第5章(4)

 片側三車線の大通りを俺たちの車はハイスピードで駆け抜けていく。運転する世良の後ろに座った俺からは彼の顔が見えなかったが、その運転はいつもよりやや荒っぽく、早く着きたいと焦っているのがわかる。


 助手席に座る鳥飼はノートパソコンを広げ、熱心に画面を見つめている。本部のデータベースにアクセスして情報を集めるつもりらしい。アクセスしていることは後で知られてしまうらしいが、「どちらにせよ今回の事件に参加しているのがばれるのは時間の問題だろうし」と彼は開き直って作業に当たっていた。


「どう? 何かわかりそう?」


 鳥飼の後ろの席に座る節原が身を乗り出すようにして声をかける。


「あまり有益な情報はなさそうだね。本部のほうもだいぶ苦戦しているみたいだ。雨谷さんの時間退行能力のレベルは依然として5のままだし、このままだといつ彼女が過去に戻ったとしても不思議じゃない」

「一つ、訊いてもいい?」


 今度は後部座席の真ん中に座る空岡がちょこんと右手を挙げた。


「……変な質問かもしれないけど、時間退行が起こる瞬間ってどんな感じになるの? 時空の歪みが発生する仕組みとかよくわかってないから、どういうふうに過去に戻るのかが想像できなくて」

「それ、私も知りたい。辰人君、どうなの?」


 質問を受けた鳥飼は顎に手を当てて少し考えてから丁寧に説明を始めた。


「まず、時空の歪みについて簡単に話そうか。僕たちがレベルを測るときに使っている『時空の歪み』は自然発生的なもので、厳密に言うとすべての人間が微量ながらそれを発生させてるんだ。だけど、普通の状態ではレベルは0って認定される。その度合いが異常なほど大きくなったときに、初めて時間退行能力の保持者として処理されることになるんだ。その中で最も危険なのがレベル5。現段階の区分だと、レベル5は本人の意思でいつでも過去に戻ることができるということになっている。もちろんこの世界で時間退行が可能なことを知っている人は限られてるから、本人の意思とはいっても半ば暴走気味に発動するんだろうね。僕は直接その場面に居合わせたことないんだけど、今にも時間退行が起こるってときにはその場の時空が歪むのが『目に見える』っていう話だよ」

「目に見える?」


 節原が首を傾げると、鳥飼は神妙な面持ちで頷く。


「何でも、爆音とともに目の前の光景が歪み始めるらしい。実際に時間退行しそうなところを見た人が言うには、幻覚でも見てるんじゃないかって気分になるそうだ」

「どうしてそんなギリギリになるまでそのターゲットを放っといたんだよ? 誰かがもっと注意してればそんなことにはならないだろっ!」


 今回の件と重なる部分を感じたのか、世良は苛立たしげに声を荒げた。


「数年前まではそういう例も何件かあったんだ。仕方ないよ。今ほど設備もマニュアルもしっかりしてなかったからね」

「数年前までは……か」


 俺は鳥飼の言葉を思わず反芻する。


 監視体制が万全となった今、時間退行がいつでも可能なレベル5に到達する者はほとんどいなくなった。数年前のその例のように、時間退行が起こる寸前までいってしまうというのは今では考えにくいのだろう。だったら……。


 ――誰かがもっと注意してればそんなことにはならないだろっ!


 そうだよな。まったくその通りだ。


 何が「監視体制は万全」だ。一番身近にいたはずの雨谷の異変にさえ誰も気がつかなかったではないか。


 人間とはそういうものだ、と片付けてしまえば簡単かもしれない。


 いくら技術が発達しても、人の心は、感情は、読み取ることができなくて、それは今まで育ってきた環境や境遇が違うから無理もない。


 そんなことは誰だって理解している。


 結局、人は本当の意味でわかり合うことはできない。どんなに親しくなっても、相手が考えること、感じていること、そのすべてを察してあげることはできない。


 そんなことは言われなくたって百も承知だ。



 だけど……いや、だからこそ、わかろうとすることが大切なのではないか。



「寧々さんは何で過去に戻りたいって思ってるんだろう?」


 車内が静まり返る中、空岡は心悲しげに呟いた。


 雨谷はどうして過去に戻ろうとしているのか。そうだ、それを考えなければならない。


 手掛かりはないものか。短い時間とはいえ、三か月間も一緒に働いていたのだから何か思いついてもいいはずだ。


 けれど、秘密というのはそれぞれがたくさん持っているものだ。秘密にしておくのも良くないかなと思いつつも周りには全然話せない。そんなことはいくらでもある。


 ……秘密にしておくのも、良くない?


『秘密にしておくのもなかったことにするみたいであまり良くないでしょ?』


 突然、ビビッと電流が流れるような感覚に襲われた。


 そうだ。雨谷は言っていたではないか。システムのメンテナンスを行った日、彼女の部屋で。


「俺、理由がわかったかもしれない」


 誰も答えようとしない先生からの難題に答えるように、俺は心臓をドキドキさせながら片手を挙げた。


「おい、マジかよ?」

「せ、世良君、前っ!」


 運転している世良がハンドルを握ったまま振り向きそうになったので、助手席の鳥飼が慌てて叫んだ。


 車はほんの一瞬だけ横に揺れ、体が浮いた心地がしたが、また平常運転に戻る。


「悪い。つい、反応しちまった。で、理由がわかったって本当か?」

「多分な。少なくとも過去に戻りたい理由としては十分なはずだ」


 雨谷の部屋に飾られていた写真。彼女がいかに兄と仲が良かったのかが一目見ただけでわかるような温かい笑顔の溢れる一枚。いつまでも一緒にいられるような二人。


 でも、今はもう一緒に写真に写ることはできない。なぜなら……。


「雨谷の兄が交通事故で亡くなったって話、知ってるか?」


 俺は全員の反応を窺う。どうやら初耳なようだ。


「前に雨谷の部屋に入ったときに彼女から直接聞いたんだ。雨谷が中学に上がった頃に亡くなったらしい。事故の詳しい状況までは訊けなかったけど」


 兄の死。それがどれだけ彼女を苦しめただろうか。


 ある日突然この世からいなくなってしまう。それはどの人間にも起こり得ることで、周りの友達や家族はそうならないだろうと思っていたとしても、悲運の矢が飛んできて当たってしまうことはある。不条理だ、と嘆いても帰ってはこない。


 でも、もし不可逆な時間の流れというものを巻き戻せるとしたら。


 この世に存在するあらゆる不条理を消し去ることができるとしたら。


 きっと誰だってその方法に縋ろうとするに違いない。


「なるほどね。だから、『事故が起きる前に戻ってお兄さんを救う』ってことか。確かに可能性としては十分に考えられるね。雨谷さんはそのために用意周到に準備をしてきて、今それを実行しようとしているのかもしれない」

「でも、そうだとしたら何で寧々ちゃんはまだ能力を使ってないの? レベル5になったらすぐにでも過去に戻れるんでしょ?」

「それはきっとあれだろ。ほら、葛藤ってやつだ。過去に戻りたいっていう強い想いもあるけど、能力を使ってはダメだっていう良心も残ってるだろうからさ」

「私も世良君の言う通りだと思う。寧々さんはきっと迷ってるんだよ。能力を使っていいのかどうか」


 それぞれの考えが行き交う。何とかして雨谷のことを理解したいとみんなが思っている。


「もし仮に僕たちの推測が正しいとして、そのときに雨谷さんはどこに向かうだろう? 何でもいい。思いついたらどんどん言ってみてくれ」


 鳥飼が推理をさらに発展させるために意見を募った。


 その後、いくつか案が出たが、結論がまとまるまでにそれほど時間はかからなかった。


 ――兄の墓。それで全員の意見が一致した。


 そうと決まれば行ってみようということで、鳥飼がすぐに雨谷の実家近くの墓の場所をパソコンで調べ上げ、順番に連絡を入れて特定した。手馴れているとはいえ、彼のその一連の動きには一切の無駄がなかった。


 雨谷の兄の墓は千雲寺せんうんじというお寺の中にあるらしい。そこは彼女の実家からそれほど離れていない場所にある、広大な雑木林に囲まれた歴史あるお寺のようだ。


 雨谷の実家に近づいていた俺たちの車は行き先を寺へと切り替える。そもそも実家は本部の人たちが先に占拠しているだろうからどちらにせよ入れなかったのだ。躊躇いはない。


 本部が「兄の墓」という候補に気づいた可能性は十分にあるだろう。けれど、彼らは数ある選択肢をすべて潰していかなければならないので、そこまで手が回っていないということも考えられる。


 とにかく、俺たちは俺たちが選んだ道を進むだけだ。


 後部座席の窓から外を眺めると、そこには自分の知らない街の景色が流れていた。お世辞にも都会とは言えない、かといってものすごく田舎というわけでもない、どこにでもありそうな家や店が並ぶ普通の街並みだ。


 でも、この何でもないような街の中で、一人の人間が「過去に戻りたい」と本気で悩んでいるとしたら……。


 そう思うと、先ほどまで何でもないと感じていた街が、途端に何か重大な秘密を隠しているように見えてきた。

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