第3章(3)

 目薬でも持ってくれば良かったかもしれない。


 目前に積まれた白い用紙の山を見て、俺は思わずため息をついた。大きな長机の上にはそこかしこに紙の束がある。どこを見ても、紙、紙、紙だ。


 メンテナンスといっても、事務官に回ってくる仕事は限られていた。


 その一つが資料チェックで、指定された箇所を見て何か間違いがないか確認し、見つかったらそれを赤ペンでわかるように指摘していくというものだ。もちろん、どういったものが間違いに含まれるのかは始める前に懇切丁寧に説明を受けた。


 要は間違い探しゲームのようなものである。しかも難易度はそれほど難しいものではなく、このくらいの作業ならおそらく小学生にもできる。


 まあそんなに頭を使う仕事が俺たちに回ってくるはずがないよな、と自嘲しながら山から紙をまた一枚手元に引き寄せる。


 俺と同じく飽き性の世良もやはり同じようなことを考えていたようで、すっかり意気消沈した様子で心情を吐露した。


「勢野さんの説明を聞いたときはどんな仕事が回ってくるのかと思ってたけど、これってただの間違い探しだろ? データの整理とか整合性のチェックとか言うから、なんかもっと複雑な作業をやるのかと思ったのによ」


 ぶつぶつと文句を言う世良は、いかにも面倒くさそうにかけている黒縁の眼鏡を手でずらしたりしながら何とか細かい文字や図を見ようと悪戦苦闘している。


「それは私たちには無理よ。そのデータが必要だとか、このデータには不可解な点があるとかわかんないもん。そういうのは他の人に任せて、とにかく私たちは指示されたことをその通りにやっていくしかないでしょ」


 そう言いながらも、節原はチャカチャカと手を動かしていた。次々に紙を手元に持ってきてはさらっと目を通し、素早くペンを入れ、また次の用紙へと手を伸ばす。


 その作業の速さには、周りで別の仕事をしている先輩たちも舌を巻いていた。「俺が前にあれやったときは倍くらいの時間がかかったぞ」と苦笑いを浮かべている者もいる。


 節原がものすごい事務処理能力を発揮する一方、空岡はどうかいうと、やはり彼女らしく真面目に黙々と仕事をしていた。


 ただ、正直に言って空岡の作業スピードは遅かった。それもそのはず、何といっても彼女の仕事ぶりは実に慎重なのだ。真剣に資料を見つめ、絶対に間違いを見逃さないようにと気をつけているのが傍から見てもわかる。入れられている赤ペンの文字まで丁寧だった。


「もう少し大雑把でもいいんじゃないか?」


 せっかく真面目にやっているのにこんなことを言うのは良くかもしれないが、このままでは評価があまり上がらないだろう。不憫に思った俺はそうアドバイスしてみた。


「えっ? あっ、そうかな。私としてはこれが普通なんだけどね」


 作業に没頭していた空岡はすっかり自分の世界に入っていたようで、俺の呼びかけに驚いた様子で顔を上げると、質問の内容を焦って思い起こすようにしながら答えていた。


「賢次の言う通り、確かにそれは丁寧過ぎだわ。そんなんじゃ日が暮れちゃうぜ」

「でも、明弘君は明弘君で仕事が雑すぎるよ。少しは亜紀ちゃんを見習ったほうがい

いんじゃない?」


 世良がチェック済みにしていた紙を盗み見て、節原は呆れたように述べる。


「俺はこういう細かい作業は苦手なんだよ。目がチカチカするし」

「眼鏡の度が合ってないんじゃないの? ていうかそもそも眼鏡似合わないよね?」

「なっ、それは今は関係ねぇだろうが」


 嘲笑う節原に世良が憤慨する。だいぶ気にしているようだ。


 これは世良と節原による言い争いのお決まりのパターンである。節原が体型のことをいじられるならば、世良は眼鏡が似合っていないことを揶揄される。もちろん本気の喧嘩ではなく、仲の良い二人の漫才のようなものだ。多分。


「眼鏡といえば、辰人君は絶対眼鏡似合うよね。何でかけないのって思うくらい。ほら、伊達眼鏡とかあるでしょ。レンズに度が入ってないやつ。あれをかければいいと思うんだけどな」

「あー、それ、姉貴が使ってるやつだ。これからは眼鏡女子だ、とかわけのわからないこと言ってんだよ」


 愚痴るように呟く世良に、俺はふと気づいて尋ねる。


「お姉さんがいるんだな。知らなかった」

「そういや言ってなかったっけ。今、大学生なんだ。何でも生物学を学んでるらしいが、説明されても俺には理解不能だったな。細胞だの遺伝子だの言われてもさっぱりだ」

「まあ、俺も生物はあんまり得意じゃなかったな」


 生物は、というか理系全般弱かったのだが。あれ、そういえば慣性力って……まあいいや。


「でも、姉貴から聞かされて今でも印象に残ってる話があったな」

「どんな話だよ?」


 俺が問うと、世良は妙に真面目なトーンで言った。


「遺伝子組み換え人間について、だ」

「何だそれ?」


 すぐに訊き返すと、世良は声を低くして説明を始めた。


「遺伝子組み換え食品っていうのがあるだろ? 要はそれの人間バージョンってわけだ。遺伝子を組み替えることによって、何か普通の人間にはない特殊な機能を植え付けることができるらしい。動物なんかではもういろいろと実験してるみたいだぜ」

「あっ、何かのニュースで見たことあるよ。遺伝子操作をしてどの遺伝子にどういう役割があるかとか研究してるんだよね?」

「で、それが何でそれがそんなに印象に残ってるわけ?」


 気がつけば空岡と節原も興味津々な様子で話に参戦していた。


「まあ、そう慌てるなよ。確かに俺も聞いたときにはそれほど強く印象に残ったわけじゃないんだ。でも、今この組織に入って働いてみて、どうもある疑惑が頭を離れなくなってさ」


 世良の表情がさらに本気モードになった。


「何だよ、ある疑惑って?」

「俺たち人間が時間退行能力を身につけたのは、実は遺伝子に何らかの変化があったからなんじゃないか、っていう疑惑だ」


 遺伝子の変化。それによっていったいどんなことが可能になるのかは見当もつかない。


 だけど、遺伝子が変化して過去に戻れるようになるなんてことがあるのだろうか。それこそ漫画やアニメの世界でしか有り得なさそうなことだ。


 でも、この世界において人は時間退行能力なんてものを身につけてしまった。


 だからこそ、世良の言っていることが百パーセント間違いであるとは言い切れなかった。


「これは俺の勝手な想像だ。だから信じなくていい。実際にどんな過程でそれが起こったのかとか訊かれても答えられないからな。だけど、ここ最近になって急に人間が過去に戻れるようになったのは事実なわけだ。だとすると、なんかそういう生物学的な変化があったとしても不思議じゃないだろ? それが誰かによる意図的な操作なのか、あるいは自然に変化したものなのか、そこまではわからないけどよ」


 誰からも反論が出ない。信じるかどうかはともかく、その意見を否定するだけの根拠を誰も持ち合わせていないからだろう。


「その話を聞いてちょっと思ったことがあるんだけど」


 少しの沈黙の後、節原が静かに口を開いた。


「私の弟、陸上やってるんだけどね、短距離走に向いてるか、それとも長距離走に向いてるかって遺伝子レベルで決まっちゃうって説もあるみたいなのよ。何でも、瞬発力にかかわる遺伝子とか、持久力にかかわる遺伝子とかがあるみたいで。だから、時間退行能力にかかわる遺伝子があったとしても有り得ない話じゃないかもしれない。それだったら能力レベルの上がり方に差があるのも遺伝子の違いってことで説明がつくんじゃない?」

「時間退行能力にも才能があるってことか?」


 俺は節原の意見に食いついた。彼女は小さく頷き、さらに持論を展開した。


「そう。もちろん、いくら遺伝子に恵まれててもその他の条件が揃わなければ能力が開花することはなくて、その条件の一つが『過去に戻りたいって強く願うこと』なんじゃない? それ以外にどんなことが必要なのかはわからないけど」


 世良や節原の仮説が正しいのかを判断する術を俺は持っていない。優秀な研究者や技術者たちが必死になって解明しようとしているにもかかわらず未だに謎は解けていないのに、俺が考えたところで急に何かがわかるわけもないのである。


 しかし、たとえわからなくても考えることは続けるべきだ。時間退行観測庁の一員として、現実にある時間退行と向き合っていかなければならないのだから。


「二人ともすごい。私には全然そんな発想できない」

「そんなにすごくないから。私の考えなんて根拠のないただの妄想みたいなものだし。結局はそういうのを理論立てて考えられる頭の良い人たちに任せるしかないのよ」


 感激して褒める空岡に対し、節原はあくまで冷静な態度で答えていた。何だかんだいって彼女はシビアに物事を見ているのかもしれない。


 それと対照的なのは世良だった。


「褒められてるんだから潮子も素直に受け取っとけって。照れてないでさ」


 彼はポンポンと横に座る節原の肩を叩く。


「別に照れてないから。明弘君、楽観的過ぎ」


 そんな世良のことを節原は信じられないといった軽蔑の目で睨み返した。


「い、いや、違うんだ。だからさ、つ、つまり……」


 思わぬ反応に驚いたようで世良はしどろもどろになる。節原はそれを見るや否や笑顔になった。


「冗談だよ! 気にしないで!」


 そう言って今度は彼女のほうが世良の肩をケラケラと笑いながら叩き始めた。恥ずかしくなったのか世良の顔がカアッと赤くなる。


 こいつ、悪魔だ。そんな彼の心の声が聞こえた気がした。

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