おにのほそ道

「先生、芭蕉ばしょう先生!」


 鬼はただでさえ赤い身体をいっそう赤くさせ、荒い息ともに前を行く男に呼びかけた。泣き出しそうな声に聞こえたのかもしれない、俳聖・松尾芭蕉は立ち止まり、眉をハの字にした。


「お前さんは鬼というわりに体力がないな」


 芭蕉も、その隣を歩いている彼の弟子、河合曾良そらも汗一つかいてない。鬼は自分が情けなくて額を拭うついでに、隠れてまなじりに滲んだ涙を払った。

 芭蕉はにっと笑い、手を叩く。


「さあ、今日の宿はもうすぐだ。きりきり歩くぞ」


 だが、彼らの足取りは、歩く、というにはいささか速い。四十を半ばも過ぎたとは思えない健脚に鬼は呻き声を上げ、必死に足を動かした。足を動かしながら、「この人たち」と考える。

 この人たち、忍者とか妖怪とか、そういうのじゃないの?


        〇


 時を遡り、元禄二年(一六八九年)、五月十三日。

 鬼は江戸を遠く離れた東北の山中で膝を抱えていた。鬱蒼とした木々のせいで昼だというのに辺りは仄暗い。空腹も相まって寂しさが渦を巻いて質量と体積を増す。

 この状態を「途方に暮れる」というに違いない。

 行きたい時代を選べ、科学者の言葉に鬼が咄嗟に思い浮かべたのは江戸時代だった。というより、あまり勉学を得手としなかったため、その時代しか出てこなかったと言える。だというのに江戸を行き先として指定しなかったのは勇気がなかったからだった。


 図体ばかりでかい自分が人前に出たら騒ぎになるに違いない。


 鬼が江戸を避けたのはひとえにそれが理由だ。生来の気の弱さからすると当然の選択ではあったのだが、そのときにあったのは後悔のみである。深い山中に投げ出され、聞こえてくるのは怪しげな生き物の音ばかり。乗ってきたタイムマシンは闇の中に掻き消えてしまっていて、動くに動けず、空寒い山の中に潜んでいた。


 芭蕉と曾良の二人に会ったのは二日後の五月十五日のことだ。

 彼らは道ばたでふと鬼を見つけると悲鳴とともに逃げるでも、襲いかかってくるでもなく、思案を始めた。むしろ叫び声を上げたのは鬼の方だ。ただでさえじろじろと眺められるのは苦手だった鬼は彼らの観察とも言うべき視線に逃げ出すべきかと考えていた。

 旅装の芭蕉は鬼から目を離さないまま、ぽつりと溢す。


「鬼、だな……詠めるか?」

「こっちが聞きたいところですよ」

「詠みにくいな。報告はすることになるだろうが」

「でしょうね」


「あの」とそこで鬼はなんとか会話に割って入った。なけなしの勇気を振り絞った声は調子が外れており、情けなく上擦っているのが自分でも分かるほどだった。


「ぼく、確かに鬼ですけど……なんで知ってるんですか? 驚いたりとか……」

「いや、驚いてはいる」芭蕉の声色は平静としていた。「ちらと知り合いから聞いていたが、本当にいるのか、と。ここまでの案内人が得体の知れないものが住み着いているとも言っていたしな」


 鬼は口を開けたまま、呆然とする。その理由は二つあった。

 一つは、鬼という自分の存在を知っていることである。この時空に来る前、タイムマシンを開発した科学者は「似た生物がいない時空を選んだ」と説明したのだ。名称が合致したとしても特徴が一致するのはおかしい。


 嘘だったのだろうか。


 鬼は少しだけ考えたが、すぐにやめた。栓のないことだからだ。だいいち、この時空の過去に当たる部分にはろくろ首、人魚、メデューサが飛んでいる。根明なメデューサであればさまざまな人に鬼自身を含め友人たちのことを話していたとしてもおかしくはなく、また、人魚もお淑やかなわりに饒舌だ。

 無理に自分を納得させ、彼はおずおずと訊ねる。


「あの……一つお伺いしたいのですが」

「ん? どうしたね?」

「ぼくを……鬼を知っていると仰いましたよね? なら、他の……ええと、ろくろ首ちゃんとか天狗くんの話も広まっているんですか?」

「ああ、まあ、そうだね。友人だったりするのかな?」


 鬼は肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をした。隠そうとしたのではない。自分の推測がおそらくある程度的を射ていると考えたからだ。そこで、溜息を吐く。

 江戸に行かなくてよかった、と。

 こんな旅人が自分を知っているのだ、きっと江戸では挨拶のように鬼が弱々しい存在だと馬鹿にされているに違いない。

 そうして安堵に胸を撫で下ろしていると、芭蕉は咳払いをし、「じゃあ、達者で」とあっさり歩き始めてしまった。

 鬼は慌てて立ち上がる。空腹で力が入らなかったが、この機を逃してはならぬ、と声を張り上げた。


「――あの、ぼくも一緒に行っていいですか!」


 草鞋と土の擦れる音が、ぴたりと止まる。振り返った芭蕉と曾良の二人、彼らの何を言っているのだ、と言いたげな視線を、鬼は唇を噛んで見つめ返した。

 先ほど、鬼が呆然としたもう一つの理由――それは彼らの泰然自若とした態度にどうしようもなく惹かれていたからである。ついて行けば自分の気弱さを治せるかもしれない、と。

 こうして、鬼は芭蕉の旅に随伴することになった。


        〇


 尾花沢(山形県北東部)に立ち寄ったのは翌日のことだ。紅の花が美しい街で、聞くところによると芭蕉の知り合いの富豪が住んでいるらしい。その人に宿の世話をしてもらえるとのことで鬼は大いに安心した。類は友を呼ぶ、というべきなのか、人格者である芭蕉の知り合いも大変な人格者で、驚きを示しはしたが鬼を拒まなかったからである。


 十日ほどの滞在――そこで鬼は生まれて始めて仕事というものを体験した。尾花沢の主産業は養蚕であるようだったが、どこにいても力仕事は必要となる。肌の色を隠すために布の切れ端で頭巾や丈の長い着物を繕ってもらったため、その対価として労働力を提供することになったのだ。

 多くの作業は膂力には自信があった鬼にとってなんてことのないものだった。働いているうちに村人たちとも会話を交わせるほどになり、感謝までされるとなるとなんとも心地がよい。汗を流して労働に没頭する日々が続く。


 そうして明日には出発だ、という日に至ったところで、鬼は連れだって村の外へと歩いていく芭蕉と曾良の姿を目にした。いや、それは大して珍しいことではない。だが、気にかかったのは彼らの表情だった。「縄の文様が」どうとか、「痕跡はないが」どうとか、難しい顔で話している姿はどうにも剣呑としたものだったのである。

 そのさまは彼らが愛好する俳句なるものを考えている姿とはかけ離れており、不安になった鬼は思い切って質問することにした。しかし、押しの弱い鬼は軽々とはぐらかされてしまう始末だ。釈然としないものを感じていると曾良が頬を緩め、それから、お返しとばかりに鬼へと訊ねた。


「そういえばお前はろくろ首や天狗と知り合いだと言ったな?」

「ええ、ろくろ首ちゃんは手先が器用で、天狗くんは何でも知ってるし、何でもできるんですよ」

「そうかそうか」と曾良は顎を撫でる。「いい友人のようだ。して、彼らはどこにいるのだ? 一緒ではないのか?」


 何と言えばいいのか、分からない。タイムマシンと説明したところで理解できないだろう。鬼は首を傾げ、傾げに傾げ、倒れてしまうほどに傾げた。実際に横に倒れると曾良は大きな声で笑った。


「なるほどな、一人だからおれと師の旅路についてきた、というわけだ」

「あ、えっと、はい」否定の苦手な鬼は小さく頷いた。

「まあ、それならいい。明日からまた歩くからな、十分に休んでおけ」


 部屋から出て行く曾良を眺め、鬼は横になる。部屋の灯りを消し、綺麗に畳んだ着物が闇の中に沈むと同時に目を瞑った。


        〇


 芭蕉と曾良との旅路は辛くも楽しいものだった。

 寺を見に行くためだけに歩いてきた道を引き返したり、川下りで転覆しかけたり、泣き言を吐きたくなるような出来事は多かったが、その分だけ美しい景色の中に身を投じることができた。

 燦々と降る日差しの中で蝉の声だけが響く寺、青々とした緑の中を走る雄大な川、体調を崩して医者の世話になることもあったが、前に進むたびに鬼は新しい体験をし続けた。


 旅は最北端である象潟(秋田県沿岸南部)を過ぎ、海岸線に沿って南下していく。出羽(山形)、越後(新潟)、越中(富山)、加賀(石川)と通り、越前(福井)を目の前にしたところで鬼はかねてより抱いていた疑問を口にした。


「先生、芭蕉先生はぼくと初めて会った日のことを覚えてますか?」

「ん……ああ、覚えているよ」

「先生はあのとき、ぼくのことを『詠みにくい』と仰いましたよね? あれはいったいどういう意味だったのでしょうか」


 鬼は芭蕉と曾良との旅路を思い返す。二人は美しい風景――それは大きな自然であったり、些細な人の仕草であったりした――を見て、それをたった十七文字で表現するというあまりに奇跡的な試みをしていた。だが、鬼という珍しい題材があるというのに、彼らは自分を題材にすることはなかったのだ。


 きっと、ぼくが美しくないから。


 それは重々に承知している。聞きたいのは、何を改善すればよいのか、だった。二人が句を練り、ああでもないこうでもないと推敲するのと同じように、鬼も自分を磨きたいと考えたのである。

 鬼はじっと芭蕉の背中を見つめる。駆けるように進んでいた芭蕉の足が止まり、彼はゆっくりと振り返った。


「……理由は二つあるかな」

 唾を飲み、訊ねる。「教えてもらえますか」

「お前さんは美しくない――」


 胃の奥が重くなった。内臓が不揃いに動き、鬼は呻きを堪える。やっぱり、と拳を握り、俯きかけた瞬間、芭蕉の清冽な声が響いた。


「――まだ」

「……え?」

「人を題材とした俳句は難しい。それが特定の者となるとなおさらだ。……これは私が未熟だからだが」

「そんな」


 咄嗟に芭蕉の謙遜を否定する。文学などというものに疎く、品評するにはほど遠いながらも鬼は彼の読む十七文字に美しさを感じていた。美に真正面から向き合い、その瞬間を切り取ろうとする彼の発句は清々しさすらあるほどだったのだ。

 しかし、その言葉にすら芭蕉は首を振った。


「この道は研鑽に研鑽を重ねても極めることなどできない。かつて詠んだ歌を見返しても恥ずかしくなるときがあるほどだ」

「それが面白いとも言えます」と曾良が微笑むと、芭蕉も深く頷いた。

「鬼よ、お前さんもそれと同じだ。お前さんは不完全で、それが美しくもあるのだが……、ただ、まだまだ、峻厳たる美に近づく余地がある」


 そこで芭蕉は一度言葉を切り、鬼をじっと見つめた。


「もし、そのときが来たら詠ませてもらおう」


 ――稲妻に貫かれたような衝撃が走った。

 鬼は何か自分が生まれた意味、のようなものを悟った気分になり、涙を流す。「外」のひとに認められたのは初めてで、その実感は両手で抱えきれないほどの尊いものにも思えた。


「おいおい、泣くな泣くな」


 背中をさすられ、それでも涙は止まらない。

 呆れたような物言いで芭蕉は続けた。


「で、もう一つはお前さんと私たちはだからだ」

「え」


 顔を上げる。涙で滲んだ視界に映ったのは人ならざる形をした二人の姿だった。芭蕉は犬のような顔、曾良は猫のような顔になっている。光を反射して輝く毛並みに目を何度かしばたたかせると、彼らはあっという間にもとの人の姿へと戻った。


「おかしいと思わなかったか?」と曾良が笑う。

「人に出せる速度じゃなかっただろう」と芭蕉は眉を上げる。


 え、え、と鬼は狼狽する。自分を見ても驚かなかったのはそれが理由か、と考え、しかし、口にすることはできない。その様子を目にし、芭蕉は手を叩いて喜んだ。


「おお、驚いてくれたな……近頃、地の底にあるあやかしの国の者が頻繁にこちらへ来ているらしくてな、幕府のお偉方の命で、俳句を詠むついでに行脚していたというわけだ」


 そして、彼は「さあ、行こう」と前方を指さす。鬼はなんとか返事をし、後を追う。不思議なことがあるものだ、と笑みが溢れた。


        〇


 ――この二年後、元禄四年の秋、芭蕉は一つの句を詠む。


 鬼灯ほおずきは 実も葉も殻も 紅葉哉もみじかな


 それが全身真っ赤な鬼を題材に詠まれた句であると知る者は少ない。月日が経っても人前に出ると恥ずかしさで紅潮してしまう鬼の繊細さに、芭蕉は大いに笑ったという。

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