第3章(2)

 分部義邦わけべよしくには時間退行観測庁の長官である。年齢は四十代後半。長官という肩書きのせいもあるかもしれないが、見た目からして非常に冷徹そうな印象を与える男だ。老いをまったく感じさせないような綺麗な顔がさらにその邪険なイメージを助長させているのかもしれない。もともとは研究者として時間退行の謎を研究していたらしいが、現在の彼の仕事は組織のまとめ役及び外部との交渉だ。


 時間退行観測庁の存在を知っているのは組織のメンバーを除くとごくわずかしかいないと言われている。そのわずかの中に誰がいるのかは下っ端の人間にはわからないが、活動をスムーズに行うべく、国の各省庁のトップクラスの人たちにはある程度情報を公開しているという噂である。


 分部は日々そういった人間と会っては何か重要な取引をしているようである。この施設にかかっている莫大な予算はどこから出ているのかとか、秘密裏に活動しているとはいえどうして世間に情報が漏えいすることなくやってこれているのかなどを考えてみると、やはり大きな権限を持つ者の力が働いているのだろう。


 ただ、分部という人間には組織の一員である俺ですらほとんど会ったことがない。一応、長官の部屋はこの建物の最上階にあるのだが、いつそこにいて、いつそこにいないのかすら把握することができない。


 だから、彼が現在どんなことを企んでいるのかなんて知る由もない。


 今、その分部の姿が本部の大型モニターに映っている。映し出されている場所はどこか室内のようだ。入ったことがないので断定はできないが、おそらくここが長官室なのだろう。豪華な赤い椅子に座ってデスクに肘を乗せ、顔の前で手を組んでいる。デスクには書類のようなものがたくさん置かれており、中身は見えないがそのほとんどが絶対に外部に漏らしてはならない機密書類に違いない。


「我々の組織は、というより全世界、というべきだろうが」


 分部は他人を見透かすような鋭い眼光でこちらの様子を画面越しに窺っている。その声には氷のような冷たさと鋭さがあった。


「現在、非常に危険な状態にあると言っていいだろう。もはや一刻も予断を許さない状況なのは、最近多発している高レベルな能力保持者の存在を見ればわかるはずだ。何とか時間退行を阻止しながらその発生のメカニズムを解明しなければならない」


 聞いている全員が深刻な顔で頷く。今の状況を危ぶむ気持ちは皆同じだ。


 高レベルな能力保持者。どこからがそれに入るのかは具体的に決まっているわけではないが、ここでの意味は緊急性のあるレベル3以上とみていいだろう。


 中里の事件以降、その高いレベルの能力保持者が多数出現していた。俺が組織に入った四月当初はここまで頻繁に現れたりはせず、回ってくる仕事もレベル2以下の能力者相手が中心だった。


 最近になって明らかに増えている。それは特別な技術や知恵を持っていない俺でさえも実感することができていた。


「もし解明できなかった場合、我々人類に未来はない。無論、この点に関しては別の見解を示す者がいることはわかっている。しかし、危険が迫っていることに変わりはないはずだ。我々は傍観者でいるわけにはいかないのだよ。行動を起こさない者は我々の組織には必要ない」


 熱弁という感じではなく、ひたすら単調に自分の論理を展開している。その異様なまでの平然さが、聞いている俺たちにある種の恐怖を与えていた。


 分部の言う「別の見解」とは、「誰かが時間退行を起こしてもこの世界に影響はない」という意見である。


 詳しいことはわからないが、時間退行について議論する上で「パラレルワールド」という考え方があるようだ。誰かが過去に戻った瞬間、今自分たちがいるこの世界とは別にその誰かが過去に戻った世界というのが作られ、それぞれが一つの世界として回っていくというものである。


 つまり、誰かが時間退行を起こして過去を改変したとしても、俺たちのいるこの世界は「改変されなかった世界」としてそのまま残るという発想だ。


 研究者の間でもここは意見が分かれるところなようで、もしパラレルワールドという考えを容認するなら、俺たちのやっている「誰かが過去に戻ろうとするのを止めること」は無駄なことになってしまう。


『戻りたい奴は勝手に過去にでもなんでも戻ればいいさ。どうせこの世界には何の影響もないのだから』


 そのように主張する研究者がいることは確かだった。


「私から言いたいことは以上だ。今日のことについてはすべて勢野に任せてある。くれぐれもヘマはしないように」


 分部の表情に変化はなく、口調も淡々としてるのだが、「もしヘマをしたらどうなるかわかってるよね」という見えないプレッシャーが伝わってきて俺たちを身震いさせる。


 必要ない人材だと思ったらすぐにでも首を切る。そう思わせるような雰囲気が、時間退行観測庁長官――分部義邦にはあった。


 こうして彼の朝の演説は、この場にいる誰もが感じていながら一切言葉にされることのない恐怖感を残して終了した。


 映像が切れ、広い室内が一気にシーンと静まり返る。


 ――コツ、コツ、コツ。


 そんな中、先ほどまで分部が映っていた大型モニターの前に勢野が移動を始めた。話し出す者もいないので、やけにその靴音だけが大きく響く。


 皆の前に立った彼女はいつもの厳しい顔つきでこちらを見た。


「今、長官が言った通り、今日のメンテナンスに関してはすべて私に一任されている。初めての者もいるだろうからよく聞いて欲しい」


 そう言うと、勢野は俺たちに向かって指を三本出した。


「やるべきことは大きく分けて三つある。まずはデータの整理。我々は日々の観測によって集めた膨大な量のデータをすべてスーパーコンピュータの中に保存してある。当然その中には、使えるものも使えないものも一緒に入っている。それらの中から必要なものだけを残し、いらないものは消して容量に空きを作っておかなければならない」


 俺は部屋の前方に並べて置かれている大型のコンピュータのほうを一瞥した。ただの大きな塊のように見えるが、あれらが普段の自分たちの魔法のような仕事を可能にしているのだと思うと不思議な感じがする。あの箱の中にあらゆる個人情報や観測のための技術が詰まっているというのはすごいことであると同時に、何だかとても恐ろしいことでもある気がするのだ。


「二つ目はデータの整合性のチェック。我々はほとんどのデータを機械的に入手して

いる。だからシステムに不具合があった場合、保存してあるデータのほうに何かおかしな点がある可能性が高い。しかし、そのチェックは自動で行うことはできない。人間の目でしっかりと確認する必要がある。もし、何か少しでも気になる点を見つけたら必ず報告して欲しい」


 話しながら勢野は全体を大きく見回していた。少しの間をおいて説明は続けられる。


「三つ目。三つ目はコンピュータ本体の掃除や部品の交換だ。観測システムを支えているのはソフトだけではない。いくらソフトが正常に機能していても、ハードが壊れてしまっては話にならないのだ。だから本体をいったん解体して、内部にたまったホコリなど、故障の原因になりそうなものを丁寧に取り除き、古くなった部品については新しいものに変える必要がある」


 言われてみれば、メンテナンスにはソフトの面とハードの面がある。スーパーコンピュータは精巧に作られているのだろうからそれらを綺麗にするとなると大変だろうし、部品を交換するとなったら電源を切って中のパーツも取り外すことになるのかもしれない。


 でも、そうだとするなら……。


 俺がある考えに至ったのと勢野がそれを言うのはほぼ同時だった。


「他の作業の間は観測システムを作動させておくことが可能だが、この三つ目の作業中はどうしてもシステムの電源を切らなければならない。つまり、その間は能力者の出現を検知することはできないということになる」


 今日は大変なリスクを負う日。


 今朝、俺が恐れていたことは、どうやら現実問題として起こるらしい。


「だから、特に三つ目の作業は時間との勝負だ。できる限り早く、かつ丁寧に進めていって欲しい。大変だとは思うがよろしく頼む」


 勢野が声を絞り出しながら深々と頭を下げた。


 一見すると、彼女は主任という立場で好き勝手に命令しているように見える。だが、実際はすべての作業に気を配らなければならない大変な立ち位置なのである。それでいて何か問題が起これば責任を問われるのは彼女だ。


 この組織にいる以上、ギリギリの状態で仕事をしているのはどの地位の人間だろうが皆同じだ。それがわかっているから誰も文句は言えないのである。


「この三つの作業はすべて今日中に終わらせる。もしかしたら徹夜で仕事をしてもらうことになるかもしれない。……本当にすまない」


 何度も頭を下げるその姿からは申し訳ないという気持ちがひしひしと伝わってくる。


「我々は大丈夫です! 主任、あなたについて行きます!」


 それを見ていた一人の男性技官が大きな声を上げた。すると立て続けに、私も、僕も、と賛同者が増えていった。彼女の温情あふれる言葉はここにいる全員に届いているのだ。


「ありがとう。みんなの気持ちに感謝する」


 感謝とお詫びの気持ちが入り混じったような表情で、勢野はもう何度目かわからないお辞儀をした。


「気にしないでください。それよりも指示をお願いします」

「……そうだな」


 勢野は前を向き、迷いを捨てるように大きく息を吸った。


「よしっ! では、始めるぞ!」


 いつも以上に気合の入った彼女の声は部屋全体に大きく響き渡る。

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