第5章 レベル5

第5章(1)

 未だかつてないほどの緊急事態に、時間退行観測庁の東京支部のメンバーは全員集められ、緊急対策会議が開かれた。今日も外部との取引で出張するはずだった組織の長官――分部も予定を取りやめ、俺たちがいる指令室へと入ってきた。


 長官が直接ここにやってくる。それだけ事態は深刻であるということを示していた。


 思考が一切読めない能面のような顔つきで現れた分部は、集まった俺たちの前に毅然と立つ。


「もうすでに伝わっているとは思うが、我々の組織の一員である雨谷寧々が今回のターゲットだ。そのことがいかに厄介であるか、君たちならば理解できるだろう。彼女は我々がどのような方法でターゲットに近づき、どういう手段で事件を解決に向かわせるか、全部知っているのだ。彼女なら我々をかく乱させようと思ったらいくらでもできるだろう。敵に回すとなると、非常に危険な相手だ」


 分部の主張は俺にも理解できるくらい明快だった。「雨谷は敵ではない」と叫びたい気持ちもあったが、彼の主張の正しさを前にその声は潰されてしまう。


 雨谷と対峙しなければならない。


 それはあまりに辛い現実だ。しかし、避けることはできない。


「そして、何より一番厄介なのは……」


 シーンとする部屋の中で、分部の甘えのない声が響いた。


「彼女が『時間退行が可能であることを知っている』ということだ」


 沈黙が続く。反論する者はいなかった。


 時間退行が可能であることを知っている。


 すなわちそれは、「いつものような嘘」が通用しないということを意味していた。



 過去に戻ることはできない。



 組織に入って仕事をするようになって、俺はこの言葉の万能性を幾度となく感じてきた。時間退行能力を発動しようとする人も、心のどこかでは「過去になんて戻れるはずがない」という疑念を抱えている。だからこそ、俺たちが一言その台詞を言えば、そうだよなと納得してくれる。それは言わば必殺の決め台詞のようなものだった。


 だが、当然雨谷にはその嘘は通用しない。過去に戻れることを知っている彼女を止めるには、能力の使用をやめるように説得するしかないのだ。


「もし、彼女が我々の説得に応じなかった場合は……」


 分部が冷たい表情で俺たちを睨みつける。俺は体から血の気が引いていくのを感じた。


 いったい、彼は何を言おうとしているのか。もし雨谷のことを説き伏せられないと判断したら、彼女をどうするというのだ。考えれば考えるほど身震いは止まらなかった。


 恐怖は部屋全体に渦巻いていた。あまりの怖さに泣き出しそうになっている人もいる。想像している言葉はおそらく皆同じだった。


 もし、彼女が我々の説得に応じなかった場合は殺せ。


 いかにも分部が言いそうな台詞だ。偏見かもしれないが、彼はそういうことを平気で言う人間だという印象があった。彼の意見はいつも論理的なのである。恐ろしいほどに。


 一人の人間の勝手な行動によって世界が危険にさらされる恐れがあるなら、その人間を消すべきだ。


 彼ならそう考え、本当にそれを実行しかねない。


 しかし、実際に分部がそれ以上言葉を述べることはなかった。


 場の雰囲気を見て言うべきではないと自重したのか、それとも何か別の理由があるのか。いずれにせよ、分部は話を今後の作戦のほうに切り替えたのだった。


「とにかく、他のすべての案件から一旦手を引き、この件だけに全力を尽くせ。我々は早急に動き出さなければならない。これから、直接彼女の後を追う者、親族等に話を聞きに行く者、本部に残って情報の収集や伝達を行なう者、その他いろいろと役割を分担する。各自勝手な真似はするな。与えられた命令を確実にこなせ。以上だ。今から数分のうちに指令を下す。それまで待機しておけ」


 分部はそう言い切ると、組織の主任である勢野やベテランの技官たちを呼びつけ、速やかに配置決めを始めていた。


「寧々さん、どうなるんだろう……」


 空岡が顔を伏せ、戸惑いと悲しみの声で呟く。


 俺は何か前向きな言葉を返そうとしたが、声が出なかった。


 それは雨谷のことが信じられないからではない。逆に信じているからこそ、安直な言葉で片づけてしまうのが躊躇われた。


 いつもは明るい世良や節原も、今は俯いて押し黙ったままだった。重苦しい沈黙が俺たち四人を包み込む。


 その状態は勢野が俺たちのもとにやってくるまで続いた。


「お前たち、話がある。重要な話だ。よく聞け」


 勢野は神妙な顔をして俺たちの前に立った。何だかとても言いづらそうにも見えた。


 どんな役割でもこなそう、と俺は決意を固める。相手が誰であろうと、俺たちは時間退行観測庁の一員として与えられた任務を遂行しなければならない。身内だからといって見過ごすわけにはいかないのだ。


 命令を聞き逃さないよう、俺は息を止めて次の言葉を待った。


 しかし、勢野の命令は俺の予想を大きく裏切るものだった。


「お前たちは家へ帰れ」


 ……聞き間違いだろうか。まったく頭になかった言葉に思わず唖然としてしまった。


 だが、彼女はもう一度同じ言葉を繰り返した。


「お前たちは家へ帰れ。これは命令だ」

「どうしてだよ?」


 世良が食らいつくように言った。どうしても納得できないという想いが、表情からも声からも痛いほど伝わってきた。


 それでも、勢野の命令は変わらなかった。彼女は粛々と説明を加える。


「今回の件は非常に特殊だ。雨谷はこちらの動きを読んでくるだろうから、いつものやり方では対処できない。お前たちは普段からよく働いてくれている。それは認めるが、今回に限っては熟練者だけで対応に当たる。私たちを信じてここは手を引いてくれ」


 誰も返事をしなかった。声も出ないといった感じだ。


 勢野はそんな俺たちの顔を順番に見つめ、懇願するように説得を行っていく。


「お前らの気持ちは十分にわかる。仲間を助けたい。その想いはとても大切なものだ。だが、その勇気が仲間を危険にさらすこともあるんだ。もし誰かが自分勝手な行動をとれば最悪の事態を招くことだってある。それをわかって欲しい」


 誠意の眼差しでこちらを見つめる勢野。だが、俺は素直に目を合わせることができなかった。


「私たちに任せろ。必ず雨谷を救い出す」


 重みのある声だった。勢野が俺たちに向けて精一杯の宣誓をしているのがわかる。


 だけど、その声はすうっと俺の耳を通り抜けていく。目の前にいるのに、なぜだか遠くのほうから叫ばれているような気がした。


「私はそろそろ行かねばならない。……命令はしっかり守るように」


 勢野は念を押して去っていく。


 こうして、雨谷捜索&救出作戦は俺たち抜きで始まろうとしていた。

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