延々遠泳

タイトル:海の果て

キャッチコピー:泳いだ先にあるものとは……?


 鉛筆である。


――――――――――――――――――――――――――


 日は高く、風は穏やか。波頭の白が規則正しく揺れている。

 我先にと海に飛び込んでいく人々を眺めながら、私は準備運動に励んでいた。まずは身体の先端、手首や足首からほぐしていき、徐々に中央へと寄せていく。物資に限りがあるとはいえ、私の目的とする鉛筆はさほど競争率が高くなく、慌てる必要はなかった。


 人々が、もちろん私もなのだが、目指している場所は砂浜から小さくぽつんと見える離れ小島である。その島には私たちの住む本島に送られなかった品々が保管されていて、何か欲しいものがあったとき、多くの若者がそこに泳いでいくのが習慣化、というよりも伝統化していた。かつては船で向かうのが常識であったようだが、乗り込むことができなかった人間が一人二人と増えていき、まとまった人数になると船の運航は危険極まりなくなる。そんな状況が続くうちに泳いで物資を取りに行くというのが当たり前となっていた。


 欲しいもの――それは当然、人によってさまざまだ。下着や靴といった衣料品からラジオであるとか歯ブラシであるとか、多岐に渡る。中には目的もなくとりあえず何かを取っておこうという輩もいて、ちょっとした社会問題にもなっていた。のちに聞いた話によると戦後のポーランドでも似たような事態が起こっていたという。ひとまず物を確保すれば後で交換ができる。それを職業にして日々の糧を得ている者もいるほどだった。


 準備運動を終えた私はゆっくりと海に足を入れる。海水は強い日差しに暖められて、冷たさは感じられなかった。腰ほどの深さのところまで歩き、それから身体を伸ばす。顔が水の中に沈むと、唇の隙間から入ってきた塩水が一粒、舌に当たった。


 目的地である離れ小島までは三キロメートル程度だ。日頃からこんな生活をしていることもあり、泳ぎ切るコツは掴んでいる。重要なのは落ち着くことと励まし合うことだ。広い海の中、自分のことだけに終始しているとどうしても孤独感に苛まれてしまうというものだ。

 私は幾人かと並び、泳ぎ続ける。押し寄せてくる波に負けないように水を掻いていると、身体の内側から湧いてくる充実感に気怠さが混じり始めた。浸透圧で身体の水分が奪われ、代わりに疲労が注ぎ込まれるような感じだ。心に弱さが忍び込み、私はそのたびに横で泳ぐ同士たちに目をやった。彼らの顔にも疲れが見て取れたが、それでも、目が合うたびに声なき声が聞こえてくるような気がした。


「あと少しだ、がんばろう」


 その瞬間、私たちは一つの生物になっていた。目的地を目指し、泳ぎ続ける魚。誰かが遅れそうになれば彼に速度を合わせ、あるいは集団を引っ張るように前へと出る。集団でありながら個体、私たちは確かな統率で海を進み、ついに離れ小島へと辿りついた。

 陸へと上がり、魚から人間へと戻った私たちは、しかし、言葉を交わすこともない。ただ無言で互いを讃え合ってそれぞれの求める物を獲得するために別れた。

 やはり賑わっているのは日用品を扱っている場所である。その脇を通ったところにある筆記用具に関するカウンターは担当職員がいるだけで、他に人はいなかった。


「珍しいですね、ここに来るなんて」


 職員の男は私を見るとそう言って手続きの準備を始めた。他の職員にはない柔らかさに面を食らい、私は頭を掻く。


「日記でも書こうかな、と……あと小説とか書いてもいいかも、なんて」

「へえ」職員は興味深げに唸る。「できたら見せてくださいよ」

「できたら、ね」


 歯切れが悪いなあ、と職員は笑い、奥の壁にある棚から迷いなく箱を手に取った。私にはどれに何が入っているか分からないが、やはり職員となると違うらしい。


「鉛筆でいいですよね? 十二本入りです。それと……」


 名前や顔写真を登録した後、私は書類に拇印を捺してカウンターを後にした。防水鞄に鉛筆の箱を入れ、再び、海へと向かっていく。波のおかげで往路より復路の方が楽ではあるのだが、やはり距離が距離で、周囲と励まし合いながら泳いだ。


 海を渡り、自宅へと辿りつくと私はすぐさま鞄から箱を取り出す。少年じみた興奮に胸を躍らせながら開封すると同時に思考が真っ白になった。

 中に入っているのは確かに鉛筆だ。緑色の六角。光沢のある直線はそれだけで美しい。

 だが、私の喉から漏れたのは感嘆ではなく、落胆だった。


「削られて、ない、のか……」


 すっかり失念していた。以前、読み書きを習ったときは教師から削られたものを渡されていたため、考慮に入れていなかったのだ。よく思い返してみると、確かに鉛筆削りに突っ込んでから渡されていたような気がする。

 なんて、間抜けな……!

 私の家には刃物らしき刃物はない。失意で落ちきった心は底の部分で高くバウンドし、それが声となって口から飛び出す。


「やらかしたーっ!」


 私は暴れながら寝床へと飛び込む。肉体は疲労していて、いますぐ鉛筆削りを取りに行く気力はなかった。もういい、明日にしよう。私はそう決めて目を閉じる。


 さて、翌日、私は改めて鉛筆削りを入手したのだが、家で再び嘆きの叫びを上げた。私の家には相応しい紙がなかったからである。さらに翌日は消しゴムがないことに気がついて絶望した。

 こうして延々と遠泳を繰り返した末に書かれたのが今回の話だ。そして、ここまで書いてようやく気がついたのだが、この話には重大な欠陥が存在する。

 私の周囲には読み書きができる者は少なく、読者がいないのだ。まさかあの離れ小島でも読者を配っていることはあるまい。

 というわけで、これは単なる日記ということにして、ひきだしに閉まっておこう。

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