第4章(9)

 病室に着くと、すでに鑑賞の準備が整っていた。ベッド脇のテーブルの上にはCDラジカセがあり、親族の方々がトキさんを囲むようにして立っている。彼らは俺と世良が入ってきたことに気づくとこちらを向き、一斉にお辞儀した。


 由依さんの家を出た後、俺たちはすぐ本部に状況を報告した。返事は「準備をしておくから病院に向かえ」だった。


 準備をしておく、とはこういうことだったらしい。


「待ってたよ。わざわざ調べてくれたんだってねえ」


 俺と世良がベッドの中を覗き込むと、トキさんはしわくちゃな顔で笑っていた。


 その温かくて優しい顔を見た俺は思わず泣きそうになってしまった。


 でも、このタイミングで涙を流すわけにはいかない。俺は精一杯の笑顔を見せ、CDをラジカセにセットした。


「準備はいいですか?」


 俺の声にトキさんは首を小さく縦に動かした。周りの人たちも同様に頷いていた。


「では、流します」


 ――スイッチを押す。


 最初の何秒かは無音で部屋の中がシーンと静まり返った。


 やがてピアノの音が流れ出した。


 続いて優しい女性の歌声。由依さんの声である。


 光輝くようなピアノの音色と透明感のある声が織り成す美しいメロディー、そして

泡沫のように儚い歌詞。


 それらが相まって、心を揺さぶる叙情的な歌が生まれていた。


 曲が流れ始めて、何人かはもう泣き出していた。目を真っ赤にし、ハンカチでこぼれてくる涙を拭きながら、何とか泣き声だけは出さないよう必死でこらえている。


 世良も泣いていた。普段はお調子者の彼だが、他人を思いやる気持ちは人一倍だ。今まで明るく振舞って我慢していた分がここにきて全部出たのだろう。眼鏡を取り、流れてくる大粒の涙を手で拭っている。


 トキさんはゆったりと歌に合わせて体を揺らしていた。目は閉じていて心地良さそうな表情だった。


 そんな光景がいつの間にか滲んで見える。俺も泣いているようだ。


 ――再生が終わる。永遠のような、一瞬のような、そんな時間が過ぎ去った。


 病室にはいくつもの泣き顔が溢れていた。


「ありがとう。ようやく思い出せたよ」


 まだ余韻が残る中で、震えるトキさんの声が部屋に響く。


「夢が叶った。これでもう思い残すことはない。あの世へ行ってもこの歌を歌うことができるんだ。こんな幸せなことはないよ」

「実はまだ見てもらいたいものがあるんです」


 涙を隠しながら、俺はテーブルの上からCDラジカセをどかし、代わりに由依さんから受け取ったものを並べていった。


「これらは今の歌を作詞作曲した中川庄司さんが遺したものです。持ち主だった方はトキさんに差し上げると言っていました」

「どれ、ちょっと見せておくれ。それは写真かい?」

「はい。どうぞ」

「そうそう。こんな人だった。歌ってる姿が格好良かったんだよ。多分、相当モテたんだろうねえ。そっちは何だい?」

「これは楽譜です」


 もう何十年も前の紙だ。乱暴に扱って破いてしまわないよう気をつけながら、ベットで横たわるトキさんに見える角度で持つ。


「こりゃ細かいね。もうちょっと近づけておくれ。……なるほどねえ、歌ってる姿を見たときから繊細な人だと思ってたけど、やっぱり文字にも表れてるよ」


 トキさんはうんうんと頷いて楽譜を眺める。生き生きとしていて輝かしい瞳は、まるで少女のトキさんがそこにいるように思わせた。


 時間が流れていく。病室の窓から外を見れば、青かった空もいつの間にか夕焼け空に変わっていて、また今日という一日が終わることを予感させた。


「あと何回、夕焼けを見られるかねえ」


 楽譜を見るのをやめ、窓の外を見つめたトキさんがふとこぼした言葉に、俺はハッと気づかされた。


 また今日という一日が終わる、という考えは「明日」という一日を当たり前のように感じているからこそ出てくるものなのだ。朝になれば太陽が昇り、夜になれば沈む。それが当然だと思っているから、そこにかけがえのなさは感じない。


 しかし、それを見られるのがあと何回かしかない、となったらどうか。


 そういう状況になった途端、今までありふれていると思っていた光景がとてつもなく愛おしく思えるのではないか。


 だが、これはあくまで想像にすぎない。


 いくら頭で考えたところで今の俺にはどうしてもわからない。


 その境地に至ることは……できない。


 寂しげに微笑むトキさんの顔を、俺は傍らでじっと見つめていた。彼女はそれに気づくと、こちらを向いて思い出したように言った。


「そういえば遺品の件だけどね、私は受け取れないよ。なんたってあの世へは持って行けないからねえ。持って行くのは思い出だけで十分さ」


 そこかしこからすすり泣く声が聞こえる。誰も彼もが泣いていた。


「私は幸せだよ。忘れてた歌は思い出せたし、最後の時間をこうやってみんなに囲まれて過ごせたんだ。だから、そんなに泣かないでおくれ」


 最後は明るくなんて思ってたけど、無理だった。


 死を見届ける側だって見届ける側の気持ちがあるんだ。


 幸せだなんて言われて、泣くなって言われたって、涙は止まらない。


 病室に差し込んだ夕陽。その真っ赤に燃える陽は命の火のようにも見えた。その上からはこれから訪れる夜に向けて、暗く深い空が覆いかぶさるように広がっていく。もうすぐ長い夜がやってくるのだ。


 沈みかかった今日の夕陽。絶対に忘れるまいと、俺は何度も何度も目に焼き付ける。


 消え入る寸前の夕陽は、本日最後にして最高の輝きを放っていた。



 次の日の朝、トキさんは静かに息を引き取った。

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