〈世界〉「ああ、なんて自由な」

結:仙人と真夏のサンタクロース

 夏、サンタクロースは何をしているか。

 仙田がサンタクロースに声をかけたのはそんな疑問からだ。

 ちょっとした縁から知り合いになった吉見という老人がその物珍しい職業に就いていることは前々から聞き及んでいる。改めて話してみるとなかなか気さくで、思いのほか話が弾み、そうこうしているうちに仕事についてくるか、という提案をされることとなった。当然、仙田は一も二もなく了承する。

 それが今、風を切って走るそりの上ではしゃいでいる理由だった。


「ちょっと、仙田くん、もう少し静かにしてくれ」

 吉見老人の不安そうな声を半分聞き流しながら、仙田は答える。「大丈夫大丈夫、落ちないから」

「トナカイが驚くんだがね……」


 不思議なもので宙を滑るこのそりは目に見えないようになっているらしい。眼下を歩いている女性へと手を振ったが、反応はなかった。仙田は全身を覆う興奮に一度奇声を上げ、青い空に響いていくのを聴き入る。それから、席へと腰を落ち着けた。


「でさ、吉見さん、本題だよ本題。サンタクロースって夏、何してんの?」

「ああ、そうだったね。まあ、簡単だよ、プレゼントの当選者の家に行って希望を聞いたり、あとはボランティアだったりだ」

「え、それだけ?」仙田はあからさまに渋い顔を作る。「つまらなくない?」

「案外、これで楽しいものだよ……ほら」


 吉見が差し出した分厚い書類を受け取る。書面には回る予定と思しき家がリストアップされていた。住所や家族構成、子どもの顔写真などが載っていて、思わず顔を顰める。


「いや、こういうの見せていいの?」

「いいよいいよ」


 吉見は鷹揚に頷いている。個人情報の保護はどうしたのだ、と声を荒げたが、のらりくらりと躱され、面倒になって追求を断念した。再び書類へと目を落とすと、一番上の家庭だけに手書きで日付が記されているのに気付いた。

 なんだ、一日一件かよ。サンタクロースも夏は暇なんじゃねえか。

 仙田は鼻で笑い、訪問予定の家庭の情報を読み込んでいった。どうやら四兄弟らしく、子どもの名前が並び、年齢、趣味嗜好と続いている。その後にある家族構成を見たところで疑問が弾けた。


「吉見さん。この九藤さんっての、父親が四人いるんだけど、なに?」

「ああ、面白いだろう?」

「いや、面白いって言うか、これ、ミスじゃないの?」

「それが本当なんだよ……おっと到着だ」


 吉見が手綱を振るうとそりは緩やかに旋回し、高度を落としていった。サンタクロースへの依頼には完全な抽選枠があることは旧知の事実で、この家庭もその枠で当選したのだろう、家の大きさから裕福であることが窺い知れた。

 庭に軟着陸し、尻がわずかに跳ねる。仙田はそこで吉見老人の隙を突き、勢いよくそりから降りた。


 俺はトナカイが牽くそりに乗っている。

 ということはすなわちサンタクロースのようなものだ。


 彼にとっては論理的な帰結は好奇心を後押しする。吉見の制止など耳に入れず、仙田は庭を横切って素早くインターホンを押した。間延びした高音が響き、「サンタクロースでーす」としれっと嘘を吐くと女性の声が聞こえてきた。


「わっ、本当に来たんですね!」


 三十代にしてはいささか子どもっぽい声だ。後方では吉見老人がそりから降りるのに手間取っている。催促するようにインターホンを連打するとショートカットの女がドアを開き、驚きの表情を見せた。


「わあ、サンタさんって思ってたより若いんですね」

「でしょう?」

「……ってあれ、あっちの人のほうがサンタっぽい」

「私がサンタで、そっちは見習いです」吉見の苦笑に仙田は唇を尖らせる。「見習いはないでしょー」

「お二人でサンタさんをしてるんですか?」

「いやいや、俺は付き添いで……というか、あのさ、奥さん、旦那四人いるってどういうこと?」


 遠慮のない質問に隣に並んだ吉見が仙田の脇腹をつつく。だが、九藤夫人はそれほど気にしていないようで、むしろ誇らしげに胸を張っていた。


「珍しいでしょ。大学の時の先輩なんですよ」

「出会いはありきたりなんだ。でも、大変じゃない?」


 夜の方、とつけたそうとしてやめる。吉見に肩を掴まれていたからである。怒らせるつもりはなかったため、仙田は肩を竦めて「いろいろ」とごまかした。

 九藤夫人は「そうですねえ」と頷き、続ける。


「四人でいると子どもみたいで……だからプレゼント、八個くれてもいいですよ?」

「いやいや、奥さんも結構子どもっぽいから九個必要でしょ。『九藤』だからちょうどいいし」

「こら、仙田くん、失礼じゃないか」


 吉見が仙田の肩を押し、除けようとする。しかし、その狼狽の一方、九藤夫人は「それはいいですねえ」と嬉しそうに笑った。「九藤、だけに九個」


 和気藹々とした雰囲気に吉見は面食らっているようではあったが、次第にサンタクロースとしての矜恃がふつふつと燃え上がってきたらしい。追い払うように手を動かして、仙田にそりへと戻るように指示した。何やら本題に入った様子があり、邪魔する気もなかったため、仙田は二頭のトナカイへと歩み寄る。立派な角とつぶらな瞳の彼らは人懐っこくて、撫でると嬉しそうに顎を上げた。


 吉見と九藤夫人のプレゼント相談会はしばらく続いた。その隙間に「当日はやっぱり赤い服を着るんですか」であるとか「昔はサンタさんがいるように振る舞ってたのに今ではいないように振る舞うなんておかしいですよね」であるとか、雑談が挟み込まれるものだから、仙田は十分ほども待ちぼうけを食らうことになってしまった。その上、間取りを把握するためにさらに五分ほど必要だという。仙田は「茶なんて飲んでこないでよ」と釘を刺してそりの上で寝そべることにした。


        〇


「いやあ、お待たせ」


 結局、吉見が戻ってきたのは二十分ほどもした頃である。目を凝らしてみると白い髭に粉が付着している。大福でも食ってきたのだろうか、少しだけ満足そうな顔を浮かべていた。

 仙田は溜息を吐き、吉見の持つ袋を指さす。家に入るときはぺちゃんこだった袋は大きく膨らんでいた。


「で、それなに」

「ああ、ちょっと服をもらったんだ。ボランティアで使おうと思ってね」

「なに、コスプレでもすんの? サンタクロース以外の衣装を着たら怒られない?」

「そんな決まりはないよ」


 言いながら、座席に収まった吉見は手綱を振るう。トナカイが控えめに一鳴きして、強く地面を蹴り、そりの高度がぐんぐん上昇していった。その途中で二階の窓から手を振っている九藤夫人を発見する。見えているはずもないのに、と思いながらも仙田は手を振り返してやった。

 十秒ほどもすると上昇は止まり、斜めに傾いでいたそりが水平になった。眼下にある東京の街並みがミニチュアのようになっている。真下を見ると高層ビルも平屋建てもそれほど違いはない。面積が違うだけだ。普段は目にすることのない風景に仙田は唐突に自由を感じた。


 足の下には色とりどりの屋根がある。大通りに沿っていくそりはあらゆるしがらみから解き放たれているようにも思えた。重力であるとか、常識であるとか、そういったものに拘泥することのない自由。

 強く吹き付ける風が胸を叩く。


 ――今、この世界は変わりつつある。

 もっとも分かりやすいその一例がこのそりだ。仙田の妻や吉見老人が近くて遠い異界から持ち帰ってきた魔法という技術は先進国の首脳の間では既に知識として共有されている。

 それだけではない。水面下では地底を支配した帝国・グラリオスとの本格的な交流も計画されているのだ。爆発的な変革がすぐそばまで迫ってきている。 

 もう数年もすれば一般の人々もこの混沌ともいえる自由を謳歌する日々が来るのかもしれない。


 仙田は益体のないことを考え、それから、はたと我に返った。今日の家庭訪問は九藤家で終わりのはずだ。にもかかわらず、そりは一路西へと向かっている。牽引しているトナカイの後ろ姿にも一切の迷いがなかった。


「なあ、吉見さん……このままボランティアに行くとか言わねえよな」

「その通りだよ?」


 うえっ、と仙田は舌を突き出す。

 ボランティアを馬鹿にするつもりなど毛頭なかったが、だからといって参加するとなると話は別だ。仙田は自分がそういった活動からもっとも離れた人間であると確信していただけに、寝そべったまま、足をばたばたと動かした。驚いたトナカイが振り返り、恨めしそうに睨んできている。彼らの角の力強さに脅されたような気分になり、両手と両足を上げて「もうしません」と叫んだ。

 吉見はおかしそうに喉を鳴らして笑っている。急に恥ずかしくなり、仙田は舌打ちをして、悪態をついた。


「俺、そういうのはやらねえんだってば」

「どうしてだね? きみは仙人だろう?」

「仙人なら善行に励むってのは間違いだ」

「確かに。サンタになる魔王もいるしね」


 あまりに荒唐無稽な言葉に仙田は言葉をなくす。やっとのことで「下ろせよ」と要求したが、意外と吉見老人は頑迷な性格らしく、聞き入れようとはしなかった。それどころか逆に質問されてしまう始末だ。「どうしてそんなにボランティアをしたくないんだ?」と問われて、仙田はそっぽを向く。

 吐き捨てるようにして、答えた。


「俺、こう見えてもいろいろ悪いことしてきてるんだよ。それも結構許されないやつ」


 たとえば、『神通力』を使って妻がした殺人を隠したり、だとか。

 しかし、それは口に出すにはあまりに憚られる事実だった。彼女の記憶からは消しているが、自分の頭の中には深く刻まれたままで、詮索されないようにわざとらしい奇声を上げた。「これで打ち切りだ」と示すために吉見の後ろ、荷台にある白い袋へと手を伸ばす。


 仙田は袋の中にある服を一枚、適当に掴んで引っ張り出した。出てきたのは白い服で、落とさないよう慎重に膝の上で広げた。どうやら山伏が着る鈴懸らしい。ご丁寧に金色の袈裟まで入っていて、おかしくなる。九藤家は修行をする人間でもいるのか、と荷台に放り投げたところで、視線を感じた。

 左に座る吉見老人が横目で凝視してきているのだ。自動車免許の教習なら教官に怒鳴られてもおかしくないほどの熱視線に仙田はなんとなくばつが悪くなり、目を逸らした。


「なんだよ、そこまでしてボランティアに連れて行きたいのかよ」

「私も寂しいしね」

「よく言うよ」伸びをしながら天を仰ぐ。それから名案を閃き、「俺にじゃんけんで負けたら行ってもいいぞ」と言った。


「勝てたら、ではなく?」との質問を、軽快に無視する。勢いに任せて「じゃんけん!」と告げ、「ぽん」で握り拳を突き出すと吉見老人も慌てて手を出した。節くれ立った老人の手のひらを見て、仙田はほくそ笑む。


「はい、俺の負け。ボランティアは、なし、な」

「ちょっと待ってくれ」と吉見老人は食い下がる。「何か裏がありそうなんだが」

「あるよ、あるある。裏なんてありまくりだよ……俺、仙人になったときから一度もじゃんけんに勝ったことがないんだ」

「なんだね、それ」


 仙田は若い頃、村で行われたじゃんけん大会を思い出す。そもそも暇潰しの自作自演ではあったのだが、いつの間にか大事になってしまった風習のことだ。

 偶然拾った宇宙人の兵器。人の意志や物体の動きを支配する悪辣な装置を、仙田はくだらない悪戯に使用した。村人全員がじゃんけんをしたくてたまらなくなるように、である。幸い一瞬で使い方を理解できる機能が組み込まれているらしく、実現するのに苦などなかった。

 しかし、問題は結果である。村人が奇数である以上、あぶれるものが一人出るのは必然で、仙田自身がその一人となってしまったのだ。そして、仙田は身体の中で暴れるじゃんけん欲を処理するために、人がいなくなった広場で天に向かってチョキを突き出した。おそらく負けたのだろう、それ以来、一切じゃんけんに勝てなくなったのである。

 掻い摘まんでその説明をすると、吉見老人は声を荒らげた。


「ずるじゃないか」

「認めるよ」

「なら、代わりの勝負をしてもらえないかな」

「じゃあ、俺を『あっ』と驚かせられたら、ってのは?」

「ふむ」吉見はそりをとめ、沈思黙考する。それから、眉間に皺を寄せ、恐る恐るといった具合に訊ねた。「仙田くんは仙人らしいけど……未来を読めたりするんじゃないのか?」


 じっと、纏わり付くような視線に、仙田は口笛を吹く。大袈裟に手を広げ、「この世界のことならなんでも分かる!」と宣言すると吉見老人は白い眉毛を八の字に歪めた。


「やっぱりずるじゃないか」

「だから、行きたくないんだって」

「……なら、無理矢理にでも連れて行こうかね」

「え」


 険しい表情の吉見老人は強く手綱を振るう。よし来た、と言う具合にトナカイが力強く、宙を蹴る。内臓が後ろに牽かれるほどの速度に仙田は慌てて手綱を引っつかんだ。

 このまま強制的にボランティア活動をさせられるのは堪らない。なにより、ボランティアの意味が泣く。

 そう考えて手綱を奪おうとしたものの、しかし、吉見老人も譲らず、仙人とサンタクロースの乗ったそりは乱高下と蛇行を繰り返した。ビルにぶつかりそうになり、なんとか避け、今度は違う建物に衝突しかける。手綱の争奪戦はしばらく続き、転覆しそうになったところで停戦となった。

 そりの縁にしがみついた仙田は荒い呼吸を吐き出し、呻いた。


「クソジジイめ……」

「――そう、私はクソジジイだ!」

「なんで嬉しそうに言うんだよ……ん?」


 仙田はそこで動きを止める。視界の端に宙を泳ぐ白い物体を見つけたのだ。

 目を凝らすとすぐに紙飛行機であることが分かった。どこから飛んできたのだろうか、風に煽られた紙飛行機はぐるりと機首を回転させ、そりの方へと進行方向を変えた。

 何かに導かれるように真っ直ぐ突き進んでくる紙飛行機を柔らかくキャッチする。隣で息を切らしている吉見老人は仙田の手をちらりと一瞥し、「なんだね、それは」と訊ねた。


「紙飛行機、だな」


 ずいぶん変わった折り方だ、と仙田は手の中の紙飛行機を矯めつ眇めつ眺める。複雑な構造で、自身が子どもの頃に作ったものと比べるとプロフェッショナル、というべきか、性能の違いを感じさせた。何の気もなく開いてみるとその中には「公園に行け」と記されている。

 命令形とは威圧的な紙飛行機だ。近くに所有者がいるのではないか、と考え、周囲を見渡すが、それらしき人間はいない。覗き込んだ吉見も同じ結論に至ったらしく、頻りに首を傾げていた。


「どこから飛んできたんだ?」

「さあ。でも、これも神の思し召しってことで、吉見さん、公園に行って休憩しようぜ。どうせ今日は他の家に行かないんだろ?」

「……そうしようか」


 老体のせいか、吉見はゆっくりと身体を起こし、大きな息を吐く。力なく動かされた手綱に反応し、トナカイたちは近場にある公園へと向かって直進していった。

 ほどなくして公園に辿りつくと、吉見はできるだけ人目につかない隅にそりを着陸させた。いかに他人の目に映らないといえども、降りる瞬間は別だ。木々と茂みに覆われた狭いスペース、振動が収まると同時に仙田は周囲を確認しながらそりから降りた。自販機でも探しに行こう、と一歩踏み出し――


 ――「あっ」と声を上げたのはその瞬間である。


 茂みの中から人が立ち上がったのだ。まさか見られてはいないだろうな、と唾を飲み込み、その正体を認識すると、再び喉から声が漏れた。


「天狗じゃん!」


 峻厳な顔つき、赤い皮膚、そして何より、天高く突き抜けるような鼻。服装はずいぶんスタイリッシュではあるが、間違いない。仙田は驚きのあまりその天狗状の生物に近づき、手を握った。


「すげえ!」


 まさか実在するとは思っていなかった。ときにあり得ないことの象徴として天狗を引き合いに出していたほどだ、未知の感激が溢れ、握った手を揺り動かす。当の天狗はといえば、あまり人里に慣れていないのか、面を食らったように硬直していた。


「やっぱ神通力とかあんの?」と訊ねるが、明確な返答はなかった。だが、興奮は収まらない。「ちょっと、吉見さん、天狗、天狗がいる!」


 振り返ると吉見老人も困惑しているようで、降りたら見えなくなるはずのそりが丸見えとなっていた。膨らんだ袋が目に入り、仙田は捲し立てる。


「吉見さん、さっきの服持ってきてよ。天狗はやっぱり山伏の恰好しなきゃ!」

「あ、ああ、分かった」


 吉見はそりの後部に転がっている山伏衣装を手に取り、やおら近寄ってくる。じりじりとした速度に焦れ、仙田は「早く早く」と急かした。そして、衣装を受け取り、天狗へと手渡す。

 だが、天狗は未だ狼狽しているのか、一向に手を差し出してこない。面倒になった仙田はポケットの中にある兵器を作動させ、天狗の意志を操ることにした。といっても受け取るように意識を改変させる程度だ。人間でなくても効果は変わらないらしい、結果、天狗は素直に衣装を受け取った。


「やっぱり天狗はそれ着てなきゃだめだって! ……でさ、神通力、ある?」

「あ、いや……」


 歯切れの悪い返事だ。仙田は唸る。

 やはり、天狗たるもの神通力くらいは持っていて欲しい。自分勝手な希望に悩み、そこで画期的な解決方法を閃いた。ポケットの中から宇宙人の兵器を取り出し、渡した衣装の中へと押し込む。使い方を一瞬で理解できる機能はストップさせてあったが、念じてボタンを押すだけの親切設計だ。わざわざ説明する必要性も感じず、「これ、神通力だから」とだけ伝えた。


「いやあ、会えてよかったよ!」


 呆けたままの天狗に別れの言葉を告げ、吉見へと向き直った。吉見老人は何か難しいことを考えているようであったが、仙田の心は上擦っている。跳ねるようにしてそりへと戻り、手を打ち鳴らした。


「吉見さん、俺、『あっ』って言っちまったよ!」


 そこで吉見老人も「あっ」と口に出し、滑らかに微笑みを浮かべた。彼は天狗に会釈し、そりの中へと乗り込む。同時に、トナカイの手綱を握っていた仙田がそりを発進させた。下を覗くと深い緑の中に天狗の赤い顔が映えている。さまざまな国の上層部と関わり合いを持っていただけに、自分は何でも知っていると考えていた仙田は、一本取られたような気がして高い声で笑った。

 上昇しきったところで手綱を返す。年季の入った手つきで縄を握った吉見老人はわずかな逡巡を見せた後、ぽつりと訊ねた。


「ずいぶん簡単に心変わりをするものだね?」

「なに言ってんだよ、勝負は勝負だろ。そういうのはさ、正々堂々、負けを認めなきゃいけないんだよ」

「さっきまでずるしてたのに?」

「それは」と仙田は笑みを浮かべる。「忘れよう」

「まったく、調子がいい」

「いいじゃん。でさ、ボランティアってどこに行くの?」


 真っ先に訊ねるべき質問であったはずだ。しかし、吉見老人は途端にばつの悪そうな表情になった。不安になって問い詰めると、彼は静かに小さな島国の名前を告げた。

 じりじりとテーブルの上を滑っていた液体が、縁にさしかかり、するりと落ちる。ちょうどそのような具合で仙田は吉見老人と知り合うきっかけになった事件を思い出した。多国籍軍を出動させるために一枚噛んだ案件だ。

 世界に衝撃を与えた、王制が外部から打破されるという出来事。

 しかし、そんなことよりも仙田にとっては大きな問題があった。


「それ、東南アジアだったよな……聞いてないよ!」

「言ってないからなあ」吉見老人は開き直ったのか、平然とした口調で言った。「一週間は滞在するからね」

「うわあ……騙されたな。そこさ、まだ不安定で娯楽とか何にもないんでしょ?」

「本気でやれば些細なことだって娯楽になるよ」

「出たよ、年寄りの年寄りめいた言葉。そういうのお腹いっぱいなんだよね」

「きみは仙人なんだろう?」

「仙人はエンターテイナーじゃないんだけど」


 仙田は不平をぶちまけ、そりの座席を後ろへ倒す。圧倒的な速度で宙を進んでいたそりの前方には既に海が見えていて、隣の老人の性格の悪さに辟易した。わざわざ南に進んで海に出るとはなんと策士な。これではもう降りることもできない、と諦め、仙田は目を瞑った。

 そこに吉見老人の言葉が降ってくる。


「仙田くん、一つだけ言っておくけど」

「なんだよ」

「悪事に手を染めたら善行をしてはいけない、なんて決まりはないんだよ」

「……それくらい分かってるよ、仙人だぞ」


 片目を開けて吉見老人を睨んだが、どうにも恐れている様子はない。それどころか穏やかな笑みを浮かべていて、つられて仙田の頬も緩んだ。

 ……たまにはいいか。

 後で妻に連絡しなければ、と考えつつ、心の中で計画を始める。脳裏にあったのはニュースで流れていた貧しい村の姿だ。村人たちの淀んだ表情を想像して唇を舐める。


 俺は仙人だ。不可能なんてない。一週間もあれば暗い村をじゃんけんに熱狂する村に変えることだってできるはずだ。


 起き上がり、前方に視線を向ける。海が太陽の光を浴びて煌めき、二頭のトナカイが躍動している。その一蹴り一蹴りで地球が動いているような錯覚に陥り、仙田は「行け!」と拳を突き上げた。




 ……すべての物語は分離し、同時に結合している。

 これまで語られた話は、圧政に喘ぐ小国のノンフィクション作家が描いた虚構かもしれないし、あるいは投擲症なる病に罹患した少女が夕空に垣間見た真実かもしれない。だが、そのどちらであるかなど、仙人を自称する青年が本当に神通力を有しているのか、という疑問と同じくらい些細なものだ。

 重要なのは自由であること――。

 この世界は今日も自由に、力強く、闊歩している。



     『じゃんけんに熱狂する村』 〈了〉

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