第2章(7)

 空岡の予想通り、中里はサル山の前にいた。近づいていくうちにオブザーバーウォッチのランプの色が黄色、そして赤色に変わっていったのでこれは間違いないと確信し、こうして辿り着いてみたらやはり彼の姿があった。見つけると同時に時計のバッテリーは切れた。


 サル山では何匹ものサルが元気に追いかけっこをしていたり、張られたロープを渡ったり、毛繕いをしたりと思い思いに行動していた。


 そんな様子を中里はベンチに座ってボーっと眺めていた。平日の午後の動物園。周りに人の姿はなく、静かで閑散としていた。


 ……いや、やっぱりサルの鳴き声がうるさい。


 俺たちが近づくと、中里は脇に置いてあった鞄を素早く抱え込み、席を立とうとした。サルたちを見るのに一番ロケーションが良いこのベンチを譲ってくれるつもりなのだろう。ありがたい気遣いだがそれには及ばない。俺たちの興味の対象は今まさに立ち去ろうとしている中里なのだから。


「ちょっと待ってください」


 背を向ける中里を俺は急いで呼び止める。彼はきょとんとした顔をして振り返った。


「えっと……」


 呼び止めてから、しまったと思った。中里を見つけるということにばかり気を取られ、彼に会ったらどう話を切り出すのかという作戦はまったく立てていなかったのだ。


 言葉に詰まる。間が空くにつれ、どんどん気まずい雰囲気になっていった。


「多野動物園、よく来るんですか?」


 そんな空気を取り払ってくれたのは空岡だった。後ろにいた彼女は戸惑う俺を見て、咄嗟に前に出て中里に質問する。


「ま、まあ一応」


 正体不明の二人に話しかけられた中里は目を泳がせながら答えた。


 彼の顔をよく見ると、眼鏡で隠れてはいるが目の下にはひどいクマがあり、頬も痩せこけていてだいぶやつれた状態だった。話に聞いていたように声も小さいし、覇気というか生気が感じられなかった。


「私も昔はよく来てたんです。特にこのサル山はお気に入りで毎回欠かさず見てました。良い場所ですよね、ここ」


 そう言いながら、空岡はサル山のほうに近づいていった。そうなると流れ的に中里もそちらに体が動く。


 空岡を真ん中にして三人並んでサル山を見下ろした。ここから見ると、今まで死角になっていて見えなかったサルがたくさんいたことに気がつく。常にどこかでサルが動いているので見ていて飽きない。長い時間眺めていたくなるのもわかる気がする。


「私、小さい頃、すでにこの子たちに名前があるってことを知らなくて自分で勝手に名付けたことがあって、体が大きくていつも山の頂上にいる子はタイショウ、小柄で可愛い子はチビ、元気に跳ね回ってる子はピョン太みたいな感じで呼んでました」

「それ、僕もやったことあります。しっくりくる名前が付けられると何だか嬉しい気分になったりしますよね」


 初めて中里が少し笑みを浮かべる。続けざまに彼は言った。


「動物もそうですが、友達のあだ名もよく僕が付けてたりしたんです。それが結構流行って、気がついたらみんながそう呼ぶようになっていったりもしました。だから、小学校や中学校のときの友達は本名よりも先にあだ名のほうが思い浮かんだりしますね」


 そう言われればそうかもな、と思っていると、彼は小さくため息をついて肩を落とす。


「何か悩みでもあるんですか? 良かったら俺たちが聞きますよ」


 ここが勝負だと思い、俺はそう声をかけた。中里が自分の状況を話してくれない以上、この案件を解決するのは難しい。どうしても彼の心の内を知る必要があるのだ。


 でも、目測を誤って踏み込みすぎれば彼は引いてしまう。俺たちのことを受け入れず、心を閉ざしてしまうだろう。


 まさにこれはうまくいくかどうかのギリギリのラインだった。


「悩み、か」


 中里はため息交じりに声を漏らす。


「私たちにどうにかできることではないかもしれませんが話してみませんか?」


 下を向く中里の顔を覗き込むようにして、空岡が優しく後押しした。彼女もあまり立ち入りすぎてはいけないことを承知しているのだろう。あくまで彼の気持ちを第一に考え、決して話すことを強制はしないように細心の注意を払っていた。


 中里は不思議そうな面持ちでこちらを見る。なぜ赤の他人の自分にそんなことを言ってくるのか。そう思っているに違いない。


「あなたがたは変わってますね。まるで僕の悩みを聞くために現れたみたいだ。……本当に聞いてくれるんですか?」


 それまでの虚ろな目とは違い、こちらを品定めするようにしっかりとした眼差しを向けてくる。俺たちはコクリと頷いた。


「最近、居場所についてよく考えるんです」


 開口一番、目線をサル山に向けながら中里はそう言った。


「居場所?」


 空岡は彼の顔を見ながら小首を傾げた。


 居場所、という言葉は世良たちからの報告にもあった。「中里は大学に入学したときから『居場所はここじゃない』というオーラを出していた」というものだ。その台詞が彼本人の口から出たものかどうかは定かではないが、少なからずそういう雰囲気があったということだろう。


「まあ、自分の存在意義みたいなものです。どうして自分はここにいるのか、この場所で自分はどのような働きをしているのか、本当に自分はここにいる必要があるのか、みたいなことを延々考えています。一日中、朝から夜までずっと」


 空岡の疑問に答えるように話をする中里の顔には暗い影が差していた。


「答えも出ないのに変ですよね、そんなことを考え続けてるのって」

「そんなことありません。私もよく考えます」


 自嘲する中里に対して、空岡は珍しく食い下がるように言った。そこには信念のようなものが備わっていて、中里もその迫力に驚いたのか目を丸くして彼女のほうを見ていた。


「私もずっと考えてます。居場所……について」


 ふいに、強い南風が吹いた。彼女の艶やかで黒い髪が可愛らしい横顔を隠すように一瞬バアッと乱れる。


 俺は彼女のほうを見て思わず息をのんだ。


 ほんの一瞬だけ、なびく髪の隙間から涙が見えた気がしたのだ。


 やがて風がおさまり、彼女は乱れた髪をまとめ出した。もう目に涙は浮かべていない。


「ごめんなさい。つい、取り乱してしまいました。話を続けていただけますか?」


 小さく頭を下げた空岡を見て、言葉を失いかけていた中里も我に返り、話を再開した。


「は、はい。僕が居場所について深く考えるようになったのは大学生になってからです。僕は今年の四月から大学生になったんですけど、なんて言うんでしょうかね、うまく言葉にできないんですが想像していた世界とは何かが違ったんです。だから、自分の居場所がここではない気がして」

「希望の大学に行けなかったからとか、そういうことではないんですか?」

「それがまったくないとは言えません。実際問題、僕は第一志望の大学に落ちてるんです。だからその影響もあるとは思うんですが、でも何かもっと別のものを求めている気がして」


 俺の意見を中里はやんわりと否定した。


 説明はできないが求めている何かがあって、それが結果的に「居場所はここじゃない」というオーラを生み出している。無意識のうちに表に出てきたそれは、苦しみの底からただ一つ浮き出てきた素直な感情なのだ。


「仮定の話になりますが、もし第一志望の大学に行けていたとしてもきっと同じように僕は空虚さを感じていたような気がするんです」

「進学先のせいではない、と」


 じゃあ一体何なのだろうか。中里の心に潜む、虚しさの正体は。


 彼の話を聞く限り、おそらくそれが過去に戻りたい理由に繋がるに違いない。


 しかし、本人でも言葉にできないものをどうすれば探ることができるのか。


 何か手掛かりはないだろうか。例えば自分はどうだ。中里と俺は同い年だ。置かれている環境は違うとはいえ、虚しさを感じるものにはある程度共通点があるかもしれない。


 俺の場合は……そうだ。


 自らの体験を思い出しているうちに、一つの可能性を見出すことができた。


「そういえば、俺も去年の今頃、虚しいなって感じてました」


 去年の今頃。それは俺がちょうど進路に迷っていた時期のことだ。


「当時高三だったんですけど、クラスで俺だけ進路が白紙で、進学か就職かも決まってなくて、親や先生にだいぶ迷惑をかけちゃったんです」


 中里も空岡も静かに俺の話に耳を傾けていた。はにかみながら俺は話を先に進める。


「決められなかった理由は、まあ簡単に言うとやりたいことがなくて、ということになるんですけど、本当のところは少し違うというか」

「どう違ったんですか?」

「なんか俺もうまくは言えないんですよ。ただ、当時の自分はどの道も『楽しくないな』っていう想いが強くて、間違いなくそれが進路を決められない大きな原因だったんです」

「楽しくない、か。今の僕にもそれはあるかもしれませんね」


 中里が反応を見せる。ならば、と俺は彼の過去に踏み込んだ。


「例えば、中学生の頃とかを振り返って楽しかったと感じたりしませんか? よくある『あの頃は良かったな』みたいなことです。俺自身はそれほど特別な学校生活を送ってたわけでもないんですけど、やっぱり思い出すと楽しい気分になります。逆に言えば、それを経験してしまったから未来へ続く道がつまらなく見えたんです。高三の俺はそんな人間でした」


 中里は何か天啓を得たように口を開けたまま話を聞いていた。


「先生に『お前は道を選ぶのを怖がっている』と指摘されて、そのときにいろいろと考えたんですよ。そして気がついたのが、俺は将来について具体的には何も考えていなかったんだなっていうことでした。無限の可能性がある気がしていた中学生の頃とは違って、今はきちっとした道を選ばなければならない。それが俺の『怖さ』の正体だったんです」


 自分の話を終え、俺は肩に入っていた力をそっと抜いた。随分長々と話してしまったが、果たして彼の心には届いたのだろうか。


 中里は依然として立ち尽くしたまま過去のことを思い起こしているようだったので、彼が再び何かを語り出すまで黙っていることにした。


 その間、飼育員がサル山に入ってサルたちに餌をやっている光景が目に飛び込んでくる。近くのサルはもちろん、遠くのほうにいたサルも一斉に食べ物に群がり始める。いち早く食料を手に入れたサルはその場からすぐに離れて安全なところで食べていて、残った食べ物を集まったたくさんのサルが奪い合っていた。


「僕も中学生の頃は楽しかったな」


 中里が小さい声で呟いた。俺と空岡は何も言わず、彼の次の言葉に注意を傾ける。


「さっきも言ったと思うんですが、僕、友達にあだ名を付けてたんです。それでお返しとばかりに僕のほうも付けられたりして。僕の名前、中里進士って言うんですけど、最初と最後の文字を取って『なかじ』とかね。お互いにあだ名で呼び合って、ふざけ合って喧嘩して、仲直りして。思い出せばそんな毎日を過ごしていたんですね」


 中里は遠い過去を見るような目でサル山のほうを見た。


「もしかして僕がこのサル山を見たくなったのは、その頃のことが懐かしくなったからかもしれませんね。ああやって楽しそうに群れているのを見ると、昔作った秘密基地のことを思い出します。裏山に道具を集めて友達と何日もかけて少しずつ作っていって、最終的には結構立派な基地になって得意げになっていました。やればできるんだって。何なんでしょうね、中学生くらいのときのあの万能感は。でも、思えばあの感覚は最近味わっていませんでした。そんな経験があったことすら今の今まで忘れていました。だから虚しかったのかもしれませんね。あの頃のあの感覚が失われていたから」

「わかりますよ、その気持ち。俺もその頃の感覚が好きで、未だに変な妄想をしたりします。そんなの小さいうちにやめておけっていうようなやつを」

「宇宙人が密かに人間とすり替わっているとか?」

「……まあ、そんな感じです」


 冷静に答えつつ、内心ではこいつエスパーか、と思わず彼のことを疑ってしまった。


 だけどまあ、だいたい人間がする妄想など同じようなもので何パターンもないから、当てられても不思議ではないのかもしれない。


 言い当てられまだドキドキする心臓を必死に落ち着かせようとしていると、さらに追い打ちをかけるようなことを中里は言った。


「タイムスリップなんていうのもありますね。よくそういう妄想していました。日にちと時間を指定したら、その時代に戻れるみたいな」

「あ、ああタイムスリップですか」


 まさか実際にそれが可能であることを彼が知っていることはないと思うが、このタイミングでその話をされるとこちらとしては心臓に悪い。空岡も驚いた様子で苦笑いを浮かべていた。


「俺が言うのもなんですけど、妄想はほどほどにしたほうがいいですよ」


 俺は中里のことを諭そうとそう助言したが、かえって彼はそのタイムスリップ妄想を広げていってしまった。


「もし戻れるとしたら、僕は中学時代に戻りたいですね。多分、ずっと戻りたかったんだ。あの頃に」


 中里はまるで自分の居場所を見つけたかのようだった。


 このままではまずい。


「人間は過去には戻れないんですよ」


 夢を見る中里に、俺は冷淡で厳しい言葉を突きつけた。


 本当は過去に戻ることができる。だけど、彼にそれを知られてはならない。過去に戻る道は彼には見えないようにしなければならない。


「そうですよね」


 中里は諦めたような顔で笑った。


 空岡は複雑な表情で彼の悲しい笑顔を見つめていた。その表情が表す一つの感情は「ごめんなさい」だろう。素直な彼女は嘘をついたりするのがおそらく苦手だ。ましてや、嘘で誰かの願いを踏みにじるようなことは絶対にしたくないと思っているはずである。


 だが、見方によっては今自分たちがやっていることはそれに当てはまるようなことであると言える。「それが彼のためだ」と否定しながらも心の中では葛藤が続いていく。


 自分たちのやっていることは本当に正しいことなのか。俺たちはずっとその悩みを抱えたまま仕事をしているのだ。


「あの頃に戻りたいって思っちゃいけないんでしょうかね?」


 中里が独り言のように呟く。


 思っちゃいけないのか、と訊かれると答えるのは難しい。この仕事をしている俺たちとしては「過去に戻りたい」という想いは極力抱かないで欲しい。その想いのせいで日々心身をすり減らし、苦労しているから。


 だからといって、過去に戻りたいと思うことが罪なのか、と言われたらそうではないだろう。誰にだって戻りたい過去はあると思うし、それを懐かしんで良かったなと感じること自体は悪いことではないはずだ。


 でも、人が向かう先は未来だ。


 だから、本当に罪なのは「未来から逃避すること」なのではないか。


「俺は過去に戻りたいって思うことは悪くないと思います。だって、楽しかった過去を丸ごと無視する必要はないですから」

「でも、大学生にもなってあの頃の感覚が良かったと思ったところで今更どうしようもないでしょう? だって今となってはもう……」

「今からでもできることってあるんじゃないですか?」

「今から?」


 弱々しく目を向ける中里に俺は提案する。


「例えば昔の友達と会って、その当時やっていた遊びを再現してみるのもいいかもしれません。世間的にはそれは恥ずかしいことかもしれないですが、俺は悪いことだとは思いません。大人になっても変な妄想をしているとか、漫画やゲームが好きだとか、それでもいいんじゃないですか? 忘れたくない、かけがえのない感覚があるのなら、それを大事にして未来を生きていけばいいんじゃないですか?」


 生き方は人それぞれだ。何に価値を見出すのかも違えば、何を嫌だと思うのかも人によって異なる。当然、ある程度守らなければならない決まりというのはあるが、こうでなければならないという常識に過度に囚われる必要はない。自分が大切にしたいものを大切にしていけばいいのである。


「そういえば、もうしばらくあの頃の友達と連絡を取っていませんでした。久しぶりに連絡してみようかな」


 中里はうっすらと微笑んでいた。


「いいと思いますよ」


 俺も自然と笑みをこぼす。


 そうだ。きっとこれでいいのだろう。過去に戻る道を閉ざすことは過去を忘れることではないのだから。


 だが、これで中里が昔の友達と会って、もし過去に戻りたいという想いをより強めてしまったら。もちろん、そういう展開を危惧しないわけではない。


 でも、俺は大丈夫な気がした。


 なぜなら、彼の目は先ほどまでと違い、未来のほうを見つめているから。


「間庭君、もうすぐ閉園時間みたいだよ」

「本当だ。そろそろ出ないとな」


 園内の時計を見ると、閉園時間の午後五時が迫っていた。空がまだまだ青いので油断していた。五月の日の入りってこんなに遅かったっけ。


「じゃあ、中里さん。俺たちはこの辺で失礼します」

「あ、あの……」


 足早に立ち去ろうとした俺たちを中里は呼び止めた。


「あなたがたは何者なんですか?」


 尋ねられた俺と空岡は思わず顔を見合わせる。そしてお互いに小さく笑顔を浮かべると、俺が代表して彼のほうを振り返って答えた。


「ただの通りすがりの者です」

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