還暦、大いに翻弄される
夏。
扇風機のリズム送風、軒先に吊された風鈴の音色、山から聞こえる蝉の声。庭の鉢に咲いている三輪の向日葵、遠くに広がる青々とした緑、突き抜けるような青空と稜線にへばりつく入道雲。
――そして、私の天敵である、健司。
十年も前に結婚した一人娘は夏になるたびに孫を連れて帰ってきたが、まったくいい迷惑だ。そのせいでこの時期は家の中がうるさくなって堪らない。結婚よりも前に娘を孕ませた男が来ていないことだけは褒めてもよかったが。
三十年連れ添ってきた妻に先立たれ、「ああ、せいせいした、定年を迎えたし、これからは悠々自適の年金生活だ」と考えていた私にとって健司はまったく面倒な存在だった。蝉を捕まえてきては家に放ち、寝ている私の顔にカブトムシを乗せる。勝手に庭を掘り返し、土をつけたまま走り回る。あいつのせいでどれだけ苦労したか。
今、娘と孫は知人の家へと出かけている。だが、油断してはならぬ。知人の家、と言ってもほんの数十メートル先にあるだけだ。あの忌々しいガキはきっと抜け出して私を襲ってくるだろう。それは今までの経験からも明らかだった。
「おい、クソジジイ!」
ほうら、来た。私は怒りを顔面に貼りつけ、忍び足で廊下を歩いて行く。
そこで、おや、と違和感に気付いた。
いつもならあいつは勝手に家の中に飛び込み、新聞を読んでいる私の背中にのし掛かってくるのだ。若い頃は鍛えていたものだが、この歳になると負担で堪らないし、何より暑苦しい。
その健司が、わざわざ声をかけてきた。なんとも奇妙なことだ。私は警戒の度合いを高め、壁に隠れたまま、顔を覗かせる。板張りの床には土の一つも落ちておらず、三和土にも靴はなかった。それどころか、磨りガラスの向こうにも影がない。姿見に目をやって死角も確認したが、隠れているわけでもないようだ。
はて、そこまで耄碌したつもりはなかったが。
私は疑問に思いながら玄関の扉を横に滑らせる。
「おい、クソジジイ!」
そこで私が見たのはちょこんと置かれたラジカセだった。最近になって私が買った物だ。スピーカーからまるで私の行動を予測し尽くしていたような笑い声が流れ、すぐあとに、ほとんど同じ声が、背後から響いた。
振り返ると同時に顔に衝撃と冷たさがぶつかる。狼狽し、顔を拭ってようやく水風船をぶつけられたのだと悟った。
「ちくしょう、この糞がき!」
健司はけたけたと笑い、家の奥へと逃げていく。私は水を払い、悪態を吐いた。去年、私がぶつけてやった水風船を完全に自分のものにしている。うちに来たって宿題の一つもしないくせにこういうところばかり賢くなっていやがるのだ。
これだから都会で育った子どもは嫌いだ。都会のごみごみとした場所で暮らしていたからこうして性根がねじ曲がってしまっているのだ。
「おーい、ジジイ、遊ぼうぜえ」
「お前は、まず、言葉遣いを直せ!」
私は言いながら竹箒を手に健司のもとへと向かっていく。どうせ顔を出した瞬間に水風船をぶつけて来るつもりなのだろう。私は慎重に近づき、障子の向こうへと竹箒を突き出した。
しかし、一向に水風船は飛んでこない。
ここではないのか?
ゆっくりと茶の間の様子を確認する。その瞬間、ぱちん、と顔面に何かが当たった。健司はちゃぶ台の下に寝そべり、狙撃手のような恰好で割り箸鉄砲を構えている。放たれた輪ゴムが、再び頬の辺りを叩いた。
付き合ってられん――いや、元々付き合うつもりなどなかったのだ。
私は溜息を吐き、座布団に腰を下ろした。同時に、ぶうっと、放屁音に似た濁った音が破裂した。羞恥がこみ上げ、座布団の下に手を入れるとなにやらゴム製の道具が置かれている。
「ジジイ、おならした!」と健司がはしゃぐ。無視して何度も読んだ今朝の朝刊に目をやると、悪ガキはつまらなさそうに這い出てきて、私の隣に腰を下ろした。
「なあ、ジジイ、お腹減ったー。お菓子とかないの?」
「仏壇にある」
「ええー、もうあんこは飽きたよ」
「文句を言うなら食うな」
健司は唇を尖らせながら、仏壇へと這っていく。私の妻が好きだったこしあんのもなかしかないと気付くと顔を顰め、文句を垂れた。
「粒あん、ないの?」
「ない」
「じゃあ、まあ、いっか」
びりびりと包装が破られ、私は仏壇を一瞥する。さんざん言い聞かせた甲斐があったのか、ごみを放り投げてはおらず、小さく溜息を吐いた。健司は呆けた顔で仏壇を眺めてもなかを頬張っている。そして、ぼろぼろと破片を溢しながら、言った。
「ねえ、ジジイ、寂しくないの?」
「なに?」
「だって、ジジイ、今一人なんでしょ。うちに来ればいいじゃん。友達もいないんだし」
「友人くらいいる」
「じゃあなんでいつもここにいるの」
「普段は外に出てるわ」嘘ではない。小さいながら畑を持っているため、朝は農作業をしながらラジオを聞くのが私の日課だった。「誰のためにここにいてやってると思っている」
そんなことも分からないから、テストでも六十点を越えたことがないのだ。
遠くで鳴く蝉の声が開け放たれた縁側から滑り込んでくる。失敗した、と気付くまでにずいぶん時間がかかった。健司はにやにやと私を見つめ、声を弾ませる。
「ジジイはぼくのこと好きなんだねえ」
そのませた物言いは私の羞恥心を強く燃え上がらせた。新聞紙で顔を隠すと健司はうれしそうに近寄ってくる。何がそんなに面白いのだ。私は新聞を丸め、一発、頭をはたいてやった。それでもなお頬を綻ばせるものだからどうしようもない。
「健司くん」と不満声が聞こえたのはそのときだ。縁側へ目を向けると親戚の家に行ったはずの孫が顔を顰めていた。「かくれんぼの途中でおじいちゃんの家に行かないでよ」
「あ、ばれたか」悪びれもせず、健司は裸足のままぴょんと庭に飛び出し、孫の肩を押していく。「じゃあ、ジジイ、また来るから」
「二度と来るな」
せっかく同じ年代である私の孫が遊びに来ているのだ、遊ぶならそっちの方がいいだろう。私は憤慨しながらラジオを取りに玄関へと向かう。どうせ夜になれば孫と健司が寄ってくるのだ、体力を消費しないように努めなければいけない。
そう思っていたものだから、玄関で孫と健司の大声を耳にした瞬間、腰を抜かしそうになった。「ジジイ、なににやついてんの」と健司がほくそ笑み、孫は「ほら、ラジカセ取りに来るって言ったでしょ」と得意げな顔をする。
まったく、なんてガキどもだ!
私は姿見に移っている顔から目を背け、憤慨する――ふりをする。これだから都会暮らしをしている、あるいは経験した子どもはいかん。余計な知恵ばかりつけてしまう。
ちゃんと真面目に生きるように言い聞かせねば、と誓い、私はひとまず、水風船を構える悪ガキ二人を追い払った。
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