ヒトミさん
居酒屋の店員と仲良くなるのはそれなりによくある事態だとは思うのだけれど、まさかドライブに行くほどの関係になるとは露ほども考えていなかった。
とはいえ、発端はわたしだ。
学部の友達と卒業旅行でヨーロッパに行き、そこでヒトミさんのことを思い出し、大学を卒業したら〈ちゃんぷ〉でビールを飲むこともなくなるな、と寂しくなったのがお土産を買った理由である。それを渡すとヒトミさんは急に「遊ぼうよ」と言ってきたのだ。友達の多くはアルバイト先、サークルなどで複数回の卒業旅行を控えていて、「どれだけ卒業するつもりなのか」とは思っていたのだけれど、それを声高に非難したところでどうなるわけでもない。手帳には真っ白な日々が続いていたため、わたしはヒトミさんの誘いを了承した。
三月になると大雪は嘘だったのではないかというほどあっさりと溶けていて、彼女は「ドライブしようぜ」と提案してきた。ドライブ、というのは移動手段を示すものではなく、その間に見える景色や会話を楽しむものだということはわたしも知っていて、拒否しない。
ただ、予想外だったのはヒトミさんが白い軽自動車で駅のロータリーに現れたことだった。ドライブ、と声高にいうからには真っ赤なスポーツカーなんかで登場するのではないかと疑っていただけに猫騙しを食らったような気分になる。それを正直に伝えるとヒトミさんは「あたしほとんどフリーターの劇団員だからそんなの買えないよ」と理由なく胸を張った。わたしより小さい胸を。でも、まあ、それと引き替えにヒトミさんは器が大きい。わたしが助手席に乗り込むと同時に、彼女は後部座席にあるクーラーボックスから缶ビールを取り出して渡してきた。
「寝ないよう、でも、テンションを下げないよう、絶妙のタイミングで飲んで」
断ることもできず、わたしはプルトップを引き上げ、一口流し込む。空っぽの胃の中で炭酸が跳ね、車が出発する。
時刻は夜九時、昼まで寝ていたため、眠気はない。
〇
「で、やえちゃんは誰が好きなの?」
八王子インターから高速に乗り、神奈川方面へと向かっているとき、ヒトミさんは唐突にそう訊ねてきた。忍者さながらの慎重さであったならまだ平静を保つことができたのだろうが、ヒトミさんの口調は幅跳びの選手のような思い切りの良さがあり、わたしはたじろぐ。
「なんで、急に」
「なに、慌ててるのよ」とヒトミさんは笑う。「処女じゃあるまいし」
わたしが処女であるか否か、それは本題には関係がないため、詳しく説明しない。性体験の有無は恋心の発生要件やその隠蔽理由についてはあまり影響しないからだ。ヒトミさんも大して興味はなかったようで、もう一度「で、誰なの」と続けた。
「八重樫せんぱいです」
「名前は重要じゃない」
「でも、名前は何よりも重要らしいですよ」
「あたしにとっては、重要じゃない」ヒトミさんは念を押すように言う。「容姿と好きになったところを述べよ」
「これ、裁判か何かですか?」
わたしとしては猛牛をひらりと躱すマタドールさながらのはぐらかし方ではないか、と思ったのだが、どうにもヒトミさんの追尾性能は凄まじく、結局、八重樫先輩について詳しく口にする羽目になった。どこが好きなのか、というものを改めて言葉にするのは恥ずかしく、わたしがたどたどしく喋っている間に何台もの車に追い越されていった。
長い説明を終えるとヒトミさんは興味深そうに唸る。その態度は学部の友達がするような反応ではなく、おや、と思う。
「やえちゃんは」としばらく車を走らせた後で、ヒトミさんは言葉を選ぶようにして言った。「結構珍しいタイプだ」
「存じております」
「ちょっと予想外だったよ。まあ、でも、うん、悪くはないと思う」
「でも、万が一付き合うことになったとして」
もちろん、わたしがその状況を望んでいるのは間違いがなく、「万が一」と口に出すのはあまりいい気分ではなかったのだけれど、その枕詞を愛用せずにはいられない。
「万が一付き合ったとしても、今までと同じじゃいられないですよね」
「どうだろうね」
「わたし、八重樫せんぱいたちが四人でいるとき、いや、そこにわたしもいるから厳密には五人なんですけど、とにかく、あの四人が一緒にいるときがいちばん幸せなんです」
「分かる気もする」
ヒトミさんの言い方には呆れや面倒くささはなく、むしろ積極的な賛同が含まれているようでもあった。彼女はドリンクホルダーに入ったペットボトルを器用に片手で開け、一口飲み込む。
「あたしがさ、八重樫くんたちと会ったのはやえちゃんよりも早いわけよ。あいつら一年から〈ちゃんぷ〉に来てたし」
そのときは未成年でしたよね、と確認すると、機械的な声でお酒はお出ししておりません、と返される。
「でさ、あたし、そのサークル……っていうか怪しげな団体が結成される瞬間を目撃したわけ」
頭の中にいつも冗談を飛ばす先輩の顔が思い浮かぶ。結成理由などは教えてもらえなかったが、その先輩が発起人であることは耳にしていた。
「やえちゃん、きみが今まで参加していたサークルの本当の目的を教えてあげようか」
「本当の目的?」
わたしはそれだけおうむ返しにして、考える。
そもそもあれをサークルと呼称すること自体が間違いかもしれない。サークルの定義は分からないが、ある程度の目的があり、それなりの人数がいて、継続的な活動をしていることはきっと必要だろう。二つ目と三つ目は甘めに採点して合格にしてもよかったが、最初の「目的」に関しては推測することすらできない。
結局答えが思い浮かぶ前に、ヒトミさんは正解を発表した。
「彼女を作ること」
「へ?」
「あいつら、彼女を作るために徒党を組んだの」
「そんな馬鹿な」
だとしたらあまりにむごい。わたしは先輩たちからアプローチらしいアプローチをされてこなかった。だとしたら、先輩たちはわたしに対して女性的魅力を感じていないことになる。これはもう告白どころの騒ぎではないぞ。
そう思っていると、ヒトミさんは「信じた?」とけらけら笑った。
「ちょっともう、嘘だったんですか?」
「まるっきり嘘ではないけど、真実とはちょっと違うかな」
「よく分かりません」
「どうやって知り合ったのかまでは知らないけどさ、あの髪を逆立てた子がこう言ったわけ。『今しかないぞ』って。それがあんまり大きな声で熱が入っていったものだからあたしも聞き耳を立てて」
あの先輩なら言いかねない、と思う。我がサークルの中で突拍子のないことを言い始めるのはだいたい彼の役割で、唐揚げ選手権などが開催されるようになったのもその一端らしい。
「それで、何が『今しかない』んですか?」
「彼女を作ったりだとか、友達を作ったりだとか」
「でも、社会人だって別に作ろうと思えば作れますよね」
わたしとヒトミさんとか、と言ってのけるにはあまりに照れくさく、口にしない。ヒトミさんも不本意そうにではあるが、頷いた。
「そりゃそうだけどさ、でも、打算がつきまとう。女なんて特にそうでしょ。妊娠、子育てってのがあるとどうしたって働けなくなって、だから金のある男に粉をかけたりする。あの子はそういうの抜きにした関係性を築き上げたかったらしいよ」
「それこそ打算に塗れている気が」
そうだね、とヒトミさんは口ずさむように言った。「打算に塗れて、打算のない関係性を」
わたしは缶の中に残ったビールを呷り、後部座席のクーラーボックスから新しいものを手に取った。ぷしゅっ、と軽やかな音が鳴る。大きく一口飲み込んでから、息を吐いた。
ヒトミさんの話は嘘に聞こえなかった。
格闘家の先輩は打算という考えの対極にある気がしたし、眼鏡の先輩はそういう真っ直ぐな態度に憧れを持っているような節があり、小動物系の先輩は乗せられやすい。そして何より、日頃からあの四人を見ていたわたしにとっても、先輩たちの関係性には小賢しい嘘は存在しなかったのだ。
「でも、なんでいきなりこんな話をしたんですか?」
「安心しな、ってこと。やえちゃんがどんなことをしようが、あの四人は変わらないよ。やえちゃんは嫌われるかもしれないけどさ」
「嫌われたくない場合はどうしましょう」
「事前に唐揚げ選手権でもしとけば? で、嫌わないでくださいって言っとくとか」
「それでどうにかなりますかね。それにわたし、勝ったことないんですけど」
「まあ、協力はしてあげるよ。その後のことはしーらない。でも、後悔だけはしたくないでしょ?」
ヒトミさんの「後悔」という言葉にはどこか重苦しいものがのし掛かっていて、わたしは頷く。ハンドルを握る彼女の左手、薬指にはあるべきものがないような空白が、痕とともに残っていた。
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