第2章 通りすがりの者
第2章(1)
今日は目覚ましが鳴ると同時に目が覚めた。
普段は朝が弱いのだが今日は二度寝をしそうにもならず、ベッドからすんなりと脱出することに成功した。四月に一人暮らしを始めてから一か月余り、遅刻だけはしないようにと早めに目覚ましをセットしているが、その分だけ二度寝をしてしまうためほとんど意味がない。
実家にいた頃は目覚ましをかけるまでもなく起きることができていた。というより、起きざるを得なかったのである。父親も母親も二つ下の妹もみんな朝型の人間で、「朝飯は全員揃って食べる」を家訓としていた我が家では強制的に朝早く起きる環境が作られていたのだ。
だから、一人暮らしを始めてすぐの頃は驚いた。ガタガタと誰かが物音も立てることもないのでいつまでも寝てしまうのだ。まったく環境というものは恐ろしい。
それにしても、朝の目覚めが良いとなぜだか一日がうまくいく気がするものだ。当然、今日これから何が起こるのかをすべて予測することはできない。もしかしたらものすごくアンラッキーなことが起こってしまう可能性だってあり得るのだ。行く先々の信号がすべて赤とか、せっかく行列に並んだのに目の前で商品が売り切れるとか、宇宙人か何かが襲来して都市が侵略されるとか。何が起こるかわからない。
それでも、やはり気分はいい。
ちなみに、宇宙人といえば中学生の頃、俺(と数人の友人)はあるとんでもない妄想を膨らませていたことがあった。実は周りにいる人間の一部が宇宙人とすり替わっていて、いずれはこの星を乗っ取ろうとしているというものだ。この手の妄想は小学生のうちに卒業しておけば良かったのだが、それを逃してしまった俺(と以下数人の者共)は小学生のときにはなかった中途半端な知識や知恵を使って『宇宙人判別システム』なるものを編み出した。
そのシステムというのは……やめておこう。これ以上思い出したくない。
とにかく、その宇宙人判別システムを使って目の前にいる人間が本物かどうかを判断するというような馬鹿げたことをしていたわけである。結果的にドン引きされて俺たちが宇宙人のような扱いを受けたが。
そんな中学時代を過ごしたから、高校生になってからはそういう変な妄想は控えるようになった。できるだけ普通に、変な言動や目立つ行動はしないように。振り返ってみると、それはそれで宇宙人が周りに溶け込もうとしているような状態にも思えるが、当時の俺はそんなことは思いもせず、ただひたすら普通であることに細心の注意を払っていた。
しかし、そう簡単に妄想というものはやめられないものである。気がついたら現実離れしたことを頭の中で考えているし、そういったことが起こって欲しいと願ってしまったりもする。
現に今だって、アンラッキーなことの中に宇宙人の襲来を入れてしまったのだ。妄想を捨てきれていない証拠である。
ただ、今の自分を取り巻く現状は昔とは少し違う。
――すべての人間に過去に戻る能力が備わっていて、それを止めるための組織に属している。
まさに子供の妄想のような出来事が、今現実に起こっている。誰に話したら信じてくれるだろうか。毎日、世界の危機が訪れる中、俺たちだけがその事実を知っていて日々それに立ち向かっているということを。
今日も俺は満員電車にゆらゆら揺られながら通勤し、もじもじしながら受付のお姉さんと挨拶を交わして、おどおどしながら鬼の形相をした警備員のチェックをかいくぐる。
至るところに莫大な経費がかかっているであろうこの建物。ピッカピカの床は当然のごとく大理石。この一流企業にも引けを取らないような絢爛さと厳格さも緊張を促す要因かもしれない。
そして、大きな両開きの扉を開けた先には今日も忙しそうに働く頭の良さそうな人々。やはりこれは現実なのだと思い知らされるいつもの光景だ。
その中に、眼鏡をかけた知的な女性を発見した。大人っぽいロングの髪を真ん中で分けていておでこが広く見えている。その女性は目の前のパソコンの画面を見つめながら、カタカタと文字を入力していた。意味のわからない文字の羅列だが、これによって時空の歪みを検出したり、能力の発動者を特定したりしているのだ。不思議である。
「大変そうだな。昨日も徹夜か?」
「ええ。でも、大丈夫よ」
こちらを一瞬見て、また画面のほうに目を戻す。
彼女は同期の
それでいて派手でないのがいい、というのは世良の意見である。自分の容姿を自慢げに見せつけたりせず、真摯に仕事に打ち込む姿。それが彼にとっては魅力的なようだ。
「それよりあなたのほうが眠そうだけど」
素早くキーボードを叩きながら雨谷が言う。
「そんなことはないんだけどな」
目覚めすっきりの今日が「眠そう」なら、俺はもうその印象から抜け出すことができないだろう。一生、眠そうな人間として生きていくしかない。
「そういや、鳥飼は?」
俺は周りを見渡しても姿の見えない彼について尋ねる。
「さっき仕事を終えて、仮眠をとってると思う。その質問、今日二度目なんだけど」
「一度目は?」
「あの子よ」
椅子を回転させて左後ろのほうを向いた雨谷は、クイっと顎で指し示した。
「ああ、節原か。今日は早いな」
その方角には空岡と楽しそうに談笑する節原がいた。よく見ると彼女は菓子パンか何かを美味しそうに頬張っている。朝食か、それともおやつ的な感じなのか。
いや、そんなことよりも。
「ここって飲食オーケーだっけ?」
素朴な疑問が頭に浮かぶ。俺の問いに雨谷は呆れ顔で答えた。
「別に良いんじゃない? ただ、あまりパソコンの側では食べないで欲しいけど」
それはそうだ。コンピュータのあるところで飲み食いして何かこぼされたりしたらたまったもんじゃない。もしそれで故障して、観測ができない間に誰かが過去を改変してこの世界が消滅してしまったら、これ以上ないくらい間抜けな世界滅亡である。
「そろそろいいかしら? 仕事に戻らないと」
「ああ、邪魔して悪かった」
あまり彼女の手を止めておくわけにはいかない。雨谷は優秀な人材なのだ。俺とは比べ物にならないほどに。
俺が静かにその場を去ると、彼女は再び真剣な表情をしてパソコンと向き合っていた。
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