俺のエロス
エロス、ってなんだ?
俺の部屋にいつもの三人で集まっているとき、シンジが唐突にそう訊ねてきた。頭のいいユウゾウはぶっきらぼうに「ギリシャ神話の神」と返し、俺は「なんかこう、むらむらというか」と曖昧に言ってみる。
「そう、コウイチの言ったやつ。僕、それの真理に辿りついてさあ!」
シンジのはしゃぎ具合は直視できないほどで、俺とユウゾウは同時に手元に視線を戻した。もう少しで数学の宿題が終わるのだ。集中を切らしたくはなかった。だというのに一足先にすべての問題をとき終え、トランプのソリティアに励んでいたユウゾウは律儀に反応してしまう。
「なら政府に教えてやれ。少子化であいつら苦しんでるんだから」
「そう、それ!」シンジは嬉しそうに手を叩く。「子どもってさ、セックスしなきゃできないじゃん」
「人工授精があるけど」
ユウゾウがそう言うと、シンジは「それは置いといて」と大袈裟な動作をした。
「子どもを作るには興奮しなきゃいけない。でさ、ポルノビデオあるじゃん。あれさ、昔は大事な部分が隠されてたらしいよ」
「え」
驚き、動きが止まる。口へ向かって放り投げたクッキーが頬にあたり、床の上をてんてんと転がった。胡座をかいたまま、そちらの方向に手を伸ばし、訊ねる。
「そうなの?」
「らしいぞ」とユウゾウが頷き、シンジは続けた。
「僕さ、少子化ってそれが原因だと思うんだよね。今だとモザイクも何もなくなってテレビでもポルノビデオ流されてるじゃん」
「〈テレビ・ショー〉みたいな世界になるなんて誰が想像しただろうな」
ユウゾウはたまに俺たちがまったく知らない知識をひけらかす。どうせ小説だとか漫画だとか小難しい文化のことなんだろうな、と当たりをつけ、俺は無視した。
「で、なんで、それが少子化の原因だって思うわけ?」
「僕が思うに、人間は隠されてるものに興奮するんだよ」
「一理あるな、カリギュラ効果だ」
「それ、効果音みたいだね。カリカリ、ギュラギュラ」
効果音効果、とシンジは嬉しそうに繰り返した。シンジはすぐに話の腰を折る。それが自分の話でもお構いなしだから、困りものだ。俺は視線で催促しながらチョコレートを口に放り込んだ。甘みがほどける前に、シンジはまるで名案を発表するような顔つきで、言った。
「一回やめてみない? ポルノ関係を断ち切って生活するんだ。そうしたら別の世界が見えるかもしれない」
「でもよ、男って構造的にどうしてもエロい気分になるときあるだろ」
「え、あるの?」
「ないの? 俺はあるけど。ユウゾウは?」
「一年に一回発情期が来る」
「動物かよ」
「動物だよ」
「あ、でも、そういう報告もあるみたい」自作のネットワークデバイスでいつの間にか検索していたらしく、シンジはその文面を読み上げた。「スポーツで発散したって書いてある」
「じゃあ、みんなスポーツやってるから性欲ないんじゃねえの」
「でも、そう考えると逆にエロいな」ユウゾウは大真面目な顔をしている。「全員が性欲を発散させたり隠したりするために運動しているなら見る目が変わりそうだ」
「そう、それだよ! 人は何かを隠されるとそれに反応して興奮しちゃう生き物なんだ。まずは僕たちから意識改革を始めてみよう」
じゃあどうするんだ、まずはスポーツに明け暮れてみよう、それは因果関係がおかしい、そういった議論を繰り返すうちに俺たちの方針は決定した。
自然界ではどんなメスも強いオスに惹かれる。この国ではスポーツが上手い人間は人気がある。活躍し、女に言い寄られても袖にし続ければ性欲メーターが溜まっていくのではないか。
ということで、スポーツに打ち込んでみよう。
誰もシンジの唐突な提案に否定しなかったのは、きっとそれで何かが変わるかもしれないと思っていたからだ。この慢性的な繰り返しの日々が変わるのではないか、と。
〇
「何が起こってるんだよ……」
五日後、俺たちは公園の片隅で震えていた。ドッグランのそば、木陰にあるベンチに並んで座り、同じように項垂れている。あまりにも理解できないことだらけで、動けそうになかった。
いや、スポーツのせいではないのだ。上手い下手は別にして、素人なりによくやっているとは思う。問題はひとりのおっさんだった。
「ちょっと恐いよね」とシンジが頷き、ユウゾウも唸った。「偶然とはいえ、ありえるのか?」
何が起こったか言葉にするのは簡単だ。
俺たちの蹴ったボール、投げたボール、打ったボールがことごとく一人のおっさんに直撃したのだ。初日のサッカー、二日目のバスケまでは変な偶然だと思ったが、中二日の今日、野球でも同じことが起こるだなんてまるで想像もしていなかった。二日目の時点でおっさんはキレていたから逃げたのも当然だ。
「なあ、あのおっさん、なんなんだ」
「こっちが聞きたい。あれのせいでボールを紛失したしな」
「僕たちの気を引こうとしてるのかも」
「馬鹿言うなよ、シンジ。そんな気の引き方があってたまるか」
「しかし、こうなると何しても危険な気がしてくるな……シンジ、なんか別のスポーツはないのか?」
ユウゾウの質問にシンジが「ちょっと待ってね」と腕をはためかせ、拡張現実機能のついたコンタクトレンズ型デバイスで検索を始めた。
俺は黙り込む。見事な提案が出るなどとは微塵も期待していなかった。どうせ出てくるのは走ったり飛んだりといった基礎的なスポーツだろう。人気はあるが、小手先のごまかしで上手そうに見える競技ではなく、それでは目的から外れてしまう。
少しして、シンジは「あ、これはどう?」と言った。「『走りダーツ』だって」
「誰がそんなのやるんだよ」
シンジはめげず、続ける。「『ジャンプ輪投げ』は?」
「すごいな、発想が常人のそれではない」
「『柔軟体操ボール投げ』」
「勘弁してくれ、そんなの競技人口一人しかいねえだろ」
あーあ。俺は溜息を吐く。シンジは空を仰ぎ見て、ユウゾウはロダンの『考える人』みたいなポーズを取った。
なんだかすべてが馬鹿らしくなってしまった。そもそも、なんでこんなことしてたんだっけ。ああ、エロスだ。エロスがすべて悪いのだ。こんなんだから少子化が進行するんだ、おい政府、何よりも先に「ボールにぶつかってはいけない」っていう法律を作れよ。
荒唐無稽な現実逃避に自己嫌悪が湧き、肩を落とす。
シンジが立ち上がって、「あ!」と叫んだのはそのときだった。
「なんだよ、また突拍子もないこと言うつもりかよ」
「違うよ、ほら」
シンジは空を指さす。輝くような青、間延びした雲、その下にあったのは紙飛行機だった。風に流され、ふらふらと宙を漂っている。
「金持ちは豪毅なものだ」
ユウゾウは、ふん、と鼻息を出した。表情がないせいで感心しているようにも呆れているようにも見える。シンジはただ物珍しかっただけらしく、ぼんやりとそれを眺めていた。
だが、俺は違う。気付けば立ち上がり、一歩踏み出していた。
「おい、あれ、捕まえるぞ」
「は?」二人の声が重なる。「急になに」
「あれがあのおっさんに当たったらどうするんだよ。俺たち以外の被害者が増えるぞ」
「被害者はおっさんの方じゃないかなあ」
「それに紙飛行機くらいなら幸運とも言える」
しかし、俺の足は止まらなかった。ドッグランを迂回し、紙飛行機を追っていく。
――あれは俺たちそのものじゃないか。
ふらふらと周りに流されて、でも、何かを追い求めるように進んでいる。紙なんて高級品をこんなふうに無造作に放っているその事実に奇妙な憧れを抱いた。
あれが、俺の、エロス。
直感的にそう思って、俺は必死に足を動かした。あれくらい捕まえられなきゃきっと俺たちの人生はこのままだ。そんな強迫観念に駆られて、追いすがる。紙飛行機は徐々に高度を落としていく。
その瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。
すぐ横を風が駆け抜けていく。目の前に出てきたのは同年代の女の子だった。スカートが風で翻り、ピンクの下着がちらついている。彼女は紙飛行機の真下まで来ると見事な跳躍を見せ、キャッチした。
呆気にとられ、立ち止まる。女の子は紙飛行機に損傷がないか確かめたあと、俺に向かって差し出してきた。満面の笑みに、長い髪が揺れている。
前言撤回、こっちが俺のエロスだわ。完全に来たわ。くぅー!
そんなことを考えていると、女の子は小首を傾げて訊ねてきた。
「これ、きみの?」
緊張のあまりぶんぶんと過剰に首を振って否定する。すると、彼女はくすりと笑い、「じゃあ、元の位置に戻さなきゃね」と紙飛行機を再び宙に泳がせた。その動きの優雅さに俺の心は締めつけられる。
「あ、あの!」
何か言わなければ。ここで彼女との関係性を絶つわけにはいかない。俺は慌て、咄嗟に思いついた言葉を叫んだ。
「今から俺と野球しませんか!」空白がぽかんと浮かび、それをごまかすために続けた。「今のジャンプ力、野球にぴったりだ!」
「なにそれ」
彼女は苦笑を作り、少し考えるような素振りを見せた。その間が永遠に続く沈黙に思えて息苦しくなる。なんとか唾を飲み込んでそれを解消しようとしたとき、彼女は顔の前で両手を合わせた。
「ごめん、今日は先約があって、おじいちゃんたちと遊ぶことにしてるの」
……終わった。今日が世界の終わりだ。サヨナラバイバイ、もうおうち帰ろう。
だが、その思いは彼女の次の言葉によって呆気なく取り払われた。
「だからさ、明日にしよ」
「え」
「あたしも興味あったしさ」
「うん……うん! 明日、ここで待ってるよ!」
「でも、今からって道具もないのにどうするつもりだったの?」
「ああ、友達が持っててさ――」
そう言ってから重大な問題に気がついた。
ボールがないのだ。
先ほど中年オヤジにぶつけて、それきりになってしまっている。自治体から貸与されたボールは返却しない限り新しいものを借りられない決まりがあって、俺たちは連名で登録していたせいでそれもできそうにない。
ああ、くそ、ボールがなければいけないってどんなスポーツだよ!
ごまかすべきかとも考えたが、それは彼女に対する大きな裏切りに思え、俺は正直に伝えることにした。しかし、彼女はいささかも動じない。
「ボールくらいならあたし、用意できるよ――今すぐにでも」彼女は笑顔でそう言って、二度、高く手を打ち鳴らす。「タロ! タロ、おいでー!」
すると、わん、というのんびりした犬の鳴き声が響いた。振り返るとシンジとユウゾウが駆け寄ってきていて、その脇を恐ろしいスピードで白い塊が追い抜いるところだった。ボールを咥えた犬は勢いそのまま女の子に飛びかかり、荒い息を漏らす。
ぽとり、とボールが落ちる。
「あ」
そこにあったのはまさに俺たちのボールだった。
公園の主、と言われているその犬は自慢げにこちらを見つめている。それに気を取られているうちに女の子は「じゃあ、また明日ね。タロもバイバイ」と去って行った。白く大きな犬、タロが俺の隣で尻尾をぶんぶんと振っている。きっと俺に尾があったら似たような動きをしていることだろう。
達成感と気恥ずかしさに頬が緩み、ごまかすために地面に転がる白球を拾い上げた。こちらへ向かってくるシンジとユウゾウに見せつけるように掲げる。
その瞬間、「あっ」と声が漏れた。犬の唾液に濡れたボールが手からこぼれ落ちたのだ。
タロの反応は素早かった。すぐさま地面に跳ねたボールを咥え、ドッグランの方へと全速力で走り始めている。
「おい、ちょっと待て!」またどこかへ隠されたら堪らず、俺は興奮して追いすがる。「俺のエロス!」
それを聞いたユウゾウは「相手が犬かよ」と顔を顰め、シンジが「別の世界見えすぎだよ」と泣きそうな声を出した。
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