一年春:通信空手と地下格闘技

 通信空手を始めようと思ったのはアルバイト先にいる先輩が格闘技をしているという噂を聞いたのもあるし、何か新しいことを始めようと思ったこともあるし、シフトが終わるのが日付をまたいだ頃であるため護身術を覚えた方がいいと忠告されたからでもある。決してラーメン屋の脂っこい賄いによる体重増加を懸念してのことではないのだ。


 東京の女子大生は襲われやすい――なんて言うと自意識過剰だと思われるだろうが、田舎にいるわたしの両親は東京をスラム街か何かだと勘違いしているのかもしれない、上京する際二人は耳に胼胝ができるくらい自衛手段について説いてきて、それが一月も続くとさすがにわたしも面倒になってきていた。


 で、親の勧めで通信空手を始めたのはいいものの、どうもこれがわたしの想像したものではない。ビデオ教材で型を覚える、というのは正しかったのだけれど、気とか波動なんていう漫画でしか見たことのない単語が飛び交う飛び交う。見よう見まねでやってみてとりあえず気を飛ばすことができるようになってから「これ違うんじゃないかな」と思い始め、わたしは格闘技をしているというアルバイト先の先輩に相談に乗ってもらうことにしたのだ。


「九藤、お前、馬鹿なのか?」

「そうですよね、わたしも、ええ、おかしいとは思ってはいるんですけど」

「気とかそういうものがあったら苦労しないだろう」

「でも、なんかできてる気がするんですよ。ちょっと試してみてもいいですか?」


 我ながら頭のおかしい女だ。

 きっと先輩も同様のことを考えたに違いないし、だからこそ手っ取り早く話を打ち切ろうとしたのだろう、立ち上がり、顎で気を飛ばすように促してきた。別段苛立ちなんてものはなく、むしろ優しい人だ、と感激しながら、わたしは気を練り、先輩へと飛ばした。


 その瞬間、百九十センチメートルはある先輩の巨体がぐらりと揺れた。

 ラーメン屋の休憩室の中でわたしと先輩の目が合う。人に向かって放ったのは初めてだったため、何が起こったかわからず、しばらく見つめ合ってから、先輩が沈黙を破った。


「……もう一回いいか?」

「ですね、もう一回やってみましょう」


 わたしは気を練る。先輩は直立する。少しばかり緊張しているのがオーラの流れで見て取れたが、その時点でそもそもオーラってなんだよ、と言う気分になりながら、わたしは気を放った。やっぱり先輩は大きくよろめいて、どうやらこれは本物らしいという結論に至った。変なこともあるんですねえ、とわたしは笑ったが、格闘技をしているだけあって先輩は違う感想を持ったようだ。その日からわたしと先輩の関係が始まった。


 正確に言えば、先輩たち、だ。

 わたしたちのアルバイト先は大学にほど近いラーメン屋であり、つまり、わたしと先輩は同じ大学に通っている。先輩は格闘技とはまるで関係のない怪しげなサークルに所属しており、通信空手のことを打ち明けたらそのサークルのメンバーが大いに興味を抱いたらしい。見る見る間に話は進み、大学の教室で通信空手の練習会が開催されることになってしまったのだ。

 外見からではまったく共通点の見えない四人の先輩とともに通信空手に汗を流す日々――女子大生としては致命傷なのではないか、と思いつつも、大して不満はなく、それどころか、楽しいと思っている自分がいる。


 だが、結局、通信空手――この『通信』というのは遠隔という意味なのではないか、という考えが採用された――を習得できたのは先輩だけだった。ついでに言ってしまうと先輩はたった数日でわたしを追い越してしまったのだから驚きだ。感謝されたものの胸を張るべきか否かなど判断がつかないうちに時間は流れる。

 先輩に呼び出されたのは一ヶ月ほどが過ぎた日のことだった。


「デートですか?」


 なんて後輩らしさ溢れる愛くるしい冗談を準備して待ち合わせの駅へと到着したところでわたしの甘い期待は裏切られた。先輩が着ている服はデートとはほど遠いラフな恰好、というかジャージで、連れられて行った場所も甘酸っぱい空気などとはかけ離れた恐ろしい空間だったのである。


 高層ビルの地下、カクテルライトの強烈な光が中央にあるリングを照らしている。暗闇にぽっかりと浮かんでいるそこには、ほとんど裸の男が二人、目をぎらつかせて互いに殴る蹴るの暴行を試みていた。

 格闘技の試合だ。

 千人以上収容できるほどの会場、流れる空気には汗と酒と薬剤めいた香りが混ざっている。品のない野次に顔を上げると、壁の電光掲示板に対戦している二人の顔と、おそらくはオッズだと思われる数字が表示されていた。その時点で、あ、これ、まずいな、と理解した。漫画でしか見られないような、アンダーグラウンド、というか非合法な雰囲気が充満している。


「……あの、せんぱい?」

「次の次、俺があそこに立つ」

「……ですよねー」


 頬が引き攣っているのが分かる。なんでか弱き乙女が血湧き肉躍らなければ怒られるような場所に来ているのか、さっぱり納得できない。先輩、わたし足震えてるんですけど、あ、ここ暗いから見えないですよねえ。混乱すると人って笑うんだなあ。

 中央にあるリングを一瞥する。そこでは血やら汗やら涎やら、いろいろな液体が飛び散り、ライトの光を反射して輝いていた。

 ひっ、野蛮!

 そう言って逃げ出すほどの勇気すらなくて、結局、わたしは腕を引かれるまま先輩の控え室へと連れて行かれてしまった。


 控え室にいたのは試合を待つ男たちばかりだ。身体からは例外なく汗と闘志が噴き出ていて、彼らは先輩を見るとただでさえ鋭い目つきをさらに鋭くさせ、その後でわたしを強く睨んだ。場違いすぎる状況にわたしは口の中で「ごめんなさいごめんなさい」と呟く。少しでも隙を見せたら襲いかかられ大変な事態になってしまうのではないか、と不安が不安を呼んだので、なけなしの気を練っておくことに決める。

 だが、先輩は大して気にしている様子はない。悠然と控え室の奥まで進んだところで帽子を取り、ベンチに座っている老人に小さく頭を下げた。


「おやっさん」

「なんだ、女連れとは余裕だな。お前のコレか?」


 青いプラスチックのベンチに座っている老人は嬉々とした笑みを浮かべ、小指を突き出している。『あしたのジョー』なぞに出ていてもおかしくない風貌だ。平成の今でもこんな人がいるんだなあ、とぼんやり考えていると先輩は着替えを始めた。手早くジャージを脱ぎ捨て、あっという間に黒いスパッツだけの姿になった。


「おやっさん、こいつは俺の師匠ですよ」

「あ? お前、なに言ってんだ?」老人は鼻で笑う。「あ、ベッドの上ってことか?」

「格闘技です」


 先輩はいたって真面目な口調だったけれど、本気と受け取られるはずがない。トレーナーらしき老人は「そうかそうか」と流し、わたしに手招きをしてきた。だが、わたしの足は竦んでいる。その姿がここでは珍しいものだったのだろうか、老人は立ち上がり、楽しそうにわたしの肩を叩いた。


「嬢ちゃん、こいつの応援するんだろ? 特等席用意してやるよ」


 お断りします。

 なんてもちろん言えるわけもなく、わたしは控え室の隅っこで膝を抱えたまま、ただ時間が過ぎるのを待ち続けた。先輩は老人と一緒に入念な準備運動をしている。わざわざわたしを待たせまいとしてくれていたのだろう、中途半端なところで係員がやって来て先輩の出番であることを告げた。


「じゃあ、九藤、行くぞ」

「あ、はい。……はい?」

「嬢ちゃん、特等席だっつったろ?」


 なるほどー。

 上京したときの方が余程ましだったろうな、というほどの狼狽具合でわたしは先輩たちの後に続く。

 導かれた特等席は予期していたとおり、リング下、セコンドと呼ばれる人たちが陣取る場所だった。リングを見上げる形で、いつもより先輩が大きく見える。

 だが、相手は先輩よりももっと大きな身体をしていた。巨大と言い換えてもいい。身長は二メートルで体重は百三十キログラム。そんな知りたくもない情報が実況により伝えられ、そんな人と戦っても法的に大丈夫なんですか、と混乱しているうちにゴングが高らかに鳴らされた。


 猛獣かブルドーザーのように、逆のコーナーから相手が飛び出してくる。先輩はそれを冷静に躱し、ジャブというのだろうか、何発か左拳を突き出した。正確な数は見えなかった。

 しかし、相手はその程度では怯まない。その巨体からでは想像できないほど素早く方向転換し、再び先輩に襲いかかろうとしている。

 そこで、わたしは「あ」と素っ頓狂な声を上げた。


 先輩の右拳に気が溜まっている――

 そして放たれた気は極めて正確に相手の顎を跳ね上げ、そのまま脳を揺らした。勢いそのまま対戦相手がリングに転がる。わたし以外誰も何が起こったのか分かっていないようだ。呆然の静寂が地下格闘技場を包み込んでいた。

 慌てふためいたようにゴングが鳴らされる。その音でレフェリーは忘我から立ち戻り、うつ伏せになった対戦相手に駆け寄っていった。意識がないと判断されたのだろう、困惑とともに先輩の名前がコールされ、歓声が爆発した。


 先輩は悠々と両手を掲げ、リングから降りてくる。トレーナーの老人が「おい、今何をしたんだ!」と叫び、先輩へと飛びつく一方で、わたしは何を言っていいのか何も思いつかず、困惑する。それが表情にありありと出ていたのか、先輩は軽快に微笑んでわたしへと拳を突き出してきた。

 勝利の儀式か何かだろうか。わたしは昔見た少年漫画を思い出し、拳を合わせるべく、おずおずと手を掲げる。


「あ」


 そう声を上げたのは、他ならぬわたしだった。

 試合開始前から練っていた気が先輩目がけて飛んでいったのだ。狼狽も間に合わず、わたしの気は先輩の顔面へと直撃する。先ほどまで勝ち名乗りを受けていた格闘家の膝が呆気なく崩れ、再び会場は騒然となった。


「チャンピオンが女に倒されたぞ!」


 遠慮のないざわつきにどうしようもなくなり、わたしは逃げるように控え室へと駆けていく。

 この時点で、たぶん、まともな大学生活を過ごせないことを確信していた。

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