四年冬:嘘、雪と溶けて
東京には雪が降らない。
四年前までわたしはそう思っていて、つまり、東京の冬、というか八王子の冬を舐めていたのである。しかし、一年生の時、例年にない大雪でキャンパスに雪像がいくつも作られる風景を見て、自分の無知を思い知らされた。
卒業を間近に控えた四年の冬。
異常気象かそれとも冬将軍が気まぐれに本気を出したのか、八王子は三年前の大雪にも引けを取らない豪雪となっていた。わたしが住む学生アパートのドアが開かなくなるほどで大学に来るまでどれだけ四苦八苦したことか。
それを伝えると先輩はいつものような陽気な笑顔で「気にするなって」と言ってのけた。それはあなたの台詞ではないのでは、と苦言を呈すると「それもそうか」とわざとらしい神妙な顔をする。社会人になってもう一年も経とうとしているのにトレードマークである逆立てた髪の毛は以前と変わらず、しっかりやれているのか心配してしまいそうにもなった。
「で、どうしたんですか、わざわざ呼び出して」
「仕事で近くまで来たからだよ。何してんのかなって」
「なんだ、案外社会人してるんですね」
「案外ってなんだよ。俺はもうばりばりよ?」
ばりばり、とはあまりに抽象的で疑いたくなる反面、先輩は人当たりがいいため嘘ではないのだろうなとも思う。でもそうやって褒めると調子に乗るため、わたしは顔を引き締めて言った。
「本当ですかあ? 卒業の時、あんなに苦労してたのに」
「俺は、苦労してない。苦労したのはあいつらだから」
当時のことを思い出して懐かしむ。サークルのメンバーの中で先輩だけが留年の危機に陥っていて、まあ先輩は「別に留年くらいいいじゃねえか」と嘯いていたのだけれど、めでたく阻止されたというわけだ。そのときのことを話すたびに先輩は「卒業を画策された」と不満げになる。
「やえちゃんはさ」と先輩はしゃがみ込む。見ると雪玉を作っていて、後れを取らぬよう、わたしも同じように毛糸の手袋で雪をすくった。「卒業できるの?」
「あ、馬鹿にしてます? わたしなんて四年生の時に受けた授業、卒論指導だけですからね」
「就職はどうなったんだっけ?」
「決まりましたってば。夏にお祝いだってしてくれたじゃないですか」
だが、先輩は空とぼけて「そうだっけかあ」と鷹揚に言った。そして、ノールックで雪玉を投げてきたが、速度は遅く、ひらりと躱して逆襲する。わたしが投げた雪玉は見事先輩の胸元に直撃した。
「わたしも八王子ともおさらばですよ。都心に引っ越しますからね、もう少し会う機会が増えるかもです」
「え、もう部屋決まってんの?」
「当たり前じゃないですか。三月入ったら荷物も運びますよ」
「しっかりしすぎだろ。俺なんて引越しの準備始めたの三月三十日だぞ」
わたしは呆れて次弾の準備を行う。それを見て先輩も慌ててしゃがみ込んだが、遅い。先輩が一つ作る間にわたしの雪玉は二つ完成していた。
「遅すぎ」
「しょうがねえだろ、不器用なんだから」
「違いますよ、引越しの話。だいたい、それでどうやって引っ越せたんですか」
「まあ、全部あいつらに任せだよ。どうせ住むところ一緒だったし」
「え」
雪玉を投げようとした手が止まる。全員が都心に住んでいるとは聞いていたが、一緒に住んでいることまでは聞かされていなかった。荷造りは手伝ったが、その後はノータッチだったのだ。
「一緒って……どういうレベルの一緒ですか?」
「どういうレベルも何も、一緒の家だよ。一軒家借りてルームシェア。そういう協定があったんだ」
「聞いてないですよ、なんで言ってくれないんですか」
「言ったらお前が襲来するじゃねえか」
「襲来していいじゃないですか!」
わたしは雪玉を二発、思い切り、投げる。先輩は躱そうと試みたが、相変わらず運動神経が悪く、ばん、ばん、と見事に着弾した。いくつものブロックに割れた雪玉がぼとりと地面へと落ちる。
わたしの心も割れ、落ちている。
教えてくれたっていいのに。
なんだか勝手に裏切られた気分になり、そう考えている自分が情けなくて唇を噛んだ。
――学生の頃から先輩たちは仲が良かった。いつでも一緒、というわけではないが、全員が全員、最後に帰る場所がそのサークルと信じているような雰囲気があったのだ。学部も性格もばらばらなのに強固な結びつきがあり、わたしはそれが心底羨ましかった。
最後の最後まで告白できなかった理由はいくつかある。
その中の一つに、先輩たちの繋がりがあった。
わたしはあくまで遅れて入っていった人間だ。しかも、本来、先輩たちのサークルに入る資格などなかったのにも関わらず温情で入れてもらっただけなのだ。そのことに少なからず引け目を感じていたし、それに、八重樫先輩たちはその輪の中で完成しているように思えてならなかった。そして不幸なことに、わたしが好きになったのは四人でいるときの楽しそうな表情だったのだ。
不純物……、ああ、そうだ。わたしは先輩たちの輪の中では不純物に過ぎなかったのだ。
これでいいのかもしれない。先輩たちは四人で楽しくやっている。わたしもこれから就職して流されるように生きていくのだろう。きっぱりと忘れた方が幸せかもしれない。
だが、そんな憂鬱など吹き飛ばすような溌剌さで、ひょうきん者の先輩は笑っていた。
「そういや、俺たちのサークルってどうなった?」
「……は?」
「新しい人とかよ」
苛立ちとともに返す。「せんぱいたちも勧誘してなかったし、入ってるわけないでしょ。だいたい、あんな名前のサークルじゃ宣伝もできませんよ」
「あんなって言うなよ、これ以外ない名前だろ」と声を荒らげているわりにはどこか嬉しそうだ。
「入会条件も厳しいし」
「やえちゃんの時は緩めた」
「くだらない理由で」
だが、わたしのその反論に先輩は食ってかかった。口角泡を飛ばし、詰め寄ってくる。運動神経が悪いせいで一度転びそうになっていた。
「くだらなくなんてないだろ、これ以上ない理由だ。だいたい、俺たちがあの名前にどれだけの愛着を持っているか」
それはそうだろうけれど、とわたしはその言葉を飲み込む。先輩たちの唯一の共通点を表した極めて明確なサークルの名前だ。でも、その共通点はわたしには完全に及んでいない。
「……なあ、やえちゃん」
先輩は普段よりもずっと落ち着いた声でわたしの名を呼んだ。何か言いたげに口をぱくぱくと動かし、それから、口を閉じる。明らかに別の言葉を準備したと分かる表情だった。
「……卒業祝い、しようと思ってんだよ。いつもの〈ちゃんぷ〉でさ、都心からになるから面倒だろうけど、俺たち、精いっぱい祝うよ」
「それは、ありがとうございます」
こんな感じにするつもりだったわけじゃないのに。わたしは久々に会うと決まったときの浮ついた気持ちを思い出そうとする。が、上手くいかない。心が自己嫌悪で錆びていて、こんなことなら男に生まれたかった、と変えようのない事実に煩悶する。
何だか泣きそうになってしまって、わたしは先輩に背を向けた。同時に声をかけられ、振り向かずにいると柔らかい衝撃が後頭部で跳ねた。いつの間にか先輩は駅へと向かって走っている。
人の気持ちも知らないで!
そう叫ぼうとしたところで、ぶつけられたのが雪玉ではないことに気がついた。いや、雪玉ではあるのだが、袋が巻き込まれているのだ。透明の袋の中にはさまざまなお菓子が入れられている。
悲しさと嬉しさと懐かしさが胸の中で同時に揺れる。
「やっぱ、せんぱいって馬鹿ですよ……」
日付をどうするかくらい話しておくべきなのでは?
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