第3章(4)
昼飯であるカップラーメンの蓋を半分ほど開けた。その中に沸騰したお湯を入れていき、蓋を閉め、上におもり(割り箸。ちょっと重さが足りない)を乗せる。容器と蓋の間に微妙に隙間があるが気にしない。
誰もいない給湯室。俺は一人チラッと時計を確認し三分を測り始める。
ちょうどそこに鳥飼がやって来た。彼はラーメンを作る俺の後ろを通り過ぎると、奥にある食器棚からティーカップを取り出していた。
「もう昼飯は食べたのか?」
俺はティーバッグのフレーバーをどれにするか思案中の鳥飼に話しかける。
「食べたよ。さっき自分の部屋に戻って作業しながらね」
「何食べたんだ?」
「サンドイッチ。片手で食べられるからね。そのポット、まだお湯入ってる? 使わせてもらっていい?」
彼はアップルティーにするようだ。ティーバッグをカップに入れ、準備が整った状態で待っていた。
「ああ、いいよ」
ポットの前を占領していた俺は少し横にずれて場所を譲る。鳥飼は礼儀正しく「ありがとう」と言うと、すぐにお湯を注ぎ始めた。
――眼鏡が似合いそう。鳥飼の顔を見て、何となく節原の言葉を思い出した。言わ
れてみれば、色白で端正な顔立ちの彼には眼鏡が似合うかもしれない。
しかし、絶対に伊達眼鏡をかけたりするタイプではないだろう。「かければ?」とアドバイスしたところで、「どうして?」とか言われて断られるのがオチだ。
そんな話をするんだったらもっと違ったことを訊くべきである。
「鳥飼はさ、どういう経緯で時間退行観測庁に入ったんだ?」
思い切ってタブーかもしれない話題に踏み込んでみた。眼鏡からの思考のジャンプに我ながら驚くが、訊ける機会は意外と少ないものだ。周りには誰もいないしチャンスであることは間違いない。この際、場所が給湯室であってもいいだろう。
鳥飼は怪訝な顔でこちらを見ていた。質問の真意を探っているようだ。
理由を正直に言うなら、空岡のように訳ありなのかもしれないと思ったから、である。
だが、「お前も訳ありなんだろ?」とはなかなか言いにくいので、質問の理由は伏せたまま、ただちょっと気になっただけ的な雰囲気を出しておくしかなかった。
「僕がこの組織に入ったのは興味があったからだよ」
鳥飼は少しの間考えてそう答えた。
「何に興味を持ったんだ?」
「どうして人間が時間退行能力を身につけたのか、だよ。時間退行観測庁という組織はその謎を解明するのに一番良い場所なんじゃないかと思って入ったんだ」
「なるほどな」
理由としてはありがちだった。就職活動なんかの志望理由でもだいたいみんなそんなふうな言い方をするものである。「御社はこの分野において一番なので……」みたいな。
でも、鳥飼の言っていることが正しいとするならば一つの疑問が浮かぶ。
「じゃあ、ここに入る前から時間退行のことは知ってたってことか?」
やはり鳥飼も訳ありなのか。俺はその疑惑に素早く切り込んだ。すると、彼は何かを察したような顔をしてフフッと笑った。
「間庭君が何でこんな質問をしたかわかった気がするよ。確かに、僕はここで働く前から人間が過去に戻れるようになったことを知っていた。間庭君が気になっているのは、どうやってそれを知り得たのか、なんじゃない?」
ほぼ図星なので、隠すことは諦めて俺は素直に頷いた。鳥飼はそれを見て満足げに言う。
「実はね、去年まで僕はそういう研究をしているところにいたんだ。時間退行のことを知っているのはこの組織だけじゃない。少数だけど、他にもいくつかその事実を認識しているところはあるんだ」
「去年まで、って鳥飼は俺と同い年だったよな? だったら去年っていうと高校生ってことになるんだが」
「そうだけど。高校に通いながら空いた時間に仕事もしてたんだ。何か不思議かい?」
「い、いや……何でもない」
考えてみれば別に不思議ではない。高校生活を送りながら働いているという人は世の中にたくさんいるのだ。鳥飼のように優秀な人間ならば高校生の段階から引く手数多だろう。
まあ、進路希望調査票が白紙だった俺には何も言う権利はない。
鳥飼はアップルティーを片手に休みなく語りを進める。
「もっとも、さっきも言った通り、一番この謎の解明に近いのはこの組織だと思うよ。ここにいればいずれ何かがわかるかもしれない。だから僕はここにいる」
「入るのに何か試験とかなかったのか?」
気になったのでついでに訊いてみた。時間退行観測庁の技官たちは切れ者ぞろいだ。いくら時間退行のことを知っていたってそれだけでは入れてもらえないのではないか。もし入れるのならば俺だって技官として採用されたかもしれない。いや、それは無理か。
「試験らしい試験というのはなかったけど何かのスペシャリストであることは必須条件で、それを満たす人間が集められて選考が行われたんだ。僕や雨谷さんはプログラマーとして見込まれて組織に入ってるんだよ。全然関係ない仕事もやらされてるけどね」
「なるほど。プログラマーか」
頷いてはみたが、そのプログラマーとやらの仕事がどんなものなのかを俺はいまいち理解できていない。
だが少なくとも、観測システムが彼らの仕事のおかげで動いていることは間違いない。あのよくわからない文字の羅列がそれを機能させているのだ。言葉なのだから勉強すればある程度はわかるようになるのかもしれないが、本当に習得しなければならないとなったら気が遠くなりそうである。俺には無理だ。
「雨谷さんのプログラミングの技術は僕よりも上だよ。彼女は小さい頃からプログラムを組んでいたみたいだからね。僕はだいぶ後になってから勉強を始めたせいもあって彼女には到底及ばないよ」
「そういう技術の差ってあるんだな」
当然っちゃ当然だが、俺にはそれすらも理解不能である。
「まあ、一概に測ることはできないけどね。例えば、要件を飲み込むのはもとから時間退行に関する知識がある僕のほうが有利ということもあるし。とにかく、人にはそれぞれ個性ってものがあるのさ。だから、みんなが持っている異なった力をうまく合わせていくことが大事なんだと思うよ」
鳥飼はあくまで平等で優しい物言いをする。
だが、皮肉に捉えようとすれば今の発言だって勝ち組の余裕ある言葉となる。
――だって私たちが心配したところで何かできるわけじゃないし。
今朝の節原の言葉。そう思ってしまうのはある意味正しい反応だ。
それでも、今の鳥飼から軽蔑の感情は伝わってこない。彼は純粋に今自分が言ったことを信じているようだ。
果たして、特別な力がない人間にも何か役に立てることはあるのだろうか。
「それはそうと……」
鳥飼が急に心配そうな声を出した。
「どうした?」
「それ、お湯入れてだいぶ時間が経つみたいだけど大丈夫? もしかしたら、麺が伸びちゃってるんじゃない?」
「……やべぇ」
すっかり忘れていた。一応時計を見たが、確実に五分以上は経っていた。
「その様子だとダメみたいだね。ごめん、もうちょっと早く指摘すれば良かった。お詫びに今度何か奢るよ」
「いや、いいんだ」
これは俺が悪い。誰のせいにもできない。
それにしても、時間退行観測庁という組織で仕事をしていながら三分という時間すら測り損ねるとは。
「本当にごめんね。それじゃ、そろそろ僕はいかないと」
「あっ、最後に一つだけいいか?」
俺は給湯室を出て行きそうになった鳥飼を慌てて呼び止める。彼はピタッと足を止めて振り返った。
「鳥飼は何で人間が過去に戻れるようになったんだと思う?」
これまた答えるのに時間がかかりそうな質問だが、どうしても訊いておきたかったのだ。
しかし、予想に反して返事は早く返ってきた。
「それがわからないからここにいるんだよ」
鳥飼は含み笑いをして再び背を向け、今度こそ本当に給湯室を出て行った。
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