第3章(5)

 昼休みを挟んで、俺は再び資料の山と対峙した。


 一応、午前中に比べればその数も減っている……ということはなく、むしろ新たに追加された分もあって増えていた。本当に今日中に処理し切れるのだろうか。


 チェックを終えた側からまた次の資料が積まれていく。そんなゴールの見えない作業を、焦燥と不安とちょっとの苛立ちを抱えながらこなしていった。


 節原は相変わらず手際よく作業していた。他の人よりも早くチェックが終わるので新たに追加されるペースも早いのだが、それに臆することなく着々と手を進めている。確実に二人分の仕事はこなしているだろう。


 その隣の世良はもう見るからに集中力が落ちていた。昼前の時点でだいぶだれていたが、午後になっても繰り返される単純作業にうんざりしているようだ。頭を掻きながら「あー」だの「うー」だのぼやいている。


 そして真面目な空岡はというと、やはり作業の速度はそれほどではないものの、手は止めずに着実に仕事を進めている。この分だとトータルでは世良の仕事量を上回りそうだ。『ウサギとカメ』に代表されるように、昔話の類いでも最後に笑うのは空岡みたいな亀タイプなのである。


 ただ、個人的には空岡には甲羅ではなくウサ耳をつけて欲しい。……ダメだ、確実に俺も集中力が切れている。


 何か違う仕事はないだろうか。同じ作業を繰り返すというのはどうも疲れるので、何か俺にもできる別の労働を与えて欲しい。


 誰に願ったわけでもなかったのだが、その悲痛な心の叫びはある人物をここに呼び寄せた。


「誰か一人、私の仕事を手伝ってくれない?」


 現れたのは知的な眼鏡女子の雨谷である。さすがに先輩には頼みづらいのだろう、彼女の視線は俺たち四人に向けられていた。


 これはチャンス。俺は反射的に手を上げていた。


「俺がやるよ」

「ありがとう。じゃあこっちに来てもらえる?」


 雨谷に誘導され、俺は席を立つ。俺の前に置かれていたやりかけの仕事は空岡が代わりにやってくれるらしい。ありがとう、空岡。


 一方で、恨めしそうにこちらを見ていたのは世良である。ハンカチがあったら噛み締めそうな顔で俺を睨んでいる。自分ももう少し早く手を上げていれば、という後悔があるのだろうが、こういうのは早い者勝ちだ。悪いな、世良。


 俺は勝ち誇った表情をあまり表に出さないように気をつけながら、さっさと彼らのもとを去り、雨谷の後について行った。


 彼女に案内された場所は、普段彼女が仕事をする際に使っている机の前だった。そこにはデスクトップパソコンが一台置かれていて、机の上にはモニターが三つも並んでいる。彼女はいつもここで現場を回る俺たちと連絡を取ったり、観測システムに使われるプログラムを書いたりしているのである。


「隣の席の人、今日は座らないみたいだからそこに座っちゃって」


 雨谷が空いた席を指差した。机にはいろいろとものが散らかっていてすぐにでも人が戻ってきそうだったが、彼女がそう言うのだから間違いないのだろう。俺は言われた通りに使わせてもらうことにした。


「失礼します」


 本人には届かないと知りつつも、一応断りを入れてから座る。椅子は背もたれがしっかりとしていて座り心地が良く、長時間座っていても疲れなさそうだった。技官たちは下手したら一日中ここに座っていなければならないので椅子にはこだわりがあるのだろう。


「それで仕事なんだけど」


 雨谷は鞄の中からノートパソコンを取り出した。華やかさと知的さが備わった、ピンク色のメタリックなデザイン。彼女の私物だろうか。


「ここにあるデータを打ち込んで欲しいのよ。あとで本部に提出しないといけないから。できるだけ正確にお願いね。私も最後に確認はするけど」


 ドサッと紙の山が置かれる。その一枚一枚にびっしりと数字や文字が並んでいた。


「これ、全部か?」

「できるところまででいいわよ。それとパソコンの中のファイルはあまり見ないでね。仕事用に支給されたパソコンだから変なものは入れてないけど、いろいろと見られるのは恥ずかしいから」


 雨谷はうっすらと笑みを浮かべた。


「わかってるよ。もう少し俺を信用してくれ」


 そりゃ、多少気にはなるが、さすがに勝手に漁ったりはしない。


「そう。ならいいけど」


 さほど気に留める様子もなく、彼女はさっさと自分の目の前にあるパソコンのキーボードを叩き始めていた。


 請け負ってしまった以上、やるしかない。俺も覚悟を決め、データの入力作業を開始した。


 ――カタカタカタカタ、カタカタカタカタ。


 お互いに無言のまま、ただ目の前にある仕事に集中する。


 しかし、三十分もすると何だか目がかすんできた。何と言っても今日は目を酷使しており、仕事が変わったからといって別にそれが回復するわけではない。ダメージは蓄積されているのだ。


 ショボショボする目をこすりながら、それでもサボるわけにはいかないので食らいつくようにパソコンと向き合っていた。


 するとその様子を見ていたのか、雨谷がサッと目薬を差し出してきた。


「それ使って。よく効くから」


 容器には『目のかすみ、疲れに』と大きく書かれていた。おお、これはまさしく今必要としているものだ。


 俺はすぐに受け取り一、二滴さした。じゅわっと目に潤いが広がる。良い感じだ。


「ありがとう。常備してあるのか?」

「私の仕事、目が疲れるから必須なのよ」


 納得だ。雨谷は一日の大半をパソコンの前で過ごしている。となれば、当然目のほうの負担も大きくなるのだ。


「大変だよな」

「まあ、慣れれば何とかなるものよ」


 雨谷はこちらをほとんど見ることなく答えた。


 せっかく会話が発生したのだからこの機会にいろいろと訊いておきたい。ここしかない、と俺は間を置かずに質問した。


「そういえば、雨谷は何でこの仕事を選んだんだ? スカウトか何かか?」

「スカウト……。まあそうね。そんな感じだわ」


 そう返事をする彼女は相変わらず目の前の自分の仕事に夢中なようだった。


 忙しそうだし真剣には取り合ってくれないかもしれないなと諦めかけていたら、意外にも彼女は詳細を事細かに語ってくれた。


「私ね、高二の頃、プログラミングの大会に出たの。簡単なアルゴリズムの問題だったんだけど、一番早く解けた人には賞金が出るっていうからチャレンジしてみたわけ。そうしたら何とか優勝できてお金ももらえたんだけど、大会が終わった後、帰ろうとしたらあの人が私のところに来たの」

「あの人?」

「分部さんよ。どうやら大会のほうも彼が裏で手を引いていたみたいね。後から知ったけど、大会を主催していた組織も出鱈目だったみたいだし。時間退行観測庁という存在は隠した上で、誰か優秀な人がいないか探してたんだと思う」

「長官ならいかにもそういう手を使いそうだな」


 良い人材を引き入れるためなら手段を選ばない。お金だっていくらでも使うだろうし、どこへだって出向く。悪口を言うわけではないが、分部はそういう人間だと思う。


「時間退行のことも長官から聞いたのか?」

「そうよ。最初に知り合ったときにはその出鱈目な組織の代表を名乗ってて、それから何度か会ううちに、この世界で時間退行が可能であることやそれを止めるための組織として時間退行観測庁というものがあることを教えてくれたの。もちろん、初めは人間が過去に戻れるなんて信じられなかったけど、実際に本部を見学させてもらったりして本当なのだと感じるようになったわ。だから、半信半疑ながらもここで働くことを決めたわけ」

「そこは俺と似てるな。俺もこの本部の設備とか真剣に働く人たちとかを見てドッキリではないって思うようになったし。だけど、意外だったな。雨谷ならもっと確証を持ってこの組織に入ったかと思ったのに」

「そんな確証があったら私が時間退行の謎を解明してるわよ」


 雨谷は自嘲気味に笑った。言われてみればそうかもしれない。そういえば、鳥飼も「わからないからここにいる」って言っていたっけ。


 ――未だ誰にもわからない時間退行の謎、か。


 データを打ち込みながら、俺は先ほどの世良たちとの会話の中で出てきた斬新な説を思い出していた。


 あの仮説、頭の良い雨谷はどう思うのだろうか。


 まあ、きっぱりと否定されるかもしれない。でも、雨谷ならはなから馬鹿にしたりはしないだろう。却下するにしても、しっかりと話を聞いた上で彼女なりの意見をくれるはずだ。ならば話してみる価値はありそうである。


「そういや、時間退行について一つ聞いて欲しい説があるんだが」


 前置きした上で、俺は彼女に対して真面目に遺伝子説を提唱してみた。


「さっき世良たちと話してたときに、人間の体の中に何か時間退行を可能にする遺伝子みたいなものがあるんじゃないかって説が出たんだ。物事の得意不得意が遺伝子によって決まるみたいに、時間退行にも何かそれに関係する遺伝子があるっていう考えなんだけどさ。だから、人間が過去に戻る能力を手に入れたのも、何らかの生物学的変化が起こって時間退行遺伝子が体の中に備わったからみたいな話で……」


 俺が解説を続ける中、雨谷は左手でキーボードを打ちながら右手を顎の辺りに当てて静かに考え込んでいた。


 もしかしたら、俺の頭の悪さが露呈しているかもしれない。喋っていて段々自信がなくなった俺は、「雨谷から見れば幼稚な考えかもしれないけど」と付け加えた。


 すると、彼女は即座にそれを否定した。


「そんなことないわ。なかなか面白い考えよ」


 沈黙が破られ、今度は雨谷が意見を言う番になる。


「子供の頃の私はね、もし人間が時間退行をできるようになるのだとしたらそれは機械の力によるものだと思ってたの。SFでよくあるじゃない? 何か大掛かりな装置を使って過去に戻るっていう話。その印象が強かったのかもしれない。だから、まさか人間が体一つで時間退行できる未来が来るとは思ってなかった。そもそも、時間退行ができるようになるってこと自体に否定的だったわ」

「俺もタイムマシンとかそういうのが出てくる話は好きだったけど、人間自体に過去に戻る能力が備わるなんて想像してなかったな」


 そういう妄想じみたことは人よりも数多くしてきた自信がある。


 それでも、この現実の世界で起こっていることが一番現実離れしていた。誰かが発明したタイムマシンを使って、というほうがよっぽど現実的だ。


 何も道具を使わずにただ強く願えば過去に戻れる、なんて昔の自分に言っても絶対信じてもらえないだろう。


「能力……ね」


 俺が昔の妄想について振り返っていると、雨谷はいつになく神妙な面持ちで呟いていた。


「どうかしたか?」

「私、思うんだけど、これって……」


 きっぱりと言い切ることの多い雨谷にしては珍しく歯切れが悪い。いったい、何を言おうとしているのだろうか。俺は彼女のほうに目を向ける。



 能力っていうより病気に似てる。過去に戻りたい病。



 その声は遠くから聞こえた気がした。広くて誰もいない遥か遠くの世界。


 他人の意思が介在しないその世界において、彼女は一人、虚空を見つめて先ほどの台詞を言い放った。


 誰の意見もいらない、というはっきりとした拒絶の意思を持って。


「……そういう考え方もあるんだな」


 俺はそう返すのが精一杯で、それ以降何も言葉を発することができなかった。正直言って怖かったのだ。彼女からこのような恐ろしさを感じたのは初めてだった。


 俺たちの話はそこで強制的に終了となり、それぞれ目の前に残っていた仕事に戻る。


 再開して最初のうちは先ほどの雨谷の言葉と表情が頭から離れなかったが、淡々と仕事をこなしているうちにそれらは徐々に消えていった。


 これでいい。これでいいのだ。彼女は意見されることに明確な拒絶を示した。すなわち、それは必要ないということだ。賛同も否定もしなくていいならしない。彼女がいったい何を考えているかなんて勘ぐったりせず、ただ受け流してしまえばいい。


 彼女がそれを望むなら、そうするしかないだろう。


「作業中の者も一旦作業を止めて欲しい」


 それからまたしばらく時間が経ってふいに勢野の声がした。


 俺は手を止め、大きなスーパーコンピューターの脇に立つ彼女のほうを向く。


「今からコンピュータ本体のメンテナンスに入る。全員集合してくれ」


 いよいよ山場が来たらしい。主任の命令が下ると、室内はガタガタと慌ただしくなった。皆、近くにある資料やら何やらを一旦片付け、彼女のもとへと移動を始める。


「悪い。結局最後まで終わらなかった」

「全然いいわよ。あとは私がやるから」


 椅子を回してこちらを向いた雨谷は穏やかに微笑んだ。久しぶりの会話だ。先ほどの怖さはもうなかった。


「それより、早く行きましょう。のんびりとしてると怒られるわ」

「そうだな」


 ただでさえ怖い主任が気を張って待っている。早く行かねばなるまい。


「間庭君」


 片づけを終え、一歩踏み出しかけた俺は雨谷の呼びかけに立ち止まる。


「その……今日はありがとね」


 喧噪の中、彼女は小さな声で照れくさそうに言った。


「どういたしまして」


 こちらとしても何だか恥ずかしくなって、返事と同時に逃げるように立ち去る。


 こんな感謝を受ける権利は俺にはない。せっかく任された簡単な仕事すら終わらせることができなかったのだから。

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