結:八重樫せんぱいが消える日
――わたし、八重樫せんぱいが好きです。
一世一代の勇気を振り絞った告白に、全員の動きが止まった。
唐揚げ選手権直後の〈ちゃんぷ〉、わたしの後ろにはヒトミさんがいて、前には八重樫先輩たちがいる。先輩たちは神妙な顔を合わせ、それから、声を合わせた。
「……どの?」
格闘家の八重樫先輩も、眼鏡をかけた八重樫先輩も、小動物系の八重樫先輩も、髪を逆立てた八重樫先輩も、じっとわたしを見つめている。サークル〈八重樫〉のメンバーは何も言わず、次の言葉を待っているようでもあった。
ほら、とヒトミさんが背中に手を触れてくる。わたしはポケットの中にあるお菓子に触れ、落ち着こうとする。やえのお菓子、やえがし、わたしと先輩たちを繋げる絆。そして、大きく息を吸ってから、小さな声で応えた。
「全員なんです」
「は?」と四つ重なる。
「あの、もうこれ以降は呆れてお帰りになっても仕方ないと思うんですけど、そのですね、わたし、八重樫せんぱい四人に恋しちゃいまして……」
「四人同時に、ってこと?」小動物系の先輩が目を丸くしている。
「その通りです……」
「それは……想定外だな」と眼鏡の先輩が眉を顰め、格闘家の先輩が「この場合はどうなるんだ」と腕を組んだ。「この場合?」ヒトミさんが訊ね、髪を逆立てた先輩が答える。
「今日の唐揚げ選手権で誰が告白するか、決めることになってたんだよね」「誰に?」「一人しかいないでしょ」
わたしは喜んだものか、悲しんだものか、分からない。少なくとも重大な裏切りをしているように思え、内臓を握りつぶされているような感覚を覚えた。
「ってことは全員、やえちゃんが好きだったってわけ?」
ヒトミさんは援護射撃のつもりなのだろうか、わたしは「それ以上はやめてくれ」と声に出しそうになった。それより先に格闘家の先輩が口を挟む。
「だから、フェアに唐揚げ選手権をした。九藤を連れてきたのは俺だから俺に有利な条件だ」
「で、九藤ちゃんが勝った」小動物先輩が補足する。「勝ってしまった」と言い直す。
「なら、やえちゃんの望み通り、五人で付き合えば?」
「それは」
と八重樫先輩たちは再び声を揃える。空白が浮かび上がり、そこに眼鏡の先輩の言葉がするりと舞った。
「一夫多妻や一妻多夫は否定しない。合理的なメリットがあるのは事実だ」
その後に続くであろう「でも」や「だが」が恐ろしく、わたしは耳を塞ごうとする。しかし、それよりも早くヒトミさんが歌い上げるように、言った。
「そうよね、愛は分割できないし」
そこで、わたしと眼鏡の先輩が同時に「え」と声を上げた。ヒトミさんの口調はあまりに淀みなく、言い慣れた感じが出ていたからだ。彼女は右手で左手の薬指を挟み、続けた。
「あたしの昔の旦那、あんたらの大学で教授やってんだけどさ、知ってる? 浮気者の糞野郎なんだけど」
糾弾されているのが他ならぬ自分であるように思え、逃げ出したくて堪らない。
きっとわたしもあの教授と同類なのだろう。
愛は分割できない。だからその愛を向ける人は一人でなければならない。そのあまりに簡単な帰結にわたしは涙が出そうになった。涙が出そうになることそのものを恥じた。泣けば済むと考えているような卑怯な女であることを自覚して、この世から消え去りたくなった。
ヒトミさんは朗々とした声で続ける。
「浮気は愛を分割しようとする糞のすることよ。あの人も浮気を認めて『もうしない』って縋り付いてきた。本気ならまだしも浮気って認めたから、蹴り飛ばしてやったんだけど」
そこで彼女は言葉を切り、わたしの背中を叩いた。
「やえちゃんは正々堂々と四人同時が好きって言った。事前にね。たぶん、これって愛の分割してるわけじゃないと思うのよ。全員に等しく全部の愛を注いでるんじゃないかなって。それは、結構、潔い」
「……オッケー、言いたいことは分かった」髪を逆立てた先輩は肩を竦める。「でもこっちもパニックだ。誰が付き合っても祝福してやろうと思ってたし、祝福させてやろうと思ってたからね。まあ、五人で交際するのを想像したら意外と楽しかったけど」
「嘘だろ」と小動物系の先輩が声を上げる。「お前は想像力が豊かすぎる」
「ただ、重大な問題があるんだよね」
「なに?」
「俺たち四人と、やえちゃん一人、そうなると『八』にならない」
「え?」
わたし含めて、その場にいる全員が同時に顔を歪めた。何を気にしているのだ、と言いたかったし、眼鏡の先輩は実際に「何を言ってるんだ?」と口にした。髪を逆立てた八重樫先輩は「え、覚えてないの」と狼狽する。
「俺たちがそれぞれ結婚して、嫁連れて集まれば八重樫が八人になるから真の八重樫だって言ったろ?」
「いつのことだ」「真の八重樫って、馬鹿じゃないの?」「本気だったのか」
「本気だよ、名前ってのは大事なんだって! だからお前たちに声をかけたんじゃねえか」
「そんなことがあったんですか?」
わたしは思わずそう口にした。口にしてから「あ」と思う。しかし、予期していた刺々しい視線がわたしに刺さることはなかった。先輩たちは「そうだったかも」と記憶を辿るような弱々しい声を出している。もしかしたら「八重樫」を告白の拒絶理由として採用しようとしたのかもしれない。
だが、そこでヒトミさんがあっけらかんとした口調で「問題ないじゃん」と言った。
髪を逆立てた先輩が訝り、食ってかかる。
「名前は大事なんだって! 俺のジンクスなの! やえちゃんが『やえ』って名前じゃなかったらサークルには入れなかったかもしれないくらいだ」
「いや、それ、八重樫だから問題があるわけでしょ。じゃあ、名字を変えたらいい話だと思うんだけど」
「は?」
「やえちゃん、名字は?」
問われて、反射的に答える。「九藤です」
「ほら、全員やえちゃんと結婚して、で、一人ずつ子どもできれば九人じゃない」
「あ、本当だ」
理由はともかく、髪を逆立てた先輩の勢いが失われる。「突拍子のないひょうきん者」の面目躍如といったところだろうか、降参の意を示すかのように両手を挙げた。それを見たヒトミさんがにんまりと笑う。
「それが嫌なら、一人ずつ順番に同棲していけば? そしたら脱落者が出るかも」
「いや、それは無理だ」格闘家の先輩はいつものように空気を読まない。「俺たちはルームシェアをしている」
「え、ならちょうどいいじゃん」
ヒトミさんはもう援護射撃と言うより主砲の趣を呈していて、わたしは堪えきれず、立ち上がった。
これは誰の恋路だ? わたしの恋路だ。他人任せにして得られるものなど何もない。全員の注目が集まる中、ぎゅっと拳を握り、宣言する。
「もう一度、唐揚げ選手権をしましょう!」
その声に、全員の動きが止まった。
そうだ、思い出せ。わたしは図太い女だ。あの夏の日を思い出せ。肝試しで小動物系の先輩が怯えるところを見たいがためにレンタカーの窓に手型をつけたあの日のことを。
嫌われたっていい。
たぶん、嫌われることよりも、この恋を他人任せに進めることの方がずっと恐ろしいのだ。
わたし、九藤やえは確かに恋をしていた。
打ち明けた学部の友達にどうして、と訊ねられたが、気にしなかった。やめた方がいいよ、と忠告されたが、気にしなかった。
だって、好きなんだもん。恋する女の子にとっては赤信号だって進めになるのだ。
同じ大学で、一つ上、四人の、八重樫先輩。わたしはその全員が等しく好きで、ずっと一緒にいたいと思った。人から見たら不純極まりない、どうしようもない恋心かもしれない。それでもわたしは四人の八重樫先輩が好きで、好きで、その中から一人を選ぶことこそ、愛を分割するような所業に思えてならなかった。
わたしはもう一度、大きな声ではっきりと口にする。
「わたし、八重樫せんぱいが好きなんです」
……この話の結末は語らない。もしかしたら白い目で見られて唐揚げ選手権は開催されないのかもしれない。開催されたとしても負けてしまうかもしれない。勝ったとしても付き合うことにはならず、厚顔無恥な尻軽として別れを告げられるかもしれない。
いずれにしてもわたしの前から八重樫先輩は消える。
ハッピーエンドなら先輩たちは九藤になり、バッドエンドなら文字通り、だ。
オールオアナッシング、法律なんて糞食らえ。
わたしはぎゅっと拳を握る。これがわたしなりの純愛なんだ。
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