第5章(5)
雑木林に囲まれた千雲寺は独特の薄暗さを身に纏い、人々が暮らす街の片隅にひっそりと建っていた。まるで結界が張られていて外からの光や音が届きにくくなっているのではないかと思うほど、静かで鬱蒼とした空間がこの寺の周辺には広がっている。
千雲寺の住職は俺たちの到着を待ちわびていたかのように、門をくぐったところに立って待っていた。
「雨谷寧々さんの知り合いの方だね?」
年齢は六十歳くらいだろうか。面長な顔をした住職はこちらが緊張しているのがわかったようで、温かい笑みを浮かべ話しかけてくれた。
「さあさあ、私についてきてくれ」
住職はゆっくりとした足取りで前を歩く。境内の様子を窺いながら、俺たち五人も静かにその後についていった。
「これが
墓と墓の間を通っていき、奥のほうに雨谷の兄――雨谷勇樹の墓はあった。こじんまりとしているが丁寧に掃除された跡があって、彼のことを想う人が今でも頻繁に墓参りに訪れていることが窺える。
「勇樹君はみんなに慕われていたみたいでね、学校の友達が今でもよくここに来るんだよ。それからご両親もね。寧々さんも去年までは週に一度は来ていたけど、最近は仕事で忙しくなったみたいでここ何か月かは顔を見てないな。元気にしてるのかい?」
答えることができず、俺たちは口を閉ざす。
「まあ、君たちみたいな良い友達がいるんだし、心配せんでもいいのかもしれんな」
しかし、住職はそれ以上深く問いただすことなく、墓のほうを見つめた。
「勇樹君と寧々さんは本当に仲の良い兄妹だったようで、彼女はこの墓に来るたびに長い祈りを捧げているよ。いろいろと後悔があるんだろうな」
いなくなって初めてわかることがある。誰もがいつかはいなくなるのに、それまではいることが「普通」だったからいなくなるという可能性を考えない。いなくなったときに初めてその人の存在の大きさを感じるというのは往々にしてあることだ。
雨谷もきっとそうだったのだろう。いつも自分の前にいて、いるのが当然だと思っていた兄が、ある日突然交通事故で亡くなって帰らぬ人となってしまった。そこで初めて彼の大切さに気づき、後悔している。
だからそれが過去に戻りたい理由なのだろう、とそう思っていた。
だが、次の住職の言葉により、真相はもっと複雑であることが明らかになる。
「何せ、お兄さんに身代わりになって死なれてしまったんだから」
一瞬、悪い冗談かと思った。
まるで悪戯な風が吹いて身につけていたものがヒューッと飛ばされるように、俺の頭の中にあった推理は瞬く間にどこかへ吹き飛ぶ。
「身代わりってどういうことですか?」
俺の隣でそう尋ねる節原の表情はいつになく強張っていた。
住職はそんな彼女や俺たちの顔を順番に見て、後悔したように言った。
「あれっ、君たちは知らなかったのか? なら、余計なことを言ってしまったかな」
「いいえ、話してください、住職さん。寧々ちゃんを、雨谷寧々さんを救うためにはどうしても必要な情報なんです」
節原の「救う」という言葉を聞いて、住職の目つきは鋭いものに変わった。何かよからぬ事態に陥っていることは間違いなく悟られてしまっただろう。
だが、それは仕方がない。本当に一刻を争う緊急事態なのだ。細かいことにこだわっている場合ではない。
住職はしばらくの間考え込んでいたが、真剣な訴えが通じたのか、「わかった。話そう」と承諾し、目を細めて雨谷との出会いを語り始めた。
「私が寧々さんに初めて会ったのは彼女が中学生のときだ。勇樹君が亡くなってここに埋葬された当初、彼女はほとんど毎日のようにこの墓を訪れていた。両親と一緒のこともあったが、たいていは一人だった。ここに来ると、随分と長いこと佇んでいるんだよ。じっと墓を見つめている彼女の姿はやけに印象に残った。その目がね、何とも言い表せない愁いを感じさせたんだ。ただの悲しいとは違う。何か怒りや憎しみをも飲み込んだような深い深い目だった。私はそんな彼女のことがだんだんと気がかりになって話しかけるようになった。彼女は自分のことをあまり話す人間ではなかったからなかなか打ち解けられなかったが、それでも何度も話すうちに少しずつ会話が続くようになっていった」
一呼吸おき、住職の表情にふと影が差す。
「そしてある日、私は寧々さんの口からそのことを聞いた」
彼は目の前の墓を見つめたまま話を続けた。
「その日も彼女は墓の前にいた。私はそっと近づき、『いつも来るのは大変だろう?』と訊いたんだ。彼女には彼女の生活というものがあるだろうし、無理をしてまで来る必要はないんだよ、という意味を込めて言ったつもりだった。だが、彼女の反応は思わしくなかった。大きく首を振って私にこう言ったんだ。『私は兄に呪いをかけられたんです』ってね」
呪い、という言葉に体がゾクッと震えた。そんな台詞を言う雨谷というのが想像できなかったからだ。
「私は驚いたよ。すぐに『呪いってなんだい?』と尋ねたんだ。そうしたら彼女は話してくれた。決して消えることのない呪いの正体を」
住職の口から、痛ましい事故の中に隠された本当の真実が語られる。
「勇樹君が交通事故で亡くなったということはそのときの私もすでに知っていた。だけど私が聞かされていたのは、彼が一人で道路に飛び出し、車に轢かれたという話だった。その事実は間違いではなかったが、そこに至るまでの経緯に大きな誤りが隠されていたんだ」
「誤り、ですか?」
俺の問いに、住職は小さく頷く。
「先に飛び出そうとしたのは寧々さんのほうだったんだよ。勇樹君は慌ててそれを止めようとして、逆に自分が道路のほうへ躍り出てしまい、轢かれたんだ。運転手もそこまでは見てなかったらしく、彼ら兄妹の他に目撃者となりそうな人がその場には誰もいなかったから、その事故は『勇樹君の不注意による事故』ということで片づけられたそうだ。彼女は本当のことを誰にも言うことができず、一人でその罪を背負ったまま生きていた。私が彼女の目に感じた『愁い』とはそういうことだったわけだ」
俺たちはしばらく茫然としていた。語られた真実があまりに重く、悲しいもので、受け入れるのに時間がかかった。
雨谷の部屋でのことが思い出される。
あのとき、俺は少しだけ真実に近づいたのだろう。交通事故で亡くなった兄の存在。それを彼女は話してくれた。
だが、俺はそれ以上踏み込まなかった。
いや、踏み込まなかったどころか俺はあの部屋から逃げてしまった。
それは雨谷がその話をするのが辛そうだったから。そう言ってしまえば聞こえはいい。
でも、本当にそうなのだろうか。俺が単に聞くのを拒否しただけで、彼女は勇気を出して真相を俺に話そうとしてくれたのではないか。
それを聞いていれば、こんなことにはならなかったのではないか。
「私、寧々さんのことをちっとも知らなかった。かっこいいとか、頼りになるとか、そういう目でしか見てなかったと思う。でも、あるんだよね、悲しい過去が誰にでも。ずっと憧れてばかりで、私は何も……」
空岡が自分の不甲斐なさに耐え切れなくなり泣き出した。抱きかかえるようにして彼女の背中をさする節原の目にも涙がこぼれている。
ようやくわかった真実は俺たちに無力さを痛感させた。
――どうして、大切なことは何も見ることができないんだろう。
胸が締めつけられ、思わず天を仰いだそのとき、遠くのほうから砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。俺はそちらにふと顔を向ける。
角を曲がって姿を現したのは……。
「雨谷っ!」
俺はほとんど無意識のうちに叫んでいた。下を向いて歩いていた女性がパッと顔を上げる。
そこにいたのは紛れもなく行方のわからなかった雨谷だった。
彼女の手に抱えられていた仏花がバサッと地面に落ちる。
「ダメっ! 来ないで!」
身を引き裂くような悲鳴が上がった。駆け寄ろうとした俺たちは足を止める。
「それ以上近づいたら時間退行能力を使うから!」
雨谷は必死の形相で手を前に出し、そう警告する。
どうする? 無理にでも飛び込むか? この距離なら能力を使われる前に……。
だが、たとえ今、時間退行を引き起こす前に彼女を捕まえられたとしても、彼女は過去に戻れるということを知っている。無理やり止めたところで意味がない。何度だって能力を使おうとするはずだ。
やはり、説得する以外に方法は……。
「その場から動かないで!」
考えている間に雨谷はもう一度強く注意し、一瞬の隙をつくように俺たちに背を向け、雑木林のほうへ走り出してしまった。
「待ってくれ!」
叫んだが、彼女は止まらない。
やがて、彼女の姿は林の中に入って見えなくなった。
「早く追いかけようぜ!」
すぐさま世良が皆に同意を求めると、鳥飼はそれに頷きつつ住職のほうを向く。
「あの林の向こう側まではどのくらい距離がありますか?」
「だいたい一キロだ。反対側は街の中に繋がっている」
「ありがとうございます」
答えを聞いた鳥飼はお礼を言って、今度は俺たちのほうに顔を向ける。
「よし、じゃあ手分けして追うことにしよう。世良君と僕は車で先回りして反対側から彼女を捜す。君たち三人はこちら側から追いかけてくれ。もしかしたらどこかに隠れているかもしれないから、オブザーバーウォッチのアプリを起動して慎重に捜索して欲しい」
「本部の観測システムがやられてるみたいだけど、オブザーバーウォッチは使えるのか?」
俺は左手首につけた時計を指差しながら問う。
「うん、大丈夫だよ。オブザーバーウォッチは非常時のときには本部の観測システムとの連携を解いて、それ単独で時空の歪みをサーチするように切り替わるんだ。……本来はこんなふうに使われるための機能じゃないんだけどね」
悔しそうに手を握り締める鳥飼。同じ技官として雨谷に対して思うところがあるのだろう。それでも冷静さを失わず、適格な指示で各自の動き方を定めていく。
「もし彼女を見つけても無理に捕まえたりせずに様子を見ること。彼女を発見したことは今から僕が本部に連絡するからすぐに応援が来ると思う。それまでくれぐれも無茶な行動はとらないように」
「君たち」
そんな俺たちのやり取りを側で黙って見ていた住職は、こちらを見回して深く頭を下げた。
「私には何が何だかわからないが、どうか寧々さんのことを守ってやって欲しい。彼女はきっと助けを待っているはずだ」
「任せてください。僕たちが必ず彼女を救い出します」
住職を安心させるように、鳥飼が自らの胸を叩いて宣言する。
俺はそれに同調しながらも、心の中ではまだ大きな迷いを抱えていた。
果たして、俺は雨谷に手を差し伸べる資格があるのだろうか。
何もしてあげられなかった自分が、今になって「救い出す」なんて許されるのだろうか。
「みんな、行くぞ!」
世良が声を上げ、走り出していた。他の三人も後に続いている。
……でも、雨谷はずっと待っていたんだ。いつか誰かが助けに来てくれるのを。
それなら、行くしかない。彼女が逃げ込んだ雑木林を見つめ、俺も力強く一歩を蹴り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます