結:       

 鉛筆は楽器である。

 もちろん本質は筆記具であることは間違いがない。だが、私は鉛筆の先端を紙に擦りつけることによって生まれる、硬質というか、掠れたというか、あの慎ましい音楽を愛していた。それが自分の手によって奏でられるのなら最良だ。物語に付随して鳴り響く演奏はときに鋭く、ときに丸みを帯びて原稿に色をつける。

 雑談がてら、その思いを、私よりずっと若い編集者に伝えたが、彼はそれほど興味がなさそうに「そうなんですか」とだけ返してきた。


「もっと興味を持ってくれてもいいんじゃないか?」

「先生も僕のジョークに乗ってくれないですし……だいたい、それって先生だけの特権じゃないですか」

「まあ、そうだね」

「それよりもまず僕に原稿を渡してください」


 そう言って彼は椅子から立ち上がり、食料の入っている棚を物色し始めた。私の自宅だというのにお構いなしだ。とはいえ、並べられているのは彼からの差し入ればかりで、また、苦言を呈すのも今さらで、私は見なかったことにする。

 彼との付き合いはもう一年近くになる。吹きすさぶ嵐のように突然現れた彼は編集者だと名乗り、「あなたの小説を本にしませんか」という誘いを持ちかけてきた。識字率の低いこの国で出版業を営めるはずがない、と疑ったものの私はその誘いを撥ねのけることができなかった。少なくとも彼が読者になってくれるのは確かであり、また、ただでさえ少なくなった財産を奪うような詐欺などいるはずがないと思ったからだ。

 その結果、私の書いた小説は一度だけ本になった――らしい。「らしい」というのは私は未だその本を目にしていなかったからだ。原稿料すら渡されていない。薄々出任せを言っているのだな、と思い始めてはいたが、悪い男ではないのは認めざるを得ず、そのままずるずると関係性が続いていた。


「先生、昔書いたやつとかないんですか?」

「……そんなもの」


 私は引き出しの中に入った六編の短編小説を思い出し、言い淀む。編集青年はどうにも目ざとい男でその微細な反応にすら笑みを作った。


「あるんですね」

「いや、もうずいぶん昔に書いたものだから」

「別に構いませんって」


 彼の動きは素早かった。机に向かっている私の横に駆け寄ってきて、引き出しを開ける。一発で原稿の場所を探り当てられ、止める間もなく、紙の束を奪われてしまった。

 だが、私は抵抗をしない。あまりよろしくないことも書かれているが、彼は読者としては信用にたる人物だ。溜息でわずかな抗議の意を示して、執筆を再開した。

 鉛筆の奏でる音楽に、紙を捲るふくよかな音がアクセントを加える。そのハーモニーは存外悪いものではなかった。悪いものではなかったのだが、少し経ったところで異音が混じり始めた。硬く、無粋な音だ。振り返るといつの間に台所へ行っていたのか、彼の右手にはおたまが握られていた。


「この二番目の話、いいですねえ。先生らしくなくて」

「褒め言葉には聞こえないね」

「褒めてますよ、先生はあまりこういう話を書かないじゃないですか」

「それはそうだが……というかね、きみと一緒にいても全然本にならないんだから、書くも書かないもないじゃないか」

「そんなことないですよ、一冊、本になったんですから」


 嘘を吐くな。

 気を抜けば追及の言葉が出てしまいそうになり、私はぐっと堪えた。代わりに当たり障りのない思いを吐き出す。


「……継続して出すことに意義があると思うがね」

「そんなことないですよ、一回だけで大きな影響を及ぼすこともきっとあります」

「そうであったら幸せなのだろうがね」


 私は再び溜息を吐き、休憩することに決めた。少し疲れてきていたし、何より鉛筆がずいぶんちびになってしまっている。立ち上がり、編集青年に外出すると伝えた。


「好きなときに帰ってもいい、そのときは戸締まりを頼む」

「戸締まりって、このボロ家に盗む物なんてそうそうないですよ」

「事実かも知れないが余計なお世話だ」


 財布だけを持って家を出る。活気のない通りを抜け、そばにある砂浜へと向かった。

 もう私も若くない。鉛筆を取りに行くためだけに海を泳ぐ気にはなれず、波打ち際でたむろしている三人の若者に声をかけた。全員が日焼けしていて、逞しい身体をしている。何度か会話をしたことがあったため、警戒されることもなかった。


「やあ、一つ、お願いしてもいいかな」

「お、おっちゃん、久しぶりだな。鉛筆だけでいいのか?」

「ああ、報酬は前と同じでいいかな」


 それだけで若者たちは目を輝かせた。甘いものなどそうそう口にできない彼らにとって編集青年からもらった菓子はかなりの贅沢であるのだろう、誰が配給場所である離れ小島へと行くのか、議論が始まった。互いに譲らない彼らの争いはちょっとした喧嘩に発展しそうな様相を呈している。

 私もずいぶん甘い。嘆息し、仲裁に入る。


「しょうがない、届けてくれたら全員にあげるから」

「さすが分かってるね」「あんた、いい人だよ」「家まで持っていけばいいんだろ?」

「ああ、頼むよ」


 別れを告げ、私は道を引き返す。

 感心な若者だ――とは言いにくいが、それでも彼らとの会話は清涼剤となる。決して裕福ではないにもかかわらず、溌剌とした彼らの笑顔はこの国では貴重なものだった。

 圧政、と口にするのは簡単だ。だが、そんな容易な表現でこの国を言い表すことはできないし、するつもりもなかった。へらへらと声に出せるほど傲慢な人間であったなら犯罪者収容施設の職を辞めずに済んだだろう。


 ……この国は病に冒されている。

 強欲という病――際限なく肥大し、周囲に転移するその様はガンとよく似ている。そして、その病でもっとも進行が早い箇所は眼球だ。欲に目が眩んだ国王は人々のもとにあった食料や娯楽を奪い取り、ついには人そのものを収穫するようになった。何をするか、それは簡単だ。女は犯し、男は目的のない拷問にかけられる。鉄の球を飲み下させたり、火の上で踊らせることなど日常茶飯事であった。


 私は道を歩きながら、周囲を見渡す。家々の壁はあってないようなもので、注視すると横に臥した老人の姿が垣間見えることもあった。死んではいまい、そう思いつつも鼻で呼吸するのをやめる。

 ……欲に目が眩んでいるのは私も同じだ。一度でも国の中枢に関われば上級国民として扱われ、生活の心配をする必要がなくなる。そうやってすべてから目を背けて自分の中に閉じこもっていることに激しい自己嫌悪を感じた。


 家に辿りつくとやはり鍵は開いたままだった。中に編集青年の姿はない。戸締まりをしておけと言ったのに、そう独り言を漏らすと同時に嫌な予感が胸を過ぎった。

 ――原稿はあるか?

 引き出しを開けて中に原稿がないことを確認する。焦燥が冷や汗となり背筋を伝わった。机の上や便所、台所などにも目を向ける。そこにもやはり影も形もなく、おまけにおたますらも持って帰っていったようだ、いや、おたまなどどうでもいい、混乱するな。私は自身に落ち着くよう言い聞かせる。

 だが、効果などあるはずはなかった。


 あの小説は表に出してはいけないものだ。この国の批判と受け取られてもおかしくはない文面が多く書かれている。残虐な刑罰、理不尽な配給統制、娯楽として供される人体実験、王による圧政、堪えきれない搾取。それらを明らかにしたものを書いているなど政府に伝わればどうなるか、考えるまでもなかった。

 この国におけるもっとも重い犯罪は反逆罪だ。行動に起こさずともそう言った思想を持っただけで「処理場」へと送られてしまう。


 歩いていた時間は十分少々だ、まだ遠くへは行っていないだろう。

 私は編集青年を追って外へと飛び出した。その瞬間、大きな塊に身体がぶつかった。よろめき、尻餅をつく。顔を上げると二人の、筋骨隆々とした警官が立ちふさがっていた。

 彼らは陰のある笑みで私の名前を確認してくる。その声が恐ろしくてじりじりと後ろに下がり、家の中へと戻った。そうしたところでどうなるわけでもない、と知っているのに、そうせずにはいられなかった。

 この国では国民による武力蜂起を封じるために、刃物など金属の含有率が一定以上の製品は取り上げられているのだ。私の家にある金属製品はおたまくらいで、それすらも編集青年の手によって持ち出されている。


 魔王を倒す夢のような伝説の剣など、この国にはない。


 私は絶望にへたり込む。二人の警官は泥のついた靴を気にすることもなく押し入ってくる。彼らは私を羽交い締めにし、嗜虐的な笑みを浮かべて、顔を近づけた。口から漂う悪臭は獣のものに近い――おそらくは精神すらも。


「先ほど通報があった……お前は根も葉もない噂を流そうとしているらしいな」

「国家反逆罪で逮捕する!」


 絶望の底に穴が空いた。視界が狭まり、全身から力が抜ける。

 ――通報したのは誰だ?

 脳裏に浮かんだのはあの気のいい編集青年の姿だ。しかし、その笑顔はぼろぼろに崩れ、悪鬼のような表情へと変わっていく。

 そして私の中で一つの疑念が鎌首をもたげた。


 彼は初めからそのために近づいてきたのではないか? 

 ……他人を密告することによって手に入れられるわずかばかりの褒美を目当てに。

 項垂れていると二人の警官は焦れったそうに私の両脇へと腕を差し込んできた。無理矢理起き上がらせられ、私は諦念とともに引き摺られていく。口から乾いた笑いが漏れた。

 ――ああ、やはり、私の小説は本にはなっていなかったのだな。


      〇


 裁判などという高尚な機会は与えられず、全裸刑が適用された私は施設へと収容されることになった。

 かつて勤めていたときとは異なり、施設の内部には淀んだ空気が蔓延している。もうこの施設の秘密は公然のものとなっているようで、中庭や炊事場にはぽつぽつとしか人がおらず、時たま誰かとすれ違っても目が合うこともなかった。

 当然だ、私自身も顔を逸らしているのだから。


「皮肉なものだな……監視する側だった私が監視される側に回るなど……」


 全裸で過ごしていると、人としての尊厳を奪われているような気分になる。自嘲的な呟きは空調の音にかき消されるほど、弱々しいものだった。


 一気に色彩を失った日々の中でときおり思い出したのは編集青年の言葉である。この期に及んで、と思わないわけではなかったが、心というものは得てして不自由なものだ。彼は外国へ赴いた経験があるらしく、自慢げにどこかの国の諺を教えてくれたことがあった。

「衣服が人を作る」――王には王の、平民には平民の服があり、権威はその服にこそくっついているのだという。ならば、その服をはぎ取られた我々にはいったい何の権威があるというのだろう。衣服が人を作るならば、全裸で生活している者は人と呼べないのではないのだろうか。


 陰鬱とした気持ちは燦々と照る太陽の光を浴びて色濃くなっていく。

 入獄したのは十一月、そして気付けば五ヶ月が経過していた。東南アジアに位置するこの国には乾季と雨季があり、目前に雨季が迫ってきていた。

 雨期の直前、この施設では犯罪者の一斉処分が行われる。すべての窓、扉のロックシステムに異常が起こり、部屋から出られなくなるのだ。そこで我々は蒸し焼きにされ、殺される。その苦痛を想像しただけで、口の中が乾いていった。私は部屋の中にある蛇口に口をつけ、水を浴びるほどに飲んだ。この浄水システムもその日にはストップする。


 逃げよう――そんな気持ちは一切なかった。

 全裸でいる以上、犯罪者であることは一目瞭然なのだ。それにたとえ服を着たとしてもこの国には正確な顔認証システムが導入されている。離れ小島の配給所にあるものが発展したその装置は一瞬にして私の顔を識別して位置を送信する。そこで捕まれば「劇場」送りだ。拷問人と殺し合い、たとえ勝ったとしても不幸な事故に遭わせられる。かつて私の前で重機に押しつぶされた青年を思い出すと足が竦んだ。


 権力者は種々のテクノロジーによって国民を管理し、その恩恵は国民に分け与えられることもない。

 日に日に押し寄せてくる暗い未来を恐れ、私は斡旋された労働に従事することをやめた。水を飲んで空腹を紛らわし、ベッドの上で震える。肉が削げていくとともに生命が消失していくような気がした。

 ……どうせ、ひと月もしない内に死ぬのだ、少しでも苦しまずに逝きたい。

 私はそれだけを願って部屋の中で過ごし――やがて、その日が訪れた。


 朝、いつもと同じように起きた私は顔を洗おうと部屋の洗面台へ行ったところで異変に気がついた。

 栓を捻っても水が出ないのだ。

 それだけで状況を理解したもののまだどこかに信じたくない気持ちもあり、扉へと向かう。ドアノブを押し下げると、途中で引っかかり、硬質な音が響いた。鍵をかけた覚えなどなかったが、ドアの脇にある端末のボタンを押す。何度繰り返しても解錠音はなく、管理センターとの緊急通話も遮断されていた。

 私は嘆息し、窓へと歩を進める。ぎらぎらとした日差しが差し込んでくる窓もやはり開かなかった。思い切り拳を叩きつけてもびくともしない。記憶の中にある「劇場」での一幕が脳裏を過ぎる。私よりも逞しい青年がスコップで突いても無傷だったのだ、私程度の膂力でたたき割ることなどできるはずもなかった。


 太陽光は一切減衰することなく、極めて直線的に部屋の中へと突き刺さっている。部屋が黒でないことは幸いであったが、白であるため反射して眩しく、かすかに日陰ができているベッドの脇で膝を抱えて目を瞑った。下に潜り込む体力すらなかった。

 聞こえてくるのは隣室の騒ぎ声とかすかな空調の音だ。部屋の隅にあるエアコンから熱風が噴き出してきており、室温はたちまち上昇していった。全身の至るところから噴き出た汗が雫となり、肌を伝う。狭い日陰に蹲っていると私という存在そのものが溶け、液体になっていくかのようにも思えた。


 ……どれほど時間が過ぎただろうか、隣室の喘ぎ声も聞こえなくなった頃、雨の音が聞こえてきた。屋根に打ち付けられるスコールの音。

 その違和感に瞼を上げる。まだ雨期は先のはずだ。

 私は立ち上がり、窓の外を見やった。だが、そこにあるのはやはり快晴の空だった。脱水症状からくる幻聴だ、そう断じると自嘲が喉で球体となって揺れる。漏れるはずの笑い声はからからにひび割れ、喉の肉に引っかかり、口まで這い上がることもなかった。重力に引かれるように、私の身体が崩れる。


 その間際、明らかに異質な風景が垣間見えた。

 私はなんとか身体を起こし、窓の外を凝視する。

 街の中央から黒煙が上がっているではないか。その脇をカーキ色の、そう、あれはヘリコプターだ。ヘリコプターが空中を進んでいる。それも一台ではなく、何台も、だ。

 何が起こっている? 再びスコールの音が響く。そこでようやく、私は今耳にしている音が雨音などではないことに気がついた。ヘリコプターに搭載された機銃の先端が光っている。

 銃声だ。

 機銃が掃射され、マズルフラッシュが輝き、激しい着弾音が轟いている。

 虐殺か、と疑ったが、ヘリコプターの側面には我が国の国旗は描かれていない。


 何者かに頭の中を踏み荒らされているかのように、私は混乱していた。座り込むことすら忘れ、呆然と立ち尽くし、窓の外を眺める。

 そのうちに廊下から騒がしい靴音が響き始めた。聞き覚えのない、外国の言葉で誰かが喚いている。それが止むと、開きっぱなしの蛇口から勢いよく水が流れ始めた。空調から流れ出てくる空気が冷たくなり、扉と窓から機械的な解錠音が発せられる。


 何か大変なことが起こっている。

 私にようやく理解できたのはそれだけだった。よろよろと洗面台へと歩み寄り、顔を突っ込む。頬骨の辺りに冷たい潤いが当たり、伝ってきた水をなんとか飲み下した。身体の中にある熱が徐々に引いていく。蛇口から流れる幸福に手をつけたまま、私は膝をついた。

 廊下からは歓声が上がっている。


「解放されたぞ!」「生きていられるんだ!」


 この国の言葉で、おそらくは収用された犯罪者たちは喜びを露わにしていた。足音が往復し、やがてその歓喜は私の部屋にも到達した。扉が開け放たれ、「大丈夫ですか!」と息を切らした男が飛び込んでくる。

 それは誰であろう、私をこの国に売り飛ばした編集青年だった。


 裏切られた怒りと生きていられる喜びがない交ぜになり、私は声を発することができないまま、駆け寄ってくる編集青年を手で制した。彼の笑顔が――おそらくは罪悪感に類する感情で――曇っていく。その後ろを軍服の男たちが通り過ぎていった。

 私は自分の中に残った生命力をすべてつぎ込み、編集青年を睨む。


「……きみは、褒美目当てに私を売った、そうだな?」

 彼は逡巡のあと、小さく頷いた。「その通りです、先生……申し訳ありません」


 予想していた答えだったとは言え、身体がばらばらになりそうだった。

 何が起こっている、どうして私は助けられた、それらの疑問は沈み、情けない言葉ばかりが浮かんでくる。


「きみは! きみは編集者でもなんでもなかった、私の書いた小説は本になんてなっていなかった! きみはずっと私を騙していたんだ!」

「……先生、それは半分当たっていて、半分違います」

「何が違うというんだ!」

「先生、確かに僕は編集者ではありません。ですが、先生の書いた小説は本になっています……それも、二冊」


 声が出ない。戸惑い、口をぱくぱく動かしていると編集青年は申し訳なさそうに笑った。


「ただ、先生の書いた本、一冊目はまるで売れませんでした。それを伝えるのが忍びなかったので言わなかったんです」

「……その本は」

「この国にある出版事業は国王のためのものですからね、外国で出版しました。それが、僕の初めての海外渡航のときです。二度目が五ヶ月前、先生がここに入れられたすぐ後のことです」


 編集青年は小さく笑い、私のもとへと歩み寄ってくる。


「先生、あなたのことを通報したのは悪いことをしたと思っています。何をされても文句は言えません。ですが、そうしなければ二冊目の本を出せなかったんです」

「……どういうことだ?」

「この国には渡航制限があるのはご存じですよね。僕はあの離れ小島に勤めていたため上級国民ではあるのですが、それでも個人で海外に渡航できるは原則一度きりです。先生を売った見返りにその制限を解除してもらって……ちょうど国王がわがままを言い始めた時期だったのですんなりといきました」

「……そこまでして、あんなくだらないものを」

「いいえ」


 編集青年は力強く首を横に振った。これまで感じたことのない幸福な否定、私はその一言に強く目を瞑る。

 彼は、静かに続ける。


「先生の書いたあの風刺小説……あれはこの国の現状を知ってもらうために最適なものでした。閉ざされた国ですから、誰もが興味を持ちます。国王の眼鏡を新調するためにもう一度外に出てみたら馬鹿売れでしたよ。元々問題視されていたみたいですから、それが後押しになって軍事介入が決定されたんです」

 

 編集青年は私の肩に手を置き、ゆっくりと言い聞かせるような口調で、言った。


 先生の、たった一発で世界が変わったんです。


 からからに乾いているはずなのに、涙がこぼれる。もう四十を越えているというのに私は嗚咽を漏らし、そして、それを恥だとは感じなかった。

 たった一冊の短編集が、私の叫びを大勢の読者のもとへと届けたのだ。


「……先生、覚えておられますか? 僕は二番目の話が好きだと言ったじゃないですか、あの荒唐無稽な、魔王を倒す話。六つの短編の中で、あれだけがフィクションで、あれだけが無責任なハッピーエンドなんです。それって僕たちがずっと望んでいたもので、だから、僕はあの話が好きだったんです」

「なら」私はしゃくり上げ、編集青年を見つめる。「私の書いた話がおたまで、きみが勇者、と言ったところかな……」

「……かもしれませんね」


 彼は柔らかく笑った後、思い出したかのように「あ!」と大きな声を出した。背負っていたバッグを降ろし、中をごそごそと探り始める。そこから取り出されたのは見覚えのある、私の家のおたまだった。


「すみません、これ、間違って持って帰っちゃって、ずっと返さなきゃなと思ってたんですけど」

「……そんなものより服を持ってきてくれた方がずっとありがたかったがね」

「まあ、とりあえず、返しておきます。なんならそれで股間なら隠せますよ」


 あまりにくだらないジョークで笑う気にもなれない。だが、私は珍しくそれに乗ってやる気になった。彼のおかげで私も、この国も救われたのだ。勇者には敬意を払わなければならない。

 私はおたまを受け取り、座ったまま股間を隠してみる。本当にやると思っていなかったのか、編集青年は無言で固まり、そうなると段々羞恥心がこみ上げてきた。


「悪い、なかったことにしてくれ」


 そう言っておたまを突き返す。同時に青年は飛び退き、悲鳴を上げた。


「うわっ、それ、こっちに近づけないでくださいよ!」

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