競争一家

「ポチだ」

「あら、シロっていうのよ」


 何の気なしに寄ったドッグランのそばでおじいちゃんとおばあちゃんが議論を交わしていた。二人とも「RUNケーブル」と呼ばれる仕事をしていて、その出勤前だったのか、スポーツウェアを身につけている。七十にもなるというのに毒々しい原色の色合いをしていて、孫のわたしとしてはどうにも恥ずかしかった。

 二人が議論しているのは犬の名前のようだ。白く大きな犬――わたしや学校の友達は「タロ」と呼んでいる――が舌を出し、何か期待するかのような目でお座りをしていた。


「なあ、お前、ポチだよな」

「シロよね」 


 議論は一向に平行線のまま、というか、議論にすらなっていない。両方とも頑固なものだから譲歩とか妥協といった言葉を知らないのだ。わたしと違い、両方とも負けず嫌いで、それに辟易することもよくあった。

 わたしは溜息を吐き、二人に声をかける。


「タロだよ、その子」

「おお、ミサト」


 おじいちゃんはただでさえ皺でいっぱいの顔を、くしゃっと、さらに皺だらけにした。おばあちゃんも同じようにしたけれど、表情にはどこか不満が残っている。


「ミサトちゃん、この子はシロっていうのよ」

「だから違うって言ってるだろうが。こいつはポチだ。だいたい、タロだとこのブランドと同じ名前になる」


 おじいちゃんはスポーツウェアの胸元を指さす。そこには「TARO」というロゴがあった。今、流行のブランドで自分で色を決められることもあり、みんなそのウェアを好んで着ているのだ。


「それでもタロだってば。みんなそう呼んでるんだから従いなよ」

「みんなって誰だ?」おじいちゃんは腕を組んで、詰め寄ってくる。「どうせ若い奴らの言うことだろ」

「あー、出たよ、年寄りの若者蔑視」

「ミサトちゃん、わたしのお友達はみんなシロって呼んでるわ」

「俺の周りはポチだ」


 わたしは呆れ、肩を竦めた。誰が何と言ったって、この犬はタロって言うのに。名を呼びながら頭を撫でると、彼は嬉しそうに目を細めた。代わりにおじいちゃんとおばあちゃんは唸り、眉間に皺を寄せる。


 タロがいつからこの公園に住み着いているか、誰も知らない。季節が移り変わるようなさりげなさで、気付けばここで暮らすようになったそうだ。初めは自治体の職員も困っていたらしいけれど、穏やかで人懐っこいタロはみんなから好かれて、そのうちに居住権を獲得してしまった。利口だからトイレも決まった場所でしかしないし、無駄に吠えたり噛んだり、そういうこともしなかった。

 ただ、問題があるとしたら、名前が決まらなかったことだ。タロがこの公園の主となるまでにはそれなりの時間があり、そのせいでちょっとした派閥ができてしまっていたのだ。都合の悪いことにタロはどんな名前でも返事をする。一時期は共通の名前を決めようという動きはあったが、猛反発にあい、立ち消えとなってしまっていた。


「誰が何と言おうが、こいつはポチだ」

「『誰が何と言おうが』ってことは独りよがりなのを自覚してるのよね」

「違う、そうやって賢者を馬鹿にするな」


 おじいちゃんは地動説を提唱したガリレオのような確固たる意志を持って、間違いであるポチ説を掲げる。おばあちゃんはシロ説だ。

 もう一つ、問題があるとしたら、おじいちゃんもおばあちゃんも、そしてわたしも、この件をなあなあに済ませる気がないことだった。人それぞれでいいじゃん、という言葉がわたしたちは何より嫌いなのだ。

 脈々と受け継がれた日本人のDNA、わたしたちは邪馬台国の場所がどこかで争い、キノコとタケノコのチョコレート菓子のどちらがおいしいかで抗争し、機械にどこまで生活を任せるかで論争してきた。それと同じだ。答えを見出せないと分かっているからこそ主張をぶつけ合う。誰が間違いで、誰が正解なのか、そこで上下関係はできないからだ。


「おじさんはなんて言ってるの?」


 わたしはふと思い立ち、新たな意見を求めた。お父さんの弟、どこかの会社で受付業務を担当しているおじさんならいろんな話を聞いていることだろう。だが、そこでおじいちゃんが思い切り顔を歪めた。


「あいつはだめだ。ポチのことを犬って呼び始めた」

「なんでも一昨日シロにボールをぶつけられたんですって」

「タロ相手に心が狭いなあ。それに相変わらずついてない」

「最近は特に、らしいぞ。なんでも四日連続で頭にボールをぶつけているそうだ」

「なにそれ」

「だからわたしたち、ここにいるのよ。だいたいこの時間らしいから、その瞬間を見て笑ってあげようかなってね、仕事があるから見られるかわからないけど」


 なんて意地の悪い夫婦だ。自分の息子の情けない姿を見るために時間を取るなんて。

 とはいえ、抗議する気にもなれなかった。おじさんの運が悪いのは今に始まったことではなかったからだ。

 そのうちにおじいちゃんは「そろそろ行くか」とタロの頭を撫でた。仕事かな、と思ったけれど、それは違って、どうやらおじさんの後をつけるつもりらしい。おばあちゃんに「ミサトちゃんも行く?」と訊かれて、わたしは断る。魅力的ではあるけれど、他にやりたいことがあったのだ。


「ねえ、それ終わったらさ、対決しない?」

 おばあちゃんは首を傾げる。「対決?」

「うん、この公園でどの名前がいちばん多いか。それに従う必要はないからさ」

「なるほど」おじいちゃんは目をぎらつかせ、余裕の笑みを作った。「さすが俺の孫だ」


 そして、わたしは「友達と会ってくる」と嘘を吐いて、二人と別れた。

 まったく甘いものだ。

 時間を与えたことを後悔するがいい。ほくそ笑みながら、公園を走り回る。草の根活動だ。いろんな人に声をかけ、タロのことをどう呼んでいるか聞き、間違いの名前を覚えてしまっている人には「次に同じ質問をしたら『タロ』と答えて欲しい」と頼み込んだ。

 もちろんそれだけではない。子どもたちに先入観を与えるためにさりげなく、タロ、と叫びながら歩いた。その途中で同年代の男の子に会ったときも徹底する。こうして刷り込みを与えればいつの日か、タロは真のタロとなるに違いない。

 これでわたしの勝利は揺るぎないぞ!

 そう思っていただけに、おじいちゃんのボイスメッセージが届いたとき、愕然とした。


『仕事の時間だ、明日にしよう』


 やられた――読まれていたのだ。

 確かにわたしは対決の条件に「今日」とつけなかった。さすが百戦錬磨の夫婦だ、わずかな隙すらも許すつもりはないらしい。

 公園には毎日同じ人がいるわけではない。明日になれば違う人が訪れる。きっとおじいちゃんとおばあちゃんは独自のコネクションを最大限に利用して準備してくるだろう。七十年も生きていれば知恵の蓄積量も人脈の標高や面積も違う。変に友達が多い二人に叶うはずがなかった。


 どうしよう、負けたくない。

 タロをポチとかシロとかにしてたまるか。だいたい、ポチってなに。シロって色じゃん。老人の奇怪な、単純なネーミングセンスだ。それに比べて、タロのユーモア溢れる名前を見てよ、太郎ではなく、タロにしてるあたり非常に現代的で、なんというかすごい。

 何か、打開策を。

 そう考えた瞬間、頭の中に閃光が走った。


 ルールを利用できるのはこっちも同じだ。わたしが掲げた対決のルールは「どの名前がいちばん多いか」で「犬の名前」なんて一言も言っていない。これだ。素知らぬ顔で「スポーツウェアのことなんだけど」と言ってしまえばわたしの勝ちだ。幸い、「TARO」を来ている人は多く、確か、犬用の服もあったはずだった。

 そうと決まればやることは一つ。

 わたしは急いで公園の外に出て、スポーツ用品店を目指した。たまにすれ違う男の人に会釈し、街を全速力で駆け抜ける。


 野球のユニフォームなんていいかもしれない。あれは背中にでかでかと名前が書かれている。そこをタロにしてしまえばもう文句を言える人はいないだろう。

 そうしてわたしはスポーツ用品店に到着し、男の店員に「犬用の野球のユニフォームってありますか?」と訊ねた。彼は愛想よく笑いながら、店内の一角へとわたしを案内する。その途中で「珍しい日もあるものだねえ」と言われた。


「何がですか?」

「さっきも犬用のユニフォーム買っていった人がいるんだ」

「え」耳を疑う。「それ、まさかおじいさんとおばあさんじゃないですよね」

「ああ、そうだよ。TAROの白いやつを注文してった」

「つかぬ事をお聞きしますが」


 嫌な予感が胸の中で広がる。そういえば連絡が来るまで結構時間があった。もしかしたら――。

 不思議そうな顔をしている店員さんに、意を決し、訊ねる。


「それ、背中にポチって書きませんでした?」

「え、そうだけど、なんで分かるの?」


 ……なんて夫婦だ。

 白いユニフォーム、背中にはポチ、それに比べればタロは小っちゃいロゴだ。卑怯者め、そんなの全然フェアじゃない!

 わたしは項垂れながら購入を断念し、店の外に出た。とぼとぼとあてどなく道を歩き、その途中で紙飛行機が空を飛んでいるのを見つけた。

 紙飛行機にタロと書いて飛ばしまくるのはどうだろう。でも週に一回のアルバイトでは足りるはずもなくて、溜息を吐く。

 明日、野球する予定があるって言って断ろうかなあ。

 どうせあの二人なら参加するっていうだろうし、忘れてくれないかなあ。

 ――ああ、わたしも大概、負けず嫌いみたいだ。

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