伝わったのだろうか、彼女は伝票に唐揚げと記し、それからぎゅっと拳を握りしめる。
「わかった……でも、お願いがあるわ」
「なんですか? 手短にお願いします」
眼鏡をかけた先輩に促され、ヒトミさんは小さく頷く。
「あんたらの唐揚げ選手権、五人目が唐揚げを皿に置くか、口に入れた瞬間に開始して、勝者は何でも一つ言うことを聞いてもらえる……だったよね」
「そうだね」と小動物系の先輩が肯定する。「それが、唐揚げ選手権。で、それがどうかした?」
「やえちゃんが勝ったらお願いを四つにしてよ、人数分」
ひょうきん者の先輩が鼻で笑う。「四つ? そりゃちょっと多すぎる!」
「それくらいなければフェアじゃないでしょ」
「まあ、いいだろう」それから、がっしりとした身体の先輩は不敵な笑みで言い放った。「どうせ勝つのは俺だ」
その返答にヒトミさんは顔を歪めて、注文を伝えに厨房へと向かっていった。
それきり、わたしたちのテーブルから会話は消える。ほどなくして運ばれてきたお通しとビールで形だけの乾杯をし、全員が五分の一程度だけ、胃の中に送り込んだ。それが唐揚げを味わうためにもっとも適切な量であることをわたしも知っている。保持された水分と麦の香りが肉の味を引き立てるのだ。
わたしたちの注文した料理は注文した順番でテーブルへとやって来た。まず〈ちゃんぷ〉サラダが運ばれてきて、それを小動物系の先輩が手際よく小皿にわけ、生春巻きがその上に載せられる。焦らすような配膳に緊張が高まっていった。
落ち着け、わたしは自分にそう言い聞かせて、運ばれてきた料理をテーブルの中央へと載せる。当然のごとく、先輩たちは料理に手をつけなかった。
店内に流れるBGM、軽快な音楽の隙間に揚げ物の音が聞こえてくる。
じゅわあ、と熱された油の中で肉が踊る光景を想像し、わたしはゆっくりと息を吐き、八重樫先輩たちを見つめた。四人は全員が全員とも目を瞑り、集中力を高めている。
そして、そのときがやって来た。
店長が厳かな声で「唐揚げ選手権だ」と開催を告げる。彼もわたしが今年卒業だと言うことを知っている、皿を持ったヒトミさんより先にテーブルへとやって来て、咳払いをした。それでも八重樫先輩たちは動じず、目を瞑ったままだ。
「今回は俺が審判をしてやる……いいな?」
先輩たちが首肯したのを見て、わたしも頷く。店長が脇にどけ、ヒトミさんが皿を両手に歩み出てきた。参加するわけでもないのに彼女はとても緊張した表情をしていて、おかしくなった。
「やえちゃん、がんばって」
「はい!」
ヒトミさんはそこでくすりと笑う。わたしの意志が伝わったみたいだ、彼女はそっと唐揚げを渡してきた。
皿を受け取り、わたしは口元を引き締める。先輩たちはまだ目を閉じている。そうだ、この競技で重要なのは初動ではない。裏を掻き、相手を騙す技術こそが重要なのだ。
たとえば「飛龍」という技がある。これは手首の力だけで唐揚げを飛ばし、口の中へと収めるアクロバティックなテクニックである。あるいは「空皿」というフェイントによりフライングを促す邪道の技術……その他にも、「双頭の蛇」、「神々の鉄槌」、「ムーンサルト」など、一時期猛威を奮った技術たちがあるが、詳しくは『八重樫先輩攻略辞典』を参照されたし。
わたしはできる限り音を立てないよう、そっと皿をテーブルの中央へと持っていく。その底面が接地しようか、という瞬間、先輩たちが目を見開いた。
先輩たちの視線は皿に――いや、わたしの手に集中している。
そして、誰かがぽつりと溢した。
「――箸を持たないなんて」
わたしは声を上げることができない。こつ、と音が鳴る。その音が開始の合図となった。
先輩たちの作戦は一致していた――速攻。わたしが箸を持っていないと認識した瞬間、四方向から槍のような勢いで唐揚げへと箸が突き出された。利害が一致した先輩たちは大きさではなく、位置で自分が取るべき唐揚げを判断し、一切の衝突を回避して目当ての唐揚げを確保する。
わたしがようやく自分の箸を手にしたときには既に先輩たちの動きは止まっていた。
「あれ?」
そこで、ひょうきん者の先輩が素っ頓狂な声を上げる。全員の視線が唐揚げの皿へと注がれている。
皿の上にあるのはレモンの切れ端と菜っ葉、それと一切れの唐揚げだけだった。
「店長」小動物系の先輩が顔を上げる。「すみません、唐揚げ選手権には一つ足りないんですけど」
狼狽、疑問、熟考、混乱……空気が停止し、その中をわたしの箸が直線的に進んでいく。
放たれた矢さながら、割り箸が描く直線。
それが何を示すか、気付いたのは眼鏡の先輩と体格のいい先輩だけだった。
「九藤っ! お前、既にッ!」
しかし、遅い。わたしの箸は万力のごとき力強さで、そして、母が我が子を抱きしめるがごとき優しさで、唐揚げを挟み込んでいる。勢いよく腕を引くと店内の照明を浴びた唐揚げが黄金色の軌跡を描いた。サラダの上に唐揚げが着地すると同時に店長が大きく手を叩く。
「勝負あり! ……やえちゃんの勝ちだ」
小動物系の先輩とひょうきん者の先輩は何が起こったのか分からないようで呆然としている。眼鏡をかけた先輩は頭を抱え、そして、体格のいい先輩は勢いよく立ち上がった。
「店員、お前……!」
その低い声に、ヒトミさんはかすかな動揺も浮かべない。わたしを見て微笑み、強固な確信を感じさせる口調で言い放つ。
「あら、勝負は全員が一つ目の唐揚げを確保した瞬間に始まるんでしょ? テーブルに載せられてからというルールはなかった」
「それは……!」
「そして、審判がやえちゃんの勝利をコールした。それが事実……」
先輩たちは一度目を見合わせ、それからわたしへと視線を向けてくる。勝利の喜びを感じながら、わたしは皿を渡されたときに口の中へと入れてもらっていた唐揚げの咀嚼を開始する。その動作ですべてを把握したのだろう、全員が潔く敗北を認めたかのように項垂れた。
十分に噛み砕いた唐揚げを肉汁と一緒に飲み込み、ビールで咥内の油を身体の中へと流し込む。勝利の味にほくそ笑む。
「……せんぱいたちがあのフォーメーションでポジション取りを阻害することは推測していました。だから、せんぱいたちに聞こえるよう、ヒトミさんに久々の来店であることをアピールしてもらったんです。繋がりがあると少しでも思わせないために……。当然、箸を持たなかったこともわざとです。ミスが発覚した瞬間、速攻を使ってくるでしょう? なら、唐揚げの数の確認をしないはず。ビールお代わりお願いします。そして、せんぱいたちは策に引っかかった……わたしの勝ちです」
店長が運んできた新しいビールを左手に、勝利の証である唐揚げを右手に、わたしは感情を抑えきれず、高笑いする。そこでヒトミさんが肩を叩いてくる。
「さあ、やえちゃん、勝者の権利を行使しましょう!」
「ええ……」
ゆっくりと頷き、そして、わたしは我に返った。
――あれ、この流れで告白しても成功するとは思えないな、どうしよう。
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