飛鳥人魚の大嘘

「忙しくて堪んないですよ」


 三十路男の溜息に人魚はくすりと笑った。豊聡耳とよさとみみと名乗った精悍な顔つきをしている男は思いがけなく友人となって以来、足繁く人魚のいる湖に通って来ている。どうもずいぶん高い地位にいる人物らしく、心労も尽きないのだろう、彼は会うたびに顔に似合わぬ繊細な愚痴を漏らしていた。

 古代であっても人間というものはそう変わりない。きっと彼も解決方法を聞きに来ているのではなく、ただ悩みを聞いて欲しいだけなのだ。

 人魚はそれを分かっていただけに、特に口を挟むことなく、黙って豊聡耳の文句に耳を傾けていた。


「人ってやっぱり自分の好きなように動くからさ」豊聡耳のその声は発した、というより、溢れたといった方が近い。「なかなか大変なんだ。少し前に決まりを作ってみたんだけど、みんながみんな守るわけじゃないし」

「どういう決まりなのですか?」

「難しいことじゃない、仲良くしろ、とかそういうのさ」

「ああ、それは素敵ですね」

「人魚さんは温和だし、そういう苦労はなさそうだなあ」

「そうでもありませんよ? 私だって友人と喧嘩したときくらいあります」


 その返答に豊聡耳は心底驚いたようだ。目を見開き、疑っているのだろうか、じっと人魚を凝視している。

 人魚は微笑み、続けた。


「人も人魚も、その他の生き物もそう変わりありません。貶されれば腹が立ちますし、ぶたれたら悲しくなります。大事なのは心を強く持つことではないでしょうか」

「心?」

「見てください」


 人魚はそう言って、腰掛けていた湖岸から離れる。澄んだ水の中を一掻き分だけ進み、深く潜り、それから、勢いをつけて水面から飛び出した。水滴が巻き上がり、その上でくるりと身体を回転させる。重力に引かれて落ちる最中、ぴんと腕を伸ばして水の中に入り込んだ。

 水中から空を見上げる。太陽の光が条になって差し込んできている。跳ね上がった水滴が水面を叩くとその光の束もゆらゆらと揺れた。波紋が滑るように広がっていき、収まるのを見届けてから、人魚は豊聡耳のもとへと戻っていく。


「おわかりになりますか?」水面から顔だけを出し、人魚は穏やかな笑みを浮かべた。「これほど大きな湖面でも私程度の動きで揺れるのです。しかし、それもすぐに収まるでしょう?」

「湖のような心を持て、と?」

「ええ、揺らいだっていいのです。その感情を受け入れることが大事なのではないでしょうか」


 人魚は豊聡耳をじっと見つめる。眉間に皺を寄せるのは彼が深い思索をしているときの癖だ。邪魔をするのも忍びなく、返答を待っていると、豊聡耳は大きな溜息を吐いた。偉そうなことを言ってしまっただろうか、と不安になったのも束の間、彼は表情を緩め、縄のような模様が入っている履き物を脱ぎ始めた。静止する暇もなく、下着姿になった豊聡耳は水面へと足を落とした。その拍子に生じた柔らかな波が遠くまで泳いでいく。

 揺れる湖面を眺めたあと、彼は勢いよく上体を倒し、草の上に横になった。


「……人魚さん、きっと人魚さんの言うことは正しい。でも、俺にはどうもこんな大きな湖にはなれそうもない。せいぜいが雨の後の水たまりくらいさ」

「どうしてですか?」

「俺にはそこまで許容量がないんだ。俺の仕事は人の言うことに耳を傾けることから始まる。今じゃ十人も一緒に聞くほどの忙しさで、たったそれだけで心が千々に乱れてしまうのさ」

「それならすぐに解決するじゃないですか」

「え」豊聡耳は身体を起こして訊ねる。「どうやって」

「事前に聞いておけばいいんです。言うべきことは紙にでも書いておけば忘れませんし」

「いや、まあ、それはそうなんでしょうけど……」


 豊聡耳は腑に落ちないような表情をしている。人魚は、同じ方面から攻められたらこれ以上の案は出ないかも、と頭を悩ませたが、ありがたいことに豊聡耳の自虐はそこで打ち止めとなった。


「人魚さんは簡単に言うなあ」


 呆れ半分、憧れ半分、といったところだろうか。しみじみとした呟きに人魚は声を高くして、頷いた。


「豊聡耳さん、簡単なんですよ。人も人魚もちっぽけでできることなんて限られてます。分からなかったら人に聞いて、できないことはやってもらうくらいでちょうどいいんですよ。私も細かい作業はろくろ首さん、ああ、友人に首がものすごい長い子がいるんですが、その人にお願いしちゃいますし、嫌いな食べ物はメデューサさん、髪が蛇でできている子にあげたりしてました」


 この時空の人間が聞いても半分も理解できないような話題であることは百も承知だ。ろくろ首やメデューサの特徴を説明したところで信じられるはずがない。しかし、人魚が本当に理解してほしいのはそういった枝の部分のことではなかった。

 豊聡耳はしばらく渋い顔をしていたが、やがて小さく頷き、それから冗談交じりの口調で言った。


「さすが人魚さんだ。友人も幅広い」

「他にもいっぱいいますよ。身体の大きな鬼さんとか、牛の顔のミノタウロスさんとか、あとは天狗さんとか」

「天狗?」と豊聡耳が顔を顰める。「あの夜空を流れる天狗ですか?」

「え、いや、違いますよ、天狗さんは鼻の長い男の子です」

「聞いた話と違うなあ……」

「まあ、とにかく私たちなんてこの世界と比べたら小さい生き物じゃありませんか。だから、思い煩う必要なんてないんですよ」

「世界、ですか?」

「そうだ、他の国に行ってみるのはどうです? あ、でも豊聡耳さんはお忙しい、ですよね……」


 豊聡耳は低く唸る。だが、その顔に暗い色はない。どこか吹っ切れたような清々しさが滲んでいた。


「いや、実は、外の国に人を送るという計画はあったんだ。しかし、そんなことをしてどうなるとも思ってて……でも、今、決めた。送ろう」

「ええ、帰ってきた人の話を聞く、ということもできますしね」

「あ、でも、手紙とか送らなきゃだな……なんて書こう」

「勢いに任せて強気に行くのはどうでしょう。毅然とした態度じゃないと相手も本気で聞いてくれないかもしれません」

「一考の価値はあるね」


 言いながら、豊聡耳は立ち上がり、両の拳を天へと突き上げた。そして、「やるぞ!」と強く叫ぶ。人魚には彼の決意が湖面を跳ね、力強く西へと飛び立っていくようにも見えた。微笑んで見つめていると、視線を感じたのか、豊聡耳と目が合う。彼は少し気恥ずかしそうに頭を掻いて、それからしゃがみ込んだ。


「人魚さん」彼は人魚の手を握る。「あなたと会えて本当によかった。何か望みはありませんか?」

「望み……ですか?」

「何でもいいですよ、寺を建てましょうか? あなたに相応しい大きな寺とか」


 人魚は「いえ、そんなの」と言いかけて、やめる。

 日がな一日、湖の中にいるのだ。もし、誰かがこの時空にやってきたとき――とは言っても人魚にはその誰かとなるのはこの実験への参加を渋っていた天狗くらいしか思い当たらなかったが――水底を泳ぎ回っていないとも限らない。メッセージを伝達する手段はあった方がいいだろう。


「では豊聡耳さん、あの山の上に小さい東屋でも一つ、作ってくださいませんか? 友人が訪れたとき、休む場所が必要だと思うのです」

「分かりました、おまかせを! ……その代わりと言ったら卑怯ですが、こちらのお願いも一つ聞いてもらえますか?」


 ええ。


 その言葉を発した瞬間、豊聡耳の顔がいやに真剣になった。外国に使いを送ると決めたときよりもずっと強い決意が漲っている。射貫くような、真っ直ぐとした視線に人魚は顔を逸らすことさえできなかった。

 まさか、と思い、次の瞬間に確信する。

 愛の告白だ。豊聡耳の表情には心を伝えようとする意志がありありと漲っている。人魚自身も心音が強く大きくなるのを感じ、慌てて彼の言葉を遮った。


「あ、あの、豊聡耳さん、ちょっと待ってください! もしやと思いますが……」

「ええ、おそらくそのとおりです。俺はあなたに――」

 そこで人魚は叫ぶ。「私、男ですよ!」

「心を寄せてなんですか? ん?」


 咄嗟の一言に、遅れて豊聡耳の顔面の筋肉が無様に硬直した。目の光が失われ、動揺、という形容に相応しく、眼球が右に左にと激しく動いていた。


「おと……え、あの、ちょっ、おとっ、え?」


 とはいえ、人魚も己の狼狽を実感している。しばし考えたのち、絞り出すように「ですから、私は男です」となんとか返した。


「いやー、ハハハ……でも、ほら、乳房が……」

「これは浮き袋が変形したもので……」


 言いながら申し訳なくなり、人魚は「すみません」と頭を下げた。だが、豊聡耳の反応はない。不自然な沈黙が二人並んで腰掛けた湖岸に満ちる。

 人魚は己の左手に目を落とす。ずっと握られっぱなしで振り払ってしまおうかとも思ったが、失礼であるのは間違いがなく、また、一秒ごとに豊聡耳の硬直が強固なものになっているため、逃げることもできそうになかった。


「……あの、豊聡耳さん?」

「まあ、いいか」

「え?」

「ちっぽけなものに囚われちゃいけませんよね、性別とか」

「えっ、へ、とよっ、んん?」

「さあ、人魚さん、俺を湖のように受け入れて、なんやかんやして、十七条の憲法を十八条にしましょう」


 貞操の危機――人魚の頭の中にあるのはその思いのみであった。もはや反射と表してもよい速度で身体を捻り、湖へと潜る。しかし、相手も一国の摂政である男、強固な意志で手を離そうとしなかった。暴力に頼るのはいささか以上に抵抗感があったが、そんなことも言っていられず、人魚は豊聡耳へと尾ひれを叩きつける。鈍い音が水中を伝播し、力が緩んだところで咄嗟に離れた。

 五メートルほど泳いだところでちらりと後ろを振り向く。打ち所がよかったのだろう、豊聡耳は気絶することなく、浮上を始めていた。


 このまま向こう岸へと行った方がいいのではないか。

 しかし、つい先ほどまで友人であったことを考えるとその決心がつかない。水中で大いに迷い、恐る恐る水面から顔を出す。豊聡耳は岸にしがみつきながらも人魚へと視線を向けていた。


「――人魚さん」


 そこで耳を打ったのは邪念に塗れた声ではなかった。精悍な顔つきの男の、力強い声が飛来し、水面を穿って人魚の胸に刺さる。


「人魚さん、俺は国を治めている人間です。妻もいます。それを踏まえてお窺いしてもいいですか?」

「……なんでしょう?」

「あなたは男ですか? それとも女性ですか?」


 ああ。人魚は小さく呻き、それから、嫋やかな笑みを浮かべ、濡れた長い髪を掻き上げた。国を動かす人間とはこうも愉快なのだな、と思いながら、歌うように答える。


「……ええ、私は男です」

「そうですか」


 豊聡耳は穏やかに息を吐き出し、岸へと身体を上げた。服の中に入り込んだ水が滝のようにこぼれ落ち、地面で跳ねる。


「では、友人として……また来ますね」


 静かな別れの言葉に人魚は「……お待ちしています」と言った。少しずつ小さくなっていく豊聡耳の背中は寂寞に覆われていて、寂しさと申し訳なさに堪えきれず、歌を歌う。それが離別の歌であるのか、まったく別のものであるのか、人魚には分からない。

 分からないふりをした。

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