第5章(6)
林の中は一段と薄暗く、足場の悪い地面からはあらゆる方向に根が這い出ていて行く手を阻んでいる。俺は転ばないように無我夢中でその中を駆け抜けながら、左腕につけたオブザーバーウォッチを確認した。ランプは緑。近くにはいないらしい。
俺と空岡と節原の三人は林に突入後、すぐに三方に散らばり、お互いに距離を取って捜索を開始した。もし雨谷が林の中に潜んでいた場合に、誰かのオブザーバーウォッチに反応が出るようにするためだ。
もし雨谷がそのまま林を突き抜けたとしても、向こう側には世良と鳥飼がいる。それから本部の人たちもこちらに向かっているはずだ。
もう雨谷は逃げられない。
バッと勢いよく踏み込んだ俺の足が地面に落ちていた小さな枝をポキッと折る。やけにその音が耳に残って、途端に気持ちは動揺した。
逃げられないから何だ? 捕まえて、それで終わりなのか?
もちろんそうではない。俺たちは雨谷を助けようとしているのだ。決して彼女を追い詰めようとしているわけではない。
でも、おそらく雨谷の立場からしたら、俺たちの姿は自分を追い込もうとする鬼のように映っているだろう。俺たちの親切心が彼女にとっては恐怖となっている。
それはきっと、誰とも共有することのできない怖さだ。
オブザーバーウォッチには依然として反応がない。もう少し先か。それとも、この方向にはいないのか。
もし雨谷を見つけたら。
もう彼女は逃げられないと言ったが、正確にはまだ最後の逃げ場がある。
――過去、だ。
時間退行能力がある限り、誰も雨谷に手出しすることはできない。能力は彼女にとって、近づいてくるすべての現実を跳ね返し、自分の理想とする世界を作り上げる唯一の手段なのである。
でも、雨谷自身は本当に時間退行能力をそんなふうに捉えているのだろうか。
思考がそこまで行き着いた途端、俺は彼女が能力について語っているのを聞いたことがあるような気がして急に胸騒ぎがした。いつ、どこでそんな会話をしたんだ。俺の記憶違いだろうか。
いや、違う。
俺はハッとなった。そうだ。あったではないか。メンテナンスの日、世良たちと能力について話し合った後のことだ。雨谷にも意見を求めて、そこで彼女は言っていた。
能力っていうより病気に似てる。過去に戻りたい病。
そのときはわからなかった。
でも、今ならばその言葉が何を意味していたのかが理解できる。
雨谷にとって時間退行能力は、どんなに治そうとしても治らない病気だったのだ。
己の浅はかさが、不甲斐なさが、ただ「走れ」と俺に命令する。説得の仕方なんてわからない。そもそもそんなことをする資格すらないかもしれない。
でも、もう一度彼女に会いたい。そして、今度こそはちゃんと話を聞いてあげたい。
オブザーバーウォッチのランプの色が黄色に変わった。
近くにいる。木々の間をすり抜け、道なき道をがむしゃらに走り回る。
ランプが赤色になる。
もう見える範囲にいるはずだ。俺は立ち止まって辺りの様子に目を凝らす。
「あっ」
高く伸びる木々の隙間からひっそりと立つ女性の後ろ姿が確認できた。脇目も振らず、俺はその方向へ飛び出す。
「……雨谷っ!」
息を切らしながらそう呼びかけた。その人はゆっくりと振り返る。
「来ないで、って言ったでしょう?」
振り向いた女性――雨谷は声を詰まらせながら答えた。眼鏡の奥の瞳からは涙がスーッと流れている。
俺は彼女との距離を少し空けたまま呼びかけを続けた。
「悪いな、来ちゃって。どうしても話がしたくてさ。お兄さんのこととか」
「住職さんからすべて聞いたのね?」
「ああ、聞いた」
今更隠すつもりもないので堂々と答える。
「そう。いずれは知られてしまうと思ったわ。本当は私から話せれば良かったんだけど」
雨谷は悲しそうに顔を背け、長い髪で見えなくした。
「でも、伝えようとしてくれてたんだよな? 俺がバカだから気づけなかったけど、思い返せば雨谷は俺にシグナルを送ってくれていた。俺が受け取ろうとすれば、話を聞くチャンスはいくらでもあったはずだ。話せなかったのは俺のせいだ」
「あなたが謝る必要なんてない。私がすべて悪いのよ。兄さんのこともそう」
「そんなことは……」
言いかけたところで彼女がそれを遮る。
「そんなことはない、って言うつもり? そう思って私を追いかけてきてくれたのなら、あなたたちは本当に優しい人間だわ。でもね、事実って変えられないのよ。私はあなたたちに本当のことを話せなかったし、兄さんは私を守るために死んだ。もしそれらを変えるとしたらその方法は一つしかない」
「時間退行、か」
「ええ。過去に戻ることさえできれば事実を変えられる。『あったこと』を『なかったこと』にすることもできるし、その逆も可能。時間退行能力は不可能を可能にする素晴らしい力なの」
「確かにそうかもしれないが、雨谷はそんなふうには思ってないだろ?」
俺がそう言うと、彼女は面を食らったようにハッとなる。
「前に言ってたのを思い出したんだ。『能力っていうより病気に似てる』ってさ。だから『素晴らしい』なんて、そんなことは思ってないんじゃないか?」
黙って俺の意見を聞いていた雨谷は負けを認めたようにフッと笑い、影のある表情でこちらを見た。
「覚えていたのね。……そうよ。私にとって時間退行能力は悪魔のような存在なの。私がどんなに過去に戻ることを否定しても、耳元で『でも、戻りたいんだろう?』って囁いて惑わせる。私はずっとそんな悪魔と一緒に生きてきた」
淡々と語る雨谷の姿には本当に悪魔が取りついているような気がして、俺は思わずごくりと唾を飲んだ。
「……なんてふうに考えちゃうからレベル5になっちゃったんでしょうね。おそらくだけど、時間退行能力を得る人間はみんな同じような『病』を抱えている気がする。過去に戻りたいと強く願うことは、言い換えれば現実からの逃避。現実を受け入れられない人間が見せる最後のあがきなのよ」
固い表情を崩した雨谷は悟ったように笑う。
現実からの逃避。確かに俺が仕事に就いてから担当した人たちは皆、今ある現実を受け入れられなくて路頭に迷っていた。それをあがきだと言ってしまえばそうなのかもしれない。
だけど、俺は思うのだ。彼ら彼女らは真剣に今を生きようとしている、と。
今を本気で生きたいと願うから、過去にあったことを何度も悔やんだり、やり直したくなったりする。今生きている現実の世界が本当にどうでもいいならば、過去にあったことだってどうでもよくなっているはずだ。
そうじゃないんだ、みんな。だからいろいろと悩んで、時間退行が発生する。
目の前にいる彼女もきっとそうに違いない。
近くでガサガサと人の気配がした。気がつけば本部の人たちが集まって、遠巻きに俺たちの様子を窺っている。その中には空岡たちの姿もあった。皆、心配そうな目でこちらを見ているが、一定の距離を保ったまま誰一人として近づいてこようとはしない。
ひとまずここは俺に任せてくれるということらしい。
雨谷もそのことには気がついているようだ。俺から目を離し、虚ろな視線で周りを気にしている。
それでも、彼女はその場から動こうとはしなかった。
逃げることもなければ、近づくこともない。
雨谷がいて、数メートルの距離に俺がいて、さらに離れた場所にみんながいる。このもどかしい距離感が現状をよく表していた。
「お兄さんの話を聞かせてくれないか? 内容は何でもいい。どんな人だったとか、こんな思い出があるとか」
だからといってこのまま停滞しているわけにはいかない。俺はその溝を埋めるべく、一か八かで核となる部分に迫る。
「兄の話……ね。そういえば私、兄さんのことを周りの人にほとんど話さなくなった。亡くなったあの日から」
「話してくれないか?」
「……いいわ。本当はいろいろ話したかったんだもの。存在を消したままにしておくわけにはいかない」
首を縦に振り、雨谷は弱々しく語り出した。
「兄さんはね、いつも笑顔でいる人だった。私たちの両親は共働きだったから小さい頃から二人で過ごす時間が長くて、よく一緒に家でゲームとかして遊んでたわ。最初は私のほうが下手なんだけど、競い合っているうちにだんだんと兄さんよりもうまくなったりして、それが嬉しかったのを覚えてる。それから、外でもよく遊んだ。こっちは何をやっても兄さんのほうが上手だったわ。体力もあるし、足も速いし、器用だし。私なんか相手にしてても退屈だっただろうけど、兄さんは一度たりとも文句を言ったりしなかった。本当に楽しそうに笑うの。だから私も楽しかった」
雨谷は部屋にあった写真に写る少女のような顔つきで笑った。
でも、どこか決定的に違う。あの日の笑顔はもう戻っては来ない。
「優しいお兄さんだったんだな」
「ええ。優しくて、勇敢だった。私が生まれたときから持っていた大切なぬいぐるみを川に落としたときは危険を顧みずに川に入って取って来てくれたし、一緒にボール遊びしててよその家にボールが入っちゃったときは私の代わりに前に出て謝ってくれた。兄さんは本当に私のことを何度となく助けてくれたのよ。本当に……何度も」
目で見てわかるほどに雨谷の体は震えていた。力強く握った右手はやり場もなく胸の辺りまで上げられ、彼女はその手をじっと見つめながら呟く。
「……あの日もそう」
事故があった日。
そのとき何があったのかはもはや雨谷にしかわからない。
雨谷にとっては二度と思い出したくない記憶だろう。話が進んでいくにつれて苦しそうな表情になるその姿から、事故の痛ましさや悲しみがありありと伝わってくる。
どうしてこんなことになってしまったのか。なぜ自分だけが生きているのか。深く体に刻み込まれた後悔と罪の意識が心の檻となって彼女のことを支配していた。
「雨谷……辛かったら、もう」
見ていられなくなって堪らず呼びかけた。
「お願い、話させて」
嗚咽し、声も枯れているが、それでも彼女は続行を志願した。
「……わかった」
そうなれば、俺も了承するしかなかった。
彼女は定められた残酷なシナリオをなぞっていく。
「あの日も、私と兄さんは一緒だった。休みの日で、『買い物にでも行こうか?』って誘われて、電車で近くのデパートまで行くことになった。当時、中学生になったばかりで欲しいものがいっぱいあった私は喜んでついて行ったわ。その浮かれ気分がいけなかったんでしょうね。帰り道、私は車が来ていることに気づかず、道路に飛び出してしまった。そこからのことはよく覚えてなくて、ただ兄さんに腕を強く引っ張られた感覚だけは今でも生々しく残ってる。私の体は勢いよく道路の外に引っ張り出されて、そのまま転んで何回転かしてちょっとの間意識を失った。次に目が覚めたときには道路に大勢の人が集まっていて、まだ夢の中にいるみたいだった。それでも、次第に意識がはっきりして周りの声が聞き取れるようになって、兄さんが轢かれたことがわかった。そして、さらに追い打ちをかけるようにこんな声が聞こえてきた」
雨谷の声が冷たく抑揚のない声に変わる。
「『お兄ちゃんのほうが勝手に飛び出して轢かれたらしい』」
ついに、話は絶望的なラストへと展開する。
「それを聞いた瞬間、私はすべてを理解した。兄さんが私の身代わりになって轢かれ、さらにそのことは誰にも知られていないのだということを。もし、私があの場ですぐに『先に飛び出したのは自分だ』と叫んでいたら真実は公になっていたでしょうね。でも、私は言い出せなかった。そこで私は呪いをかけられたの。一生解けない呪い。決して消えることのない罪。もうどうすることもできないと思った。だけど、一つだけ方法があった」
突然、ものすごい轟音とともに強風が吹き荒れる。雨谷を中心に発生した竜巻のような風は林の中を瞬く間に広がっていき、高々と成長した木々の枝があまりの突風にバキバキと音を立てて折れていった。
周囲からはキャーッと悲鳴が上がった。折れた太い枝がドサッと地面に落ちてくる。それらをかわしながら、皆飛ばされないよう、必死に近くの木に掴まり立っていた。
彼女の一番近くにいた俺は今にも体を後ろに持って行かれそうだったが、ここで吹き飛ばされたら終わりだと、何とか強風に耐えながら前を向く。
「ダメだ! やめろっ!」
この現象は……。
耳が痛くなるようなものすごい轟音とともに雨谷の周りの空間は歪み始めた。足元の枝葉は一気に舞い上がり、彼方へ吹き飛んでいく。
――時間退行能力が発動してしまう。
俺は全身全霊の力で踏ん張りながら、もう一度最大限の声を出す。
「雨谷、ダメだ! やめろっ!」
しかし、彼女は一向に能力の使用をやめる気配はなかった。
どうする。気絶させればいいなら、殴ってでも止めるか。
でも、もはや近づくことすらできない。
それに、それではまた同じことを繰り返すだけだ。やはり説得して止めなければ。
だが、何を、どんな言葉をかけてあげればいい。
もう時間はなかった。
――これがラストチャンスだ。
「雨谷っ! 聞こえるか!」
呼びかけると彼女は反応を見せた。それを確認し、俺は説得を試みる。
「どうしてもお前に言いたいことが、聞いて欲しいことがあるんだ!」
雨谷が泣いているのが見える。彼女は止めて欲しいと願っているに違いない。
俺に使える言葉。残念ながらそんなものは限られている。
感動的な名台詞も、神がかった名言も、俺の口からは出てこない。
ならば、自らが受け取ってきた言葉で勝負するしかない!
最後の力を振り絞り、俺は今までの人生で培ってきたものを全力で放つ。
「確かに過去の罪は消えてなくならないかもしれない。それはお前がこれから先、ずっと背負っていかなければならないものかもしれない。でもな、償うのは未来なんだ! これからなんだよ! これから先、どうするかでそれが問われるんだ。今、お前がやろうとしていることは償いじゃない。そうだろ? わかったらやめてくれ!」
小学生のとき、教えられたこと。
『過去の罪は消えてなくならない。でも、償うことはできる。それをするのは未来だから』
これだよ、雨谷。お前のしなければならないことは「償い」なんだ。
過去を変え、罪を消すことは、贖罪とは似ても似つかぬ行為だ。
……本当は、気づいてるんだろう?
徐々に風がおさまり、能力が弱まっていくのが感じられた。時空の歪みの中心にいた雨谷は慟哭し、そのまま前に倒れそうになった。
俺は息も絶え絶えに腕を伸ばし、すんでのところで彼女を抱き抱える。
「私、これからどうすればいいんだろう」
ぐったりとした雨谷は弱々しい声で泣いていた。内に溜め込んでいた感情をすべて放出したのだろう、空っぽの抜け殻のような状態で柔らかな笑顔を作っている。
俺はそんな彼女を安心させるために一言、こう声をかけた。
大丈夫だ。どんな未来でも生きていける。
(了)
時の観測者 遥石 幸 @yuki_03
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