第4章(8)

 翌朝、俺と世良は車で中川由依さんの家へと向かった。


 車内ではいつも以上にいろいろな話をした。今回の件に関係することからどうでもいいような話まで、絶え間なく話題を入れ替えながら道中を過ごしていた。


 静かになれば心配の種が次々と芽を出し、悪い方向へ想像を働かせてしまう。そんなお互いの共通認識がとめどない会話を続けさせていた。


 家に到着し、「中川」という表札を確認すると、俺はインターホンを押した。スピーカから「はーい」という明るい女性の返事が聞こえてくる。俺たちが中川庄司さんについて話を聞きに来た者だと告げると、彼女は了承し、玄関の鍵を開けた。


「どうぞ。お待ちしてました」

「すみませんねー、いきなりで」


 横にいた世良がサッと俺の前に出て、はにかんで挨拶をする。


「いえいえ、いいんですよ。祖父の話を聞いてもらえるのは私にとってもありがたいことですから」


 庄司さんの孫娘である由依さんは長い髪を整えると、白い歯を見せニコッと笑った。


 事前の情報によれば彼女は現在独身で、今俺たちが足を踏み入れているこの家で一人暮らしをしているらしい。本来ならば彼女の父親であり庄司さんの息子である中川康雄なかがわやすおさんに話を伺いたかったのだが、康雄さんは海外に出張中であることがわかり、それは叶わなかった。


「あのソファーに座ってください。今、お茶を出しますから」


 俺たちをリビングルームに案内した由依さんは二人掛けの黒革のソファーを指差した。


 俺はすぐに「お気遣いは無用です」と言葉を返したが、彼女は「ご遠慮なさらずに」とお茶を入れに行ってしまった。


「美人だよな、あの人」


 彼女が去った後、ソファーに座った世良がボソッと呟いた。俺は彼を睨みつける。


「そう怖い顔すんなって。ただ見た感想を言っただけだ」


 世良の言うように由依さんは確かに美人だ。仕事とはいえこのような人と関われるのは嬉しい気分にもなる。


 しかし、そんなことで浮かれている場合ではない。たとえ彼女に嫌われたとしても、俺たちは一刻も早く必要な情報を手に入れなければならないのである。


「俺たちの目的はあくまで……」

「病院で待ってるトキさんに歌を思い出させる、だろ?」


 世良が右手でグッドのサインを出したので、俺はこくりと頷いた。


「お待たせしてすみません。紅茶とケーキです」


 それと同時に明るい声がして、由依さんは細い腕で慎重にトレイを運んできた。


「ありがとうございます」

「いえ、大丈夫ですよ。おかわりもあるのでよかったら言ってください」


 俺が礼を言うと、由依さんは屈託のない笑みを見せる。


 彼女の気遣いはありがたいがゆっくりしている暇はない。置かれた紅茶を一口だけ飲んで、俺は本題に入ることにした。


「早速なんですが、庄司さんってどんな人だったんでしょうか? 歌が上手だったということは噂で聞いているんですが、それ以外のことはまだあまり知らなくて」


「そりゃそうですよ。祖父は別に有名人というわけでもないですし。お二人が私のもとに辿り着けただけでも驚きです」


 それは田中さんのおかげである。俺は心の中でお喋り好きな店主に感謝する。


「私の祖父は若い頃、家の近所にあった大きな公園でよく歌っていたそうです。話に聞いた限りでは歌手を目指していたみたいで、どれくらい本気だったのかはわかりませんが、それなりに努力はしていたようです。結局夢は叶わなかったみたいですけど」

「歌手かぁ。ぜひなって欲しかったな」

「でも、それはそれで良かったと思ってますよ。私は歌手にならなかった祖父しか知りませんが、その祖父が大好きでしたから。それに、もし祖父が歌手になろうと活動を続けていたらどうなっていたかわかりません。私だって生まれることはなかったかもしれませんしね」


 世良の残念がる呟きにも、由依さんは前向きな態度で応じた。


 夢が叶わなかったからこそ叶うものもある。


 彼女も、そしておそらく庄司さん自身もどこかでそれを理解したのだろう。


「そういえば、話を聞きに来てくれた人に何か見せられたらいいなと思って、祖父が遺したものをいろいろと整理してみたんですよ。そうしたらいくつか見て欲しいものが出てきました」


 そう言うと、由依さんはどこかの高級そうな店の紙袋を手元に引き寄せ、ガサガサと中を漁り出した。どうやら見つけたものはその紙袋の中にまとめて入れてあるらしい。


「まずは祖父の写真です」


 説明とともに差し出された白黒写真にはハンサムな男の人の横顔が写っていた。太く凛々しい眉に、遥か遠方を見つめるような透き通った目。写真は斜め下から撮られており、より被写体の男の人がたくましく見える。


 写真の庄司さんを見た後、改めて由依さんの顔を眺めてみた。どこかがよく似ている気がする。目の辺りだろうか。


「かっけぇ。今の時代にもこんなイケメンなかなかいないぜ」

「昔はモテたんだ、と祖父はよく冗談めいた口調で自慢していました。私が大きくなる前に亡くなってしまったので詳しいことは訊けずじまいですが、この写真を見ると本当だったのかなと思います」


 彼女は世良の素直な感想に喜んで、目を細めながら写真に写る祖父を見つめる。


 静かな空気が流れたところで、由依さんは「あっ、続きを話さないといけませんね」とあどけない笑顔を浮かべ、再び紙袋の中に手を入れた。


「祖父が歌っていた歌についての資料も残っていたんですよ。いっちょまえに『公演リスト』なんていうのもあったりして。これがそうです」


 今度は色褪せてボロボロになった紙が出てきた。ゆっくりと広げてみると、大きく曲のタイトルらしきものが並べて書いてあった。


「これらは当時流行っていた歌みたいです。私くらいの年代だとほとんどわかりませんが、祖父と同じ世代の人なら結構知っているみたいですね」


 言われてみれば、うっすらと聞いたことがあるような曲名が一つ二つ目についた。この中に豊田さんが忘れてしまった歌があるのだろうか。今一度、曲のタイトルを順番に見ていくことにした。


「この印には何か意味があるんですか?」


 そんな中、気になる曲が一つあったので訊いてみた。そのタイトルの横にだけ米印が描かれていたのである。


「それ、オリジナル曲みたいですよ」

「オリジナル、ということは自分で作った曲ということですか?」

「はい。祖父が作詞作曲したようです。その証拠にこんなものが残っていました」


 由依さんはこれまた古びた何枚かの大きな用紙をテーブルの上に広げた。


 音楽に関する知識はあまりないが、目の前に広がっているのが楽譜であることは容易に理解できた。五線譜の上に音符が描かれ、その下には歌詞が書いてある。先ほどの公演リストを見たときにも感じたが、庄司さんの書く文字には繊細さが表れていた。


「すげえな。これって楽譜が読める人なら今の時代でも再現可能なんでしょう?」


 世良は顔を思いっきりテーブルのほうに近づけて、食い入るようにそれを見つめていた。


「できますよ。ちなみに、私も一応『楽譜読める人』なんですが歌ってみましょうか?」


 由依さんは少し恥ずかしそうに微笑みながら告白する。


「えっ、マジですか? ぜひお願いしますよ」


 顔を上げた世良は尊敬の眼差しで彼女を見る。


「じゃあ、最初のところだけ……」

「よっしゃ! ありがとうございます!」


 世良の願いを聞き入れた由依さんは緊張気味に楽譜を手に取った。


 一瞬の静寂があって、すうっと息を吸う音が聞こえ、優しい歌声がリビングに響き始める。


「なあ、これって」


 彼女が歌い出した直後、世良が小さい声で俺に話しかけてきた。


「ああ、どうやらこれみたいだな」


 俺も確信し、答える。


 今、歌われている歌。それはまさに昨日病院でトキさんが途中までしか歌えなかった歌だった。


 きりのいいところまでいって、由依さんは歌うのを止めた。


「こんな感じです。あの……どうかしましたか?」

「いえ、とてもいい歌でした。素晴らしかったです」


 このまま由依さんに歌ってもらえばいいのではないか。俺はひとまず感想を述べ、一つ大きなお願いをしてみた。


「あの、今の歌をフルで歌ってもらうことは可能でしょうか? 実はこの歌をどうしても聴きたいという人がいまして、録音して聴かせてあげたいのですが」


 由依さんは不思議そうにこちらを見たが、すぐに答えてくれた。


「それはいいですけど、私の歌声で大丈夫ですか?」

「全然オーケーですって。今、準備するんでちょっとだけ待っててください」


 俺の提案に「ナイスアイデア」と目配せをしていた世良が、急いで携帯を取り出して録音の準備を始めた。


「どうせだったらもっといい方法がありますよ。こちらに来てもらえますか?」


 焦る俺たちをよそに、由依さんはリビングの外に出てしまった。


 何だかわからず慌ててついていくと、割かし広めの部屋に案内された。


「一応、録音する道具は一通り揃ってるんですよ」


 彼女は素早くパソコンの電源を入れていた。部屋の中央にはマイクが置かれていて、その他にもピアノやギターなどいろいろな楽器があり、ちょっとしたスタジオのようだった。


「今、設定するのでちょっと待っててください」


 俺たちがボーっと突っ立っている間に彼女は起動したパソコンをいじり、何やらソフトを開いていた。画面には波形やメーターのようなものが表示されている。どうやらこれで録音できるらしい。


「じゃあ、歌いますね」


 設定が終わったようで、由依さんはこちらを振り向いて許可を取る。何だかよくわからないがここは彼女に任せるしかない。「お願いします」と俺たちは頭を下げた。


 大きく頷いた由依さんはピアノの前に移動して座る。弾き語りをしてくれるようだ。


 すべての準備が整ったところで、彼女はおもむろに歌い始めた。


 美しいピアノの音色と歌声が響く間、俺と世良は口をギュッと閉じ、壁際に直立してできるだけ邪魔にならないように努めた。


 歌は五分ほどで終わり、由依さん自ら録音を止める。


「終わりました。これから編集してCDに焼くので少し待っていてくださいね」


 そう言うと、彼女は熱心にパソコンをいじり始めた。


 素晴らしい歌声だったので本当は称賛の拍手とかしたかったのだが、すっかりタイミングを逃してしまったようだ。まあ、後で感謝の気持ちとともに伝えればいいだろう。


 静かにして待っていると、着々と編集作業を進めていた由依さんが感慨深げに呟く。


「この歌、祖父が最後に作った歌みたいなんです。詳しいことは知らないんですが、どうやら祖父はこの歌に勝負をかけていたようで」

「勝負、ですか?」

「はい。歌手になるための最後の大勝負。何としてもこの歌で夢を叶えるんだ、というそんな想いがこの曲からは伝わってきます」


 言われてみればそんな気がしないでもない。もう何十年も前の一人の人間の夢がこの歌に詰められているのだと思うと、何だかとてつもなくすごいことのように感じられた。


 やがて、ウィーンとCDが回る音が聞こえ始めた。もうすぐ終わるようである。


 由依さんのふうっという長い安堵のため息が終了の合図だった。


「できましたよ。CDはケースに入れておきますね」

「何から何まですみません。歌もピアノも最高でした。CDは必ず届けますので」

「いえいえ、いいんですよ。ぜひその人によろしくお伝えください」


 頭を下げた俺に由依さんは優しく微笑んだ。


「それから、これも持って行ってください」


 CDと一緒に、彼女は紙袋をバッと俺と世良の前に差し出す。先ほど写真やら楽譜やらを取り出したあの紙袋だ。


「必要そうなものはすべてこれに入れておきました。祖父の歌を聴きたいと言ってくださっているその方にあげてください。私が持っていてもしまっておくだけですから」

「でも、それは……」


 俺も世良も戸惑いを隠せない。貸すならともかく、あげてしまうというのは。


 しかし、彼女は首を振って穏やかな表情を浮かべる。


「いいんです。欲しいと思っている人に届けられるのならそれが一番でしょう。きっと祖父もそれを望んでいます」


「……そうですか」


 悩んだ末、俺は受け取った。紙袋は予想していたよりも重かった。


「その代わりに一つお願いがあるんですが」

「何ですか?」


 俺が尋ねると、彼女は胸の前で手を合わせて言った。


「その人にCDを聴かせたら、どんな様子だったかを後で教えてくれませんか? ちゃんと喜んでもらえるか不安なので」

「わかりました。また後日伺います」


 そう答えてみたものの、本当に来られるのかは不明だ。今の事件がうまく解決して少し時間ができたなら可能かもしれないし、余裕があったとしても再び由依さんに接触することは組織のほうから止められるかもしれない。


 だけど、何か伝えることができたらいいなと思う。庄司さんの歌を今でも愛し続けているトキさんのことを少しだけでも教えてあげることができたら。


 俺は中身の詰まった紙袋の紐を力強く握った。


 協力してくれた由依さんや天国にいる庄司さんのためにも、そして何より病院で待っているトキさんのためにも、今回の任務を無事やり遂げなければならない。

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