〈旋回〉「百年紙飛行機」

ランケーブル

 燦々と降ってくる日差しの下で走るのは嫌いではなかった。

 腕を振り、腿を上げ、全身に当たる風の感触を味わう。じわじわと体温が上昇していき、肌から汗が噴き出てくる。灰色のTシャツは濡れた部分だけ色濃くなって、その色味にちょっとした達成感すら覚えた。

 初夏の午前中は空気が澄んでいて爽やかだ。公園も多くの人で賑わっている。昨日は一日雨が降っていたせいだろう、外に出られなかった鬱憤を晴らしているかのように、すべての人が運動に励んでいた。


 ただ彼らと私の間には大きな違いがある。

 仕事かそうでないか、だ。

 私は今、重要な書類を届けるために走っている。どんな内容かは知らないし、興味もなかった。知っているのは届け先の住所だけだ。もちろん手のひらほどのバックパックの中にあるのは紙の書類ではなく緩衝材に包まれた電子記録装置であることも分かってはいるが、あまりにも一般的すぎて特筆すべきことでもない。


 迅速かつ丁寧に――私の勤める会社はそんな標語を掲げている。客へのアピールというより従業員への警告と言った方が正しいだろう。営業をしなくても仕事は毎日のように舞い込んでいたし、同僚たちは不真面目な者ばかりだからだ。私のようにこうして真っ直ぐに目的地へと向かう人間はどうも少ないらしい。


 公園沿いを反時計回りに進んでいると同業他社の者と頻繁に出くわす。その多くは立ち止まって欠伸をしていたり、水に濡れた木々を眺めながらのんびりと歩いていたりする。中には恋人と思しき女性と談笑する者もいるほどだ。男性だけ、というだけでなく、女性も多くこの仕事に従事している。たまにすれ違うキャップを被った少女は私を見ると小さく頭を下げて走り去っていった。シャンプーの甘い匂いが一瞬漂い、匂いを嗅いでしまったことにばつの悪さを覚えた。


 私は自分勝手な羞恥をごまかすために時計を確認する。そのとき公園から、キン、と高く澄んだ音が響いた。男の、短い悲鳴が聞こえ、その声に吸い込まれたかのように周囲の音が一瞬消える。


「やべえ、逃げろ」


 そう喚いて、目の前にある公園の入り口から三人の若者が飛び出してくる。手にはバットとグローブがあり、彼らは狼狽と土のにおいを発散させながら私の横を通り過ぎていった。

 不穏な気配を感じ、公園へと視線を向けると、男が頭を押さえて蹲っていた。目を凝らすと、あれは野球のボールだろうか、白い球が彼の横で転がっている。周囲にいた人々が男へと駆け寄っていく様子で、何が起こったのか、想像がついた。

 ついてない男だ。

 大方、先ほどの若者が野球をしていて、打ったボールが直撃したのだろう。私は苦笑を浮かべて、再び足を動かし始める。同情はするが、それだけだ。むしろ、「鈍臭い男だ」と批難したくもなる。私であれば上手にキャッチできた自信があった。


 公園の横を過ぎ去り、大きな通りへと出る。年に一度、マラソン大会が開かれる道路は広く、心なしか地面も柔らかく感じた。前方で老夫婦が走っているのが見え、速度を上げる。並ぶと小野夫妻は小さく会釈をしてきた。


「お仕事ですね?」断定口調で言ったのは小野氏だ。「おつかれさま」

「いやあ、趣味みたいなものですから。むしろお二人のほうが」

「こっちも趣味みたいなものだもの」


 夫人が悪戯っぽく笑う。私はこの、歳の割に若々しい二人に好感を持っていた。三倍ほど年齢の開きがあるというのにときどき競争を挑んでくる彼らはお茶目で、一緒にいると穏やかな気分になる。このご時世、わざわざ結婚をしているのも珍しく、いつからか顔を合わせると会話をする仲になっていた。


「今日は何かあった?」


 夫人はまったく息切れすることなく、訊ねてくる。いつものように感心しながら、私は返した。


「変わりありませんよ……飛んできたボールにぶつかった人がいたくらいです」

「あら、見逃しちゃった。大丈夫そうだった?」

「人が集まってましたから問題ないでしょう。そちらはどうです? 何かありました?」

「ああ、さっきこんなものを拾ったよ」


 小野氏がウエストポーチの中から取り出したのは紙飛行機だった。私の知っている折り方ではなく、幅広な形をしていて、ぼんやりとした懐かしさを覚えた。


「いったい誰が飛ばしたのかねえ」彼は空を見上げながら、言った。「紙なんて今では贅沢品なのに」


 答えなど分かるわけもなく、私は曖昧に濁し、老夫婦に別れを告げた。時間厳守という掟こそないものの目安の時間を過ぎるのは気が進まない。

 ほどなくして目的地に到着した。入り口で認証を終えると、中に入るように、と合成音声に促される。どうにもこの音声だけは苦手だ。今の技術なら人の肉声とまったく変わらないものを再現できるにもかかわらず、わざと機械らしさを強調しているのだ。人間の浅ましさが浮き彫りにされているようで気に入らない。

 それを否定できないからこそ煩悶は増していく。


 階段をいくつか昇り、目的のフロアに辿りつく。バスケットボールの試合を同時に二つできそうなほどに広い空間、そこでは多くのロボットが働いていた。いや、蠢いていた、という方が正しいかもしれない。四角い頭の機械たちが机を並べて与えられた仕事をこなしているのだ。人間のようにディスプレイを見つめ、キーボードを叩いている姿は整然としていて、恐怖と滑稽さを同時に覚えた。

 人はどうして目に見えるものだけを信じて、そこで安心感を得ようとするのだろうか。ロボットをこんなふうに働かせてまで……。


 私はもやもやとしたものを感じながら、壁に表示された矢印に沿って進んだ。受付にはにこやかに微笑む女性がいる。「お疲れさまです」という労いの言葉に、私は適当な返事をして、記録装置をチェッカーに放り込んだ。送り元の照合や破損の確認を終えると受付の女性は私の査定にプラスを加える。彼女は貼りつけたような笑みのまま機械じみた動きで頭を下げ、私を追い払った。

 本当は人ではなく、ガイノイドなのではないか? 私は彼女と会うたびにそう疑問に思うのだが、まさか訊けるわけもない。「またよろしくお願いします」とだけ伝えて、立ち去ることにした。


 ――機械が仕事を奪う。

 機械工学が発展し、人工知能がめざましい進歩を遂げる中、そんな警鐘が鳴らされていたそうだ。「狩猟・採集から始まった我々の愛すべき労働を奪われてたまるか」誰も彼もがそう叫んだとか、叫ばなかったとか。

 だが、結局、機械は我々人類から労働を奪わなかった。

 我々が奪われたのは、機械そのものだ。

 もちろん、それは人工知能が自我に目覚め、権利を主張し始めたから――というわけではない。


 機械は今でも我々の従順なしもべである。優秀で、疲れを知らず、日夜働き続けるしもべ。そのおかげでほぼすべての人類は労働なしに衣食住を満たせるようになった。ただ、そうなると働くことの意義が薄れてしまう。一部の有識者によると人間は働きたがる生物であるらしい。彼らは必死に職を探し、この仕事を作り出した。

 機械が作り上げた資料を、人力で運ぶ。かつて存在したネットワーク機器をもじって「RUNケーブル」などと呼ばれているこの仕事が、我々人間に与えられたもっとも基礎的な労働だった。運動不足を解消し、社会参加の実感を味わわせるために一役買っているらしい。

 不条理ではあるが、そうでもしなければ我々は外出することはないのかもしれない。人間が働いていたのは安息の地を求めていたからだ。我々人類は裸で木の棒を振り回していたころからずっと、引きこもるための場所を探していた。


 ビルから出た私は膝を屈伸させ、走る準備を始める。報告をするために一度帰社しなければならない。深く息を吸い込み、一度空を見上げる。

 そこで目に入ったのは旋回するように飛ぶ紙飛行機だった。先ほど老夫婦に見せてもらったのと同型の紙飛行機が宙を滑っている。そのさらに上、ビルの中ほどの窓が開け放たれていて、あの機械じみた女性が顔を出していた。彼女は弧を描く白い紙を慈しむように眺めている。


 あなたが飛ばしたんですか? その質問は口の中で滞留し、結局声にはならなかった。自分でも理由は分からないが、彼女の行動がどこか神聖な儀式めいたものに思えたからだ。

 私は空を漂う紙飛行機をじっと見つめる。

 紙飛行機は同じ場所をぐるぐると回るように、一向に高度を落とさない。ふと、人間も同じだ、と寂しくなった。技術を発展させても、我々の精神は成長しなかった。

 明日もまた、浅ましさに成形された生活が待っている。

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