じゃんけんに熱狂する村

 一年に一度、どうしようもなくじゃんけんをしたくなるときがある。

 その衝動はもはや熱病に近く、夜ごとうなされ、夢に見るほどだった。グーとチョキとパー、三択に頭を悩ませ、酔いしれたい。一秒で決する崇高なやりとりへの渇望はぐるぐると腹の中で渦巻き、私の身体を不自由にする。仕事もままならず、失敗ばかりが目立つようになってしまっていた。

 だが、そのことで誰かから叱責を受けることはない。人口百五十三人の村、その村民達は私と同様、じゃんけんへの根深い欲望を持っていたからだ。私が仕事道具を落とす傍らで、他の誰かは転び、またある者は忘我し立ち尽くす。流行病のように、飽くなきじゃんけんへの欲求は身体を蝕み、また、私たちはそれを抱えたまま生きていかなければならなかった。


      〇


 とは言っても、初めからそうと知っていたわけではない。

 まさかじゃんけん衝動が他の村民と共有しているものだと思うはずもなく、私は口を噤んで過ごしていた。当然だ。大の大人がどうして真面目な顔で「じゃんけんをしたいです」と言える? そうのたまったところで狂人と看做されるのがオチだ。仕事の失敗を論われることもなかったというのに、去年の私は同じ悩みを持つ者がいるなどとは考えつきもしなかった。


 一人でやるのはどうだ? 思春期の性衝動にも勝るじゃんけん欲はついに行き場をなくし、私を愚かな行動へと駆り立てた。自慰行為に励む青少年のように、同居している両親に隠れて右手と左手を戦わせる。何かに操られるように、右手はパーを出し、左手はグーを出した。


「お、おお……」


 興奮に胸が揺れる。利き手である右手が勝ったのだ。その五指は石を模した左手を包み込み、無力化している。知性の、人類の叡智による勝利だ。

 私は雄叫びを上げた。

 しかし、それは決して歓喜から来るものではなかった。違うのだ。私が求めていたじゃんけんはこんなものではない。もっと血湧き肉躍るものであったはずだ。誰かとの全存在をかけた対決、それこそがじゃんけんの本質である。決して一人で賄える類のものではなかった。


 焦りが身体を支配する。なまじまがい物に手を出したせいで私の中に潜む悪魔が暴れていた。本物を寄越せ、本物を寄越せ、と叫んでいる。その熱は喉を掻きむしりたくなるほどの強さで私を苛んだ。

 そして、ついに私は手を出してしまった。ああ、「手を出す」というのはなんて甘美な響きだろう。日曜の夕方、私は普段見ることもないアニメを食い入るように凝視していた。ストーリーはまったく頭に入らない。だが、坊主頭の少年が友人とじゃんけんをするシーンが映し出されたとき、何かが暴発しそうになった。右手が勝手に動いている。私はそれを必死に押さえつけた。少年は私に挑んでいるのではないのだ。


 テレビの中、少年はどうやら勝ったらしい。だが、私がそれを理解するには幾分か時間を要した。勝利を手にした彼はまるで喜んでいなかったからである。食い飽きた食堂のメニューを摂取するかのように、大した感動を見せもせず、敗北者に微笑みを送っているのだ。


「甘ちゃんめ!」


 私は力の限り叫び、テレビを揺さぶった。がたがたと音が鳴り、電源のコードがびんと伸びる。危うく床に叩き付けそうになったところで我に返った。


 醜い嫉妬だ。

 当然のようにじゃんけんをしている少年が憎くてしょうがない。心から欲しているものをいとも簡単に浪費する少年。彼は私の目指す姿であり、そうなれない私が産みだした幻影ともいえた。

 三十分、たったそれだけの時間が過ぎるのが蝸牛の歩みのようにのろのろとしたものに感じられた。しかし、時は来る。エンディングテーマが流れ始め、逸る気を落ち着かせる。

 そして、画面にアニメのキャラクターである主婦が映し出されたとき、私は全力で立ち上がった。大きな予感が全身を躍動させる。右手を振りかぶり、思い切り、叩きつけるような速度で前へと出した。


 ――選んだのはチョキだ。

 すべてを切り裂くような、鋭利な刃物。それを想像し、画面へと突きつけた。主婦の持つパネルにはパーが描かれている。

 膝の力が抜ける。全身が崩れる。私は咽び泣き、床を何度も殴りつけた。


 ――虚しい勝利だった。


 主婦は敗北したというのにもかかわらず、笑っている。明らかな嘲笑だ。余裕の笑み、本当の強者。

 私は勝ったのではなく、勝たされたに過ぎないのではないか?

 その疑問が脳内を支配していた。涙が留まることを知らずに流れた。見下しの視線を送ってくる主婦を呪った。なぜ、私を弄ぶのだ。私はただじゃんけんがしたいだけなのに。どうしようもない絶望に布団を被り、膝を抱える。食事が喉を通りそうもない。幸いなことに――今となっては必然ではあるが――いつもは「食事ができた」と声をかけてくる両親も何も言わなかった。


 転機が訪れたのは明くる日のことだった。滅多に使用されない村内放送で勇気ある少年が告白したのである。


「俺はじゃんけんがしたくてたまりません。このままではどうにかなってしまいます。どうかお願いします、俺とじゃんけんをしてくれる方は公民館に来てくださいませんか」


 彼の叫びは村民全員に救済を与えた。私だけではなかったのだ、その思いをもって公民館に走って行くと既に多くの人の姿があった。後ろを振り向くとまだぞろぞろと集まってきている。私の両親も恥ずかしげな顔をして歩いて来ていた。


「では、やりましょう」


 少年は顔を輝かせ、腕を掲げる。だが、そこで一つの問題が起こった。

 多人数でのじゃんけんに意味があるのか、ということだ。村民たちは私同様、一対一でなければこの状態から回復しないのではないか、と考えたのだろう。少年に群がり、幽鬼のような表情で叫んだ。


「俺がやる! 俺にやらせろ!」

「あたしがいちばんに来たじゃない! それに彼はあたしの恋人よ! 権利はあたしにあるわ!」


 己の欲望のみを優先する村民達に私は怯え、それから勇気を振り絞った。同時に心の中に潜む狡猾な悪魔が舌舐めずりしていることも感じている。


「みんな、待ってくれ! それなら彼に挑戦する権利をかけて予選を開かないか?」


 空気は一度止まり、全員が熟考を始めた。しかし、それも間もなく解消された。村民すべてが私の案を素晴らしいものだと認めたらしく、少年すらも了承した。自分に挑戦するために勝ち上がってきた者を一撃で屠る――そんな想像をしているのか、彼は表情を蕩けさせ、だらしなく涎を垂らしていた。


 村民たちは顔を見合わせると近くにいる人間とペアを組み始めた。争っていた二人の男女、父と母、私はそばにいた美しい少女に声をかけた。ダンスに誘うような気恥ずかしさを感じた。やがて少年以外の村民が組となる。少年は壇上に昇り、一際大きな声で号令をかけた。


「では一回勝負です! いきますよ!」


 じゃんけん――七十六組、百五十二人の雄叫びが重なる。老若男女、すべての人間が同様に声を上げ、最後の言葉を発した――ぽん。

 私はグーを出した。残された三種の神器、最後の一つ。あらゆる物質を粉砕する神々の大岩。結果を確認するまでもない。私の勝利だった。


 そして、私は渇望していたものを手にした。性的絶頂にも勝る快感が全身を貫く。興奮が脳を覆う。崩れ落ちた少女を見下した。馬鹿め、何がチョキだ。お前の薄っぺらな刃は何も切断することはできない。人生を百遍やり直せ。息が荒くなり、目の前が白く染まっていく。欲望が充足されたのだ。

 だから、少年の「では、二回戦行きますよ!」という言葉をすぐに飲み込むことができなかった。


 いやいやいや、何が二回戦だよ。もういいよ。


 そう口にしたのは誰であろう、私だ。

 村民たちも私にならい、罵倒を始める。「くだらないこと言いやがって、そんな暇があるなら勉強しろ」「ったく、こんなに人を集めといて何がじゃんけんだ馬鹿馬鹿しい」彼の恋人すら冷たい声を出し、地面へと唾を吐いた。「今さらじゃんけんとかきもーい」

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ、みんな。俺はまだじゃんけんしてないんだぞ」


 少年の姿はあまりにも見苦しかった。たかがじゃんけんができないくらいでマジでなに言ってんのか分かんないくらいだった。駄菓子屋にゲーム機があるからそれでやってろよ。泣くなよ、みっともない。呆れるわー。さすがにきつい。もうすぐ高校卒業だろ。現実見てなさ過ぎ。


      〇


 あの騒ぎから一年が過ぎた今日、私たちの村ではまた同じ現象が起こっていた。だが、今度は誰も「じゃんけん大会をしよう」などとは言い出さなかった。当然だ。私たちはあの日、勇気ある少年を見捨てたのだ。

 そして、気付いたときにはもう遅かった。父は母とじゃんけんをしている。隣の家では若い夫婦がじゃんけんをしている。子ども達は友人同士。それらを目にするたびに私は己の罪の大きさを嘆いた。

 あのとき、真っ先に裏切ったのは私だ。どうして私はあの哀れな少年に手を差し伸べてやらなかったのだ!


 村中を走り回る。多くの村民は私を嘲りながら目の前でじゃんけんをした。参加しようとすると羽交い締めにされ、そのさまを見せつけられた。

 今年は一人も赤子が生まれなかった。死亡者もおらず、転居した者も入居してきた者もいない。人口は変わらず百五十三人のままだ。最後の奇数になりたくはない。全身から汗が噴き出しているのを感じながら走っていると、スピーカーから愉悦に塗れた声が響いた。


「じゃんけんを終えたのは百五十人となりました。まだの方は公民館にお越しください」


 明らかな罠だ。私は見抜いている。だが、足が勝手に動いた。輪になった村民達は私の姿を見つけると同時に道を作った。その行き着く先、中心には去年、勇気を出して行動した少年と、私に負けた麗しい少女がいた。二人は私を一瞥し、愛を囁くように、「じゃあんけえん」と甘ったるい声を出している。


「やめろ、じゃんけんを侮辱するな!」


 しかし、私の制止は彼らには届かなかった。「じゃんけん」と言った瞬間、神々ですら三択を迫られ、何かしらの行動を起こさなければならないのが摂理である。彼らは各々の手を出し、相応の喜びを、悲しみを見せた。どちらかが勝ったのか、私には分からなかった。

 歓声が周囲を包み込む。私は倒れ、空へと向かって手を突き出した。「じゃんけん」と力なく口にする。――ぽん。

 雲の形はグーであるようにもチョキであるようにも、パーであるようにも見えた。

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