幕間
幕間(1)
豊田トキさんの件以降、時間退行観測庁東京支部にはつかの間の休息がやってきた。もちろん仕事は通常通り行われているのだが、あの心臓に悪い警報音を聞くことはなくここ数日間を過ごすことができた。
空岡の担当していた二葉一はというと、彼女の立派な働きにより無事に解決できたようである。空岡はいつものごとく謙遜していたが、遠慮せずにちょっとくらい自慢してもいいのになと思ってしまった。世良だったら聞かれていなくても自らの功績を披露するところだ。
そんなこんなで仕事に余裕ができたこともあって、俺は由依さんのもとへ遺品を返しに行く許可を得られた。
事件から数日後、俺は一人で由依さんの家へと向かった。
世良も随分と行きたがっていたが、解決した案件に人員二人は割けないという勢野の命令により俺が行くことになった。世良が悔しがっていたのは言うまでもない。
由依さんの家に行くことが決まったのは良かったが、彼女にどのように説明すればいいのかは非常に悩んだ。
トキさんが喜んでいたと伝えたい。
隠蔽工作を行う技官たちと相談し、詳細は隠しながらもできる限り話をする方向で意見がまとまった。
ちなみに、田中商店へはでっち上げた雑誌記事が無事届けられたようだ。そちらのほうの詳細も気になるが、まあいいだろう。
由依さんの家に上がって、彼女の目線はまず俺の持っていた紙袋に向けられた。
「返ってきたんですね」
彼女の問いに俺は静かに頷いた。
渡すはずだった相手がなぜ受け取らなかったのか。
それを説明するとしたら、当然豊田トキさんのことを話さなければならない。詳細を尋ねられたら「もうこの世にはいないこと」は話さざるを得ないだろうと俺は覚悟した。
けれど、由依さんはそれ以上追及してこなかった。何かを察したのかもしれない。彼女は「そうですか」と呟いて、俺から紙袋を受け取った。
訊かれないのなら、危険を冒してまで話すべきではないのかもしれない。
でも、それではあまりに寂しい。俺は覚悟を決めて口を開いた。
「これを渡すつもりだった相手はあなたの厚意にとても感謝していました」
「本当ですか?」
その言葉を待っていたとばかりに由依さんは顔を上げた。
「はい。おかげで忘れていた歌を思い出すことができたと、これでもう『思い残すことはない』とのことです」
「喜んでいたんですね?」
由依さんは一言だけ、そう訊いてきた。
「ええ、それはもう幸せそうな表情でしたよ。すべては庄司さんと由依さんのおかげです。俺のほうから代わりにお礼を言います。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ届けてくださってありがとうございます。祖父もきっと喜んでいると思います」
彼女がどこまで察しているのかはわからないが、伝えるべきことは伝えられたし、やはりこれで良かったのだろう。
目の前には幸せそうな顔がまた一つ生まれていた。
「あっ、CDも入ってるんですね」
話もひと段落し、紙袋の中身を整理するためにテーブルの上に並べていた由依さんが声を上げる。
「置いてきても良かったんですけど」
写真や楽譜の原本は一つしかないが、CDだったらパソコンにデータが残っている限り何枚でも焼けるのだから返す必要はなかったかもしれない。
でも、もしあの場に置いて行こうとしてもトキさんは受け取らなかっただろう。
なんたって、彼女は庄司さんの歌を思い出したのだから。
「じゃあ、あなたにあげますよ」
屈託のない笑顔で由依さんはCDを俺に差し出していた。
「俺にですか?」
「これこそ私が持っていてもしょうがないですからね。受け取っていただけませんか?」
「わかりました。そういうことなら頂きます」
「ありがとうございます。ぜひ時間があるときにでも聴いてください」
由依さんが嬉しそうにはにかむので、何だかこちらも恥ずかしくなって目を逸らした。
ふと視線に入ったのはテーブルの上にある庄司さんの書いた楽譜。俺はそれの上のほうに大きく書かれている題字に惹きつけられた。
「それにしても良いタイトルですよね。まさにこの歌に相応しいって感じがします」
「そうですね。歌ってみて私もそう思いましたよ」
二人で見つめる古い楽譜。そこに書かれていたタイトルは……。
――
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