第2章(8)

 雨谷からの吉報があったのは、俺たちが動物園の駐車場に停めた車に乗り込んですぐのことだった。


「あなたたちの活躍のおかげで中里進士の時間退行能力はレベル0になったわ。とりあえず危険性は去ったとみて良さそうね。彼の今後の経過観察は私たちに任せてちょうだい。とにかく、二人ともご苦労様」


 そう労わる雨谷は相変わらず頼もしい女性像として俺たちの目に映る。


「今、こっちから報告を入れようと思ってたんだ。俺たちが戻ったのがよくわかったな」

「それくらいお見通しよ。それに結果は早く知りたいでしょ?」

「まあそうだな」


 実際、仕事がうまくいったのかどうかの確証は早く得たいものである。大丈夫だとは思っていたものの、今の報告を受けるまでは不安な気持ちが拭えなかった。これでようやく一安心といったところだ。


 車は動物園の駐車場を出て、本部への道を走り出す。


 雨谷からの報告が終わると、今度はこちらから中里とのやり取りをかいつまんで説明する番になった。運転中の俺に代わって空岡が中心に話をする。


「解決できたのは間庭君のおかげで、『今からでもできることってあるんじゃないですか?』って中里さんを説得して、彼のほうも納得したみたいだったよ。私だけだったらきっと解決できなかったと思う」


 途中、空岡はやけに俺の活躍をフィーチャーした。あのときは必死だったので、自分が何を言ったのかよく覚えていなかった。改めて言葉にされると恥ずかしい。


 そんな発言したのか、俺。


 何はともあれ、こちらからの報告も一通り完了した。何か言い忘れたことがないか考えている段階で、俺は最後に中里に言われたことを思い出した。


「そういや別れ際、中里さんに『何者なんですか?』って訊かれたからマニュアル通り答えておいた。後のことは頼む」

「大丈夫。それは心配しないで。こっちでやっておくから」


 雨谷は自信満々に胸を叩く。


 組織の規定では、仕事中に何者かと問われた場合、当たり障りのない回答をすることが定められている。これは嘘をついて誤魔化すためではなく、後々の処理が面倒くさくならないようにするためである。


 どっちにしろ咄嗟についた嘘はばれるものなのだ。今回の嘘だって中里が矢部に会って話をすれば、俺たちが単なる通りすがりの者ではないことくらいすぐにわかるだろう。


 だから、これから雨谷たちが中里に「もっともらしい説明」をする。組織の技官たちは事前の根回しだけではなく、そういった後処理のプロでもある。状況に応じて、相手を納得させるのに一番良い設定を考えるのだ。


 それでも、与えられた説明に疑問を持つ者はいる。


 ただ、それは大きな問題ではない。なぜなら、たとえ何か不審な点があったとしても、それが『時間退行観測庁』という組織の存在に結びつく可能性は限りなく低いからだ。


「それじゃ、二人ともお疲れ様。そろそろ電話切るわね」


 画面から雨谷の顔が消える。最後に見えた表情は微笑んでいた。


 窓の外には夕暮れの世界が広がっている。オレンジ色に輝く光と闇に染まりかけているアスファルトの道路が昼と夜の間のこのわずかな時間を彩っている。


「寧々さん、これからまだ仕事があるのかな?」

「だろうな。休みとかあまりなさそうだし。まあ、俺が手伝えることはないだろうけど」


 このあと本部に戻ったら、俺たちはすぐに帰宅することになるだろう。連日遅くまで作業している技官の人たちに「帰ります」と言わなければならないのでいつも申し訳なくなるが、手伝おうにも彼らのやっていることは高度すぎてわからないからどうしようもない。何もわからない奴がいたところで邪魔にしかならないだろうし。


「私も何か役に立てたらいいんだけどな」


 同じように自分の無力さを嘆く空岡の横顔はどこか寂しげだった。


 それを見た瞬間、俺の脳裏にあの光景がよみがえる。


 突然吹いた強い風。顔を隠すようになびく髪。そして……。


 あれは見間違いだったのだろうか。いや、そんなことはない。あれがきっと空岡の本当の姿なのだ。


 ――俺がまだ知らない正真正銘の彼女。


「俺は今日、空岡がいてくれて助かったけどな」


 聞こえるかどうかわからないくらいのボソッとした声で俺は呟いた。


「……ありがとう」


 聞こえてしまったらしい。


「コンビニにでも寄るか。何か奢るから」


 照れくさくなって話をそらした。空岡は小さく頷いていた。


 俺は今までほとんど何も知らなかった。いや、気にしていなかったと言ったほうがいいかもしれない。空岡のことも、それから他のメンバーのことも。


 同じ仕事をしていてもこれまでの人生はそれぞれ違う。そんなのは当たり前なのに。


 今度機会があったらいろいろと訊いてみようか。単刀直入に尋ねるのが難しかったら家族の話とかでもいい。俺たちはお互いの家族構成すらよく把握していないのだから。


 車を停めて、俺はコンビニに入る前に財布を確認する。


「本当に奢ってもらっちゃっていいの?」


 空岡が不安そうに訊いてきた。心配するな。金なら少しくらいはある。だからそんな顔で俺の財布を見ないでくれ。


「別にいいよ、それくらい」


 でも、そういえばコンビニに寄ったことはばっちり本部に知られちゃうんだよな。戻ったら何か言われるかもしれない。


 まあ、たとえ何かお咎めがあったとしても構わない。俺が全部受け入れよう。


 別にいいよ、それくらい。

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