第2章(6)

「久しぶりに来たな。動物園」


 入り口のゲートを抜けると広大な動物たちの世界が姿を現した。園内ではテーマごとにさらに細かくエリアが分かれており、じっくり見るとなると一日で回るのは大変そうだ。迫力のある大型の動物や可愛い小動物がいるエリアは人気だろうが、名前を聞いてもいまいちピンとこない動物や苦手な動物がいるゾーンなどは回避する人もいるだろう。


 例えば俺は爬虫類が全般的に苦手だ。その中でも特に蛇だけはどうしても受け入れられることができない。あの不気味な目、独特な色合い、忍び寄るような動き。想像しただけでも身震いしてしまう。突然出くわしたら気絶する自信がある。


「手分けして捜す?」

「そうだな」


 園内マップが描かれた看板の前で俺たちは作戦を立てる。


「歩き回るのが大変そうだから、こっちの広いエリアは俺が担当しよう。空岡はこの辺りの小さいエリアをいくつか回ってくれ」

「いいの?」


 空岡は俺が気を使っていると思ったのだろう、申し訳なさそうに確認してきた。


 だが、それは単なる思い違いである。潔く言ってしまえば、俺はただ爬虫類ゾーンを見て回りたくなかっただけなのだ。だから調子のいいことを言って、見事に爬虫類がいるエリアを彼女に押し付けてしまった。空岡、すまない。


 表面上では「ああ、いいよ」などと格好良い自分を演出しつつ話を続ける。


「もし中里さんを見つけたらお互いすぐに連絡しよう」

「うん。わかってる」

「それから……」


 俺は大きな園内マップを指し示しながら説明する。


「これでもまだすべてのエリアを網羅できてはいない。とりあえず、はずれのほうにある鳥類ゾーンやサル山辺りは後回しにしよう。お互いに今分けた領域を捜して、見つからなかったら入り口のゲートのところまで戻って来る。時間は……そうだな、今から二十分でいいか?」


 園内の広さ的に厳しい時間設定かもしれないが、実際に動物を観察するわけではないので何とかなるだろう。


「うん。いいと思う」

「よし。じゃあまたあとで」


 空岡の了承を得て、中里捜索作戦は実行に移された。


 彼女と別れてすぐに、俺はオブザーバーウォッチを操作しアプリを起動する。すると画面には緑色のランプが点灯した。つまり、まだターゲットは近くにいないということだ。


 時間がないので園内を早歩きで進みながら中里を捜す。ゾウの前、キリンの前、ライオンの前。いそうな場所を次々と回ってみるがランプの色に変化はなく、彼の姿も見つからない。


 行く先々で動物たちも「ここにはいないぜ」と教えてくれた。いやもちろん、そう訴えかけてくれたような気がしただけだ。もし本当に会話ができるのなら、すぐにでも中里の居場所を訊きたい。例えば「向こうに行ったよ」とか言ってくれて、その場所に行ったら今度はそこにいる動物が「あっちへ行った」と知らせてくれるような、そんな動物たちの連係プレーがあれば容易に彼を発見することができるだろう。


 ――なあ、オランウータンよ。その長い腕を伸ばして中里の居る方向を指してくれないかな。


 平日の昼間から動物園にいる人はそれほど多くなく、土日の混雑ぶりを考えたら捜しやすい環境であると高を括っていたが、如何せん園内は広く、中里進士の姿はなかなか見つからなかった。


 油断があったのかもしれない。空岡からも連絡が来ないところをみると、彼女もまだ中里を見つけられていないということである。


 そういえば世良たちはどうしているだろう。何か有益な情報を手に入れただろうか。今回の件についてはまだまだわからない部分が多いので、少しでも中里に関する情報が欲しい。一刻も早く。


 気がつけば徐々に焦りが募っていた。ターゲットを見つけられない焦り。過去に戻りたい理由が特定できていない焦り。早足で歩き回っているせいか呼吸がどんどん荒くなっていき、それにより焦りの感情がまた強くなっていく。


 もし任務に失敗したら。


 この仕事に就いてから、俺は常にその不安を抱えている。普段、誰かと談笑しているときも、食事をしているときも、寝ているときも。その不安はまるで影のように付きまとっている。


 失敗したら、次、頑張ればいいさ。


 小さなミスだったらそれでもいい。けれど、世の中には取り返しのつかないこともある。誰かの言う「次」が永遠に訪れないことだってあるのである。


 結局、二十分経っても中里を発見できず、俺は集合場所であるゲートの前に戻ってきた。


 空岡はすでにそこにいて、俺が「どうだった?」と尋ねると重苦しげに首を横に振った。


「そうか。となると、あと可能性があるのは……」


 俺が候補を上げようとしたそのときだった。


 突然、携帯に着信が入る。すぐに取り出して発信者を確認すると世良だった。待ちに待った連絡である。


「世良か?」

「おー、賢次。いろいろと情報を入手したぜ。聞きたいか?」

 聞きたいに決まっている。俺が急かすと、世良は自慢げに話し出した。

「まず一つ。驚くと思うが聞いてくれよ。中里さんは最近大学に顔を出していないらしい」

「知ってる。他にないのか?」


 それはもうすでに矢部から得た情報だ。彼の証言の裏付けにはなったが。


「何だよ、知ってたのか。まあ、まだ情報はある。さっき俺たちは中里さんと同じ学科のやつらに話を聞いて回ったんだ。そいつらが言っていたことなんだが、中里さんはこの大学が第一志望ではなかったようだ」

「受験に失敗したのか?」

「そうみたいだな。だから周りのやつらが言うには、入学当初から『僕の居場所はここじゃない』みたいなオーラを出していたらしい。中里さんは漫画やゲームが好きでそういうサークルに入ることも考えていたみたいだが、結局入らなかったそうだ。やっぱ、自分の入学した大学が気に食わなかったんじゃねえか」


 大学受験の失敗。それは決して珍しいことではない。そこに行きたい人が大勢集まれば入るための試験が行われ、成績の悪い者ははじかれる。どんなに模試などで好成績を収めていようとも本番の試験が出来なければ落ちるし、その逆のパターンもある。


 緊張しすぎて力が発揮できなかった。体調が悪かった。本当はもっとやれる。


 受験というのはそういった言い分が一切通用しない、ある意味公平で、ある意味これ以上ないくらい残酷なものだ。


 だから、希望の大学に行けないという人は山ほどいる。後悔している人間もその数だけいるということである。


「俺はそれが過去に戻りたい原因だと思うけどな」


 世良が重い口調で述べる。


「そうかもな」


 決めつけるのは良くないが、今のところそれが理由である可能性が高い。あとは中里に会って話を聞いてみて判断するしかないだろう。


 俺が礼を言って電話を切ろうとすると、突然ガサガサと音がして電話の相手が変わった。もちろん変わった相手は節原だった。


「賢次君、ちょっと待って。私たちが得た情報はこれくらいだけど……」


 彼女は少し間をあけ、息を吸った。何だろうと待っていると、「あとは二人に任せたよ!」と隣で電話が終わるのを待っていた空岡にもばっちり聞こえるくらいの力強い声で勇気づけてくれた。


 電話が終わり、俺は空岡に世良たちから得た情報を告げた。


「とにかく中里さんを捜しに行こうか?」


 やはり悲しげな表情になった空岡に俺は一声かける。「そうだね」と彼女は呟いた。


「残っている場所で可能性が高いのはどこだろうな?」

「思い出したんだけど、サル山の前ってベンチがあって座って見られるようになってるの。もし中里さんが長時間同じ場所にいるんだとしたら、サル山の可能性が高いんじゃないかと思う」

「なるほど。じゃあ、サル山のほうに行ってみるか」

「でも、いないかもしれないよ」


 意見は出したが、自信なさげに顔を伏せる空岡。不安になる気持ちはよくわかる。自分もさっきまでそうだったから。


「そのときはそのときだ。また別の場所を捜せばいい」


 だけど、立ち止まっていてもしょうがない。俺たちは、今できることをやるしかない。


 俯いていた空岡はゆっくりと顔を上げ、黒く丸い目でこちらを見つめていたが、やがて思い出したようにそっと頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る