幕間(2)
朝の通勤ラッシュ。いつも通り、俺は満員電車の中、吊革に掴まり立っていた。
今日も大きな事件が起こらないといいな。揺られながらそんなことを考える。
それは自分の負担が増えるからというのもあるし、組織の他の人間のためでもあるし、ターゲットとなる人物のことを思ってでもあるし、世界の危機とかそういう大きな見方をした上でのことでもある。
まあいずれにせよ、何事もなければいい。
電車を降りて、見慣れてきた都会の街の中を歩き、本部に向かう。
到着してみると、やはりこれまたいつものように組織の技官たちが目の前のパソコンと睨めっこしていた。ここ最近大きな事件が起こっていないとはいえ、やらなければならない仕事はたくさんあるのだろう。
「おはよう、間庭君」
そして、朝が早い空岡は当然のように先に来ていて、今日も俺を見つけると控えめな挨拶をしてきた。
「おう。世良たちはまだか?」
短く返事をすると、彼女は困ったように苦笑いを浮かべる。
「……いるよ」
その刹那、後ろから誰かにバシッと背中を叩かれる。
「けんじー、もっと元気出していこうぜー。そんな挨拶じゃテンションも上がらないぞ」
振り向くまでもなく世良である。俺自身、元気がないつもりもないのだが、彼と比べると自分のテンションは低いのだと納得してしまう。
それにしても彼は力加減というものを知らないのだろうか。叩かれた直後は驚きがあったせいかあまり痛みも感じなかったが、後からじわっとヒリヒリしてくる。痛い。
「強く叩き過ぎだ」
「おっ、悪いな。つい癖で」
「どういう癖だよ」
「おー、朝から盛り上がってるね。私も混ぜてよ」
どこに隠れていたのか、口角の上がった愛らしい表情の節原も話に加わってくる。
「別に盛り上がってるわけじゃない」
「じゃあ、盛り下がってるの?」
節原は首を傾げて訊いてきた。別にそういうわけでもないので困る。
はっきりとしない俺に業を煮やしたのか、節原はいきなり空岡のほうに水を向けた。
「亜紀ちゃん! どうなの?」
突然話を振られ、「えっ?」という表情を浮かべた空岡は、あたふたとしながらも何とか言葉を捻り出した。
「盛り上がってたんじゃないかな?」
彼女のその一言によって、この場は盛り上がっていたこととなった。
実にくだらない会話である。でも、ここしばらくは事件も重なって忙しく、こんな話はできていなかったように思う。こういう実のない会話ができるというのは平和な証拠だし、案外悪いことでもないのかもしれない。
俺は楽しそうに笑うみんなの顔を見て、ささやかな平穏を感じていた。
――このときまでは。
「今日も雨谷は休みか?」
突然、早足で指令室内に入ってきた勢野は、いの一番に技官たちに話しかけていた。「そうみたいですね」という返答がちらほらと集まる。彼女は深刻な表情でそれを聞いていた。
「そういえば寧々ちゃん、昨日もいなかったよね」
「どうやら風邪らしいぜ。働き詰めだったもんな。そりゃあ風邪もひくだろ」
節原と世良が小さい声でやり取りをする。
俺もその話は耳に入れていた。雨谷本人から本部に体調を崩したとの連絡があり、彼女は一旦ここを離れて実家のほうへ帰ったらしい。大した風邪じゃないと思っていたので、今日辺りには戻ってくるものだと考えていたが。
雨谷の席には当然誰も座っておらず、その場所だけやけにがらんとしていた。机の上にはやりかけの仕事に使っていると思われる資料が置かれたままになっている。根を詰める性格の彼女のことだから、きっと体調が悪くなる直前まで仕事をしていたのだろう。それで風邪をこじらせてしまったに違いない。
「今さっき電話してみたんだが彼女と連絡が取れないんだ。何でもなければいいんだが……」
勢野は心配そうに雨谷の席を見つめていた。
「主任、例のデータの偏りの件ですが」
「おう、そうだ。どうだった?」
呼びかけられ振り向く勢野に、彼女の側近である男性技官の差波が強い口調で語る。
「やはり異常だと考えられます。なので、それを手がかりにシステムのプログラムのほうを調べてみました。そうしたら、プログラムに改ざんされた跡が見つかりました。何者かが手を加えたようです」
「何だと?」
勢野は眉間にしわを寄せ、大声を出した。
「一応、私が改ざんされたと思われる箇所を修正してみました。今からシステムを修正版に切り替えるので少し待っていてください」
「……わかった。すぐに頼む」
勢野はこめかみの辺りを押さえ、そう返事をした。
「主任、俺たちにも説明してくださいよ。何なんですか? データの偏りとか改ざんとか」
俄かに騒がしくなった室内で、世良が耐え切れずに声を上げていた。
勢野はこちらをちらっと見て頷き、全体に説明を始めた。
「みんな聞いて欲しい。実はこの前のメンテナンスのときに集めたデータを調べていたら、その中に奇妙な点が見つかった。それは、ここ最近の時空の歪みが『ある場所を中心に検出されていない』というものだった」
ざわざわ、と囁き合う声が至る所から聞こえてくる。俺たち四人の間でも「どういうことだ?」と疑問が浮かび上がっていた。
勢野はそれに構うことなく説明を続ける。
「それで何かプログラムのほうに問題があるのではないかと調べてもらったら、今改ざんがあったという報告を受けた」
「『ある場所』っていうのはどこなんですか?」
誰かが質問をする。勢野は一瞬ギュッと口を結んだが、やがて覚悟を決めたように言った。
「ここだ」
彼女は指を下に向け、自分が立っている地点を示す。
その意味がわかると、皆唖然とした。
つまり、ある場所というのはこの本部だったということだ。
「修正プログラムへの切り替えの準備ができました。いつでも実行できます。主任、指示を」
「……よし、実行しろ」
勢野の指示に従って、差波が最後のキーを押す。
前方の大型モニターに映っていた映像は一瞬消え、数秒の後にまた復活した。
静かな時間だった。息苦しい沈黙。互いに目を合わせることもなく、全員が同じモニターをじっと見つめている。漂っている不吉な空気を感じながらも、どうか何も起こらないで欲しいと皆が願っていた。
――ビィー、ビィー。ビィー、ビィー。
しかし、それは鳴ってしまった。赤いランプとともにレベル3以上が現れたことを告げる激しい警報音が部屋中に轟く。
「すぐに調べろ!」
「はいっ!」
必死にキーボードを叩く音。早くなる心臓音。焦りが部屋全体に浸透していた。
「主任っ、大変です!」
悲鳴のような女性技官の高い声が響く。
「どうしたっ?」
「こ、この時空の歪みの大きさから想定して、時間退行能力はレベル5に到達しています!」
「レベル5だと! どうしてそんなになるまで……。今まで隠されていたってことか?」
「お、おそらくは」
勢野の問いにその女性は震えながら頷いた。
「場所と人物の特定は?」
「遠いですが、場所はわかります。でも、低レベル段階のデータがまったくない状態での人物の特定はできません」
「そうか」
「主任、人物ならわかります」
そんな中、冷静に口を開いたのは、修正プログラムを作った差波だった。
「薄々感づいているとは思いますが、このプログラムを改ざんできる人間は数えるほどしかいません。そして、今時空の歪みが観測されたのが本部ではないことを踏まえると、考えられる人物は一人しかいません」
いつもは本部にいる人間で、難解なプログラムを改ざんできて、なおかつ今はここにいない。
そんな条件に当てはまるのは……。
想像したくもないが、俺も一人しか思いつかなかった。
「レベル5の正体は雨谷寧々です」
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