第3章 メンテナンス
第3章(1)
メンテナンス。その言葉を聞いて最初に思いついたのはなぜか健康診断だった。
健康診断は学校などでも行われる行事の一つである。去年まで高校に通っていた俺も毎年年度の初めに強制的に検査されていた。俺はたまに引っかかる程度だったが、いろいろな項目で引っかかり、眼科、耳鼻科、歯科など、ありとあらゆる医者にかかるように言われる人もいる。ちゃんと行ったという証明のために診断書を学校に提出しなければならないのでサボることもできず、その年に治したからといって次の年にはまた引っかかることも多く、医者の無限ループに陥ることもあった。
それはさておき、なぜこんな話になってしまったかというと、今日が本部に設置された装置のメンテナンス日だからである。
どんな高度なシステムにもメンテナンスというものは欠かせない。小さな綻びだからといって無視して使っていたら、いつかそれが大きな惨事に繋がることだってある。あとになって、あのときメンテナンスを怠っていなければ、と後悔しても遅いのだ。大きな災いを防ぐためには面倒だけれどやらなければならない。
人間の体を調べる健康診断と機械の調子を診るメンテナンス。やることは違えど、根本的な発想は同じようなものなのではないだろうか。
とは言っても、今日のメンテナンスのほうは具体的に何をするのか行ってみないとわからない。なんたって組織に入って初めてのメンテナンス日なのだ。知らないのは当然だ。まあ、説明を聞いても理解できないだろうけど。
俺は小さくため息をつき、吊革を掴んだまま辺りを見回した。
通勤時間帯となる朝のこの時間の車内はとても混雑していて、隣の人との間隔が非常に狭く、苦痛だ。
だが俺の場合、職場と家がそれほど離れていないおかげで乗車時間が短い。
よって、こんな感じで電車が大きなカーブに入って体に遠心力がかかっても全然平気……じゃない。ダメだこれ、潰される。
どうせすぐだし、気を紛らわすために別のことを考えよう。そういえば、遠心力と慣性力って何か違うんだっけ? っていうか慣性力って何だっけ? ……ほら、もう次の駅が降りる駅だ。
押し出されるように電車から降りて、俺は本部がある建物に向かって歩き出した。
その途中、節原とばったり遭遇した。彼女も電車通勤だということは聞いていたが、こうやって通勤中に会うのは初めてだった。
「おはよー、賢次君。相変わらず眠そうな顔してるね」
ほのかに香水の香りを漂わせた節原は笑顔で人の顔をつついてくる。それに関しては無視を決め込んで、俺は別の話を振った。
「それより今日のメンテナンスって何やるか知ってるか?」
「ううん。何も聞いてないよ。でも、私たちはどうせ誰でもできるようなことを手伝わされるだけでしょ。雑用よ、雑用」
「それはそうなんだけどさ」
彼女の言うように、何かやると言っても俺たちの仕事はどっちみち雑務であることは間違いないだろう。健康診断は医者でないとできないように、メンテナンス作業は技術者でなければできないのだ。もしいきなりお前がやれとか言われても、うろたえるだけなのは十分わかっている。
でも、俺が気になっているのはそういうことではなかった。
「なんかメンテナンスっていうと大変そうなイメージがあるんだよな。システムを一時的に止めたりとかしてさ」
「確かに、私がよく見るサイトもたまにメンテナンスがあって少しの間使えなくなったりすることがあるけど」
「そう。それみたいな感じだ。だけど俺たちの仕事の場合、ちょっとの間でもシステムが停止してたらやばいんじゃないのか? その隙に時間退行能力を使われたりしたら」
俺の危惧している点はまさにそこだった。
メンテナンスが重要であることは間違いないが、その時間というのは危険な時間帯でもあるのではないか。俺たちが知らないだけで、実は今日という日は組織にとって大変なリスクを負う日なのかもしれないのだ。
「まあ、そうかもしれないね」
「心配じゃないのか?」
節原がどうでもいいというようなあっさりとした調子で答えるので、俺の口調は少し強めになってしまった。
それでも、彼女はそっぽを向いたままぼやくように答える。
「だって私たちが心配したところで何かできるわけじゃないし」
珍しく弱気だったが言ってることは真実だった。技術者でない俺たちが不安に思ったところで何かができるわけではない。悔しいがそれはどうしようもないことだ。
でも、節原ならこういうとき、ポジティブに明るく返してくれると思っていた。だからこの反応は正直言って予想外だ。
「そういえば、最近来るの早くなったよな? 今日だってだいぶ時間に余裕があるし」
ネガティブな彼女を見ているのは何となく落ち着かなかったので、俺は思い切って話を変えた。
少しの沈黙を経て、節原が呟く。
「……秘訣を発見したからね。早く来る秘訣」
「秘訣?」
「うん。そのおかげで私は早く通勤できるようになったってわけ。気になる?」
秘訣があると言われると、何だか気になってしょうがない。
「気になる。教えてくれ」
「それはね……」
節原は俺と目を合わせないように斜め下を向き、間をおいてためを作る。
そしてくるっと体をこちらに向けたかと思うと、人差し指を俺の目の前に立ててビシッと宣言した。
「何本か早い電車に乗ることだよ!」
「え、えっ?」
脳内の処理が追いつかず、俺は思わず変な声を漏らしてしまう。
そりゃそうだ。電車が遅れでもしない限り、早い時間に乗ればそれだけ早い時間に着く。当たり前のことである。
「どう? この秘訣は?」
節原は呆気にとられる俺の顔をニッコリしながら覗き込む。
「り、理にかなってる……かもしれないな」
「でしょ? ちゃんと原因究明したんだから」
明るくそう言い切る姿はいつもの節原だった。何だかよくわからないが元気になってくれたようなので、ひとまず俺は胸をなでおろした。
そうこうしているうちに俺たちは本部の前まで来ていた。
いつもの通り、まずは中に入って受付の女性と会釈を済ませると、次なる関門を突破するため、鞄にしまってある職員証を取り出した。まずは俺から。
――ピッ。
自動改札機にタッチすると、これまたいつものように俺のやる気のない写真がでかでかと画面に表示され、いかつい警備員がギロッとした目でその写真と俺とを交互に見比べる。
「通っていいぞ」
威圧感のある声で許可が下りた。ここでようやく俺は一息つける。
だが、それも束の間。今度は節原の番だ。自分の番ではないとはいえ、もし何かあって彼女が怒鳴られでもしたらと思うと気が気ではなかった。
ところがそれは杞憂だった。
「ゲンさん、今日も朝早くから大変ですね。私なんてこの時間に来るのもやっとなのに。いつもながら尊敬しちゃいますよ」
「ハッハッハ。相変わらず潮子ちゃんはお世辞がうまいな」
「お世辞じゃないですよ。本心ですって」
節原が「いやだなー」といった調子で笑いながら、同じく表情を緩めている警備員の左腕をバシバシと叩いている。
えっ、いや、ちょっと待て。今、何が起こっている?
目の前に広がっているあまりに突飛な出来事に、俺は目をこすっていた。
いつも怖い顔をしているあの警備員にもこんなフレンドリーな一面があったのか。ていうか名前、ゲンさんっていうのか。それより節原、お前はどうやってこの人とこんなに仲良くなったんだ?
続々と浮かび上がる事実や疑問にあたふたしているうちに、節原は彼との会話を終え、楽しそうな表情のままこちらに歩いてきた。
「ゲンさん、面白い人だよね。話しやすいし」
どうやら彼女は本当にそう思っているようだ。しかし、彼のことをそのように捉えている人間はなかなかいないだろう。前に世良とこの警備員(ゲンさんというらしい。本名はわからない)の話になったが、やはり出てきた感想は「怖い」だった。
でも、それが彼女にとっては「面白くて話しやすい人」になってしまう。組織にいる男性陣の多くを虜にしていることはわかっていたが、まさか警備員まで手なずけているとは。
節原潮子、恐るべしである。
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