第4章(2)

 空岡たちが本部を離れてから一時間後、耳をつんざくような二度目の警報音が鳴った。指令室の後方で事務仕事をしていた俺と世良は顔を見合わせる。一日に二度は組織に入って初めてのことだった。


「主任っ! た、大変です!」

「慌てるな。どうした?」


 勢野はうろたえる若い女性技官を低い声で落ち着かせる。


「レベル4が現れました」


 その技官は青ざめた表情で告げた。


 レベル4。かつてはその発生も珍しくなかったと聞いている。今のように緻密な監視体制が整ったのはここ二、三年のことなのだ。それよりも前はまさに綱渡り状態らしい。当時はまだレベルが低い人間に構っている余裕はなく、レベル4、レベル5になった人間に間一髪で接触し、過去に戻るのを止めてきたそうだ。


 突然発生した時間退行能力に対して研究はなかなか追いつかない。そうこうしている間にも、どんどん時間退行可能になる人間は増えていってしまう。時は待ってくれないのだ。


 それでも必死にやってきたおかげで、何とか時間退行を阻止しながら、なおかつこれだけの監視体制を整えることに成功したのである。


 ただ、観測システムも万能ではない。研究者や技術者の意見を取り入れ、常に改良を重ねながら進化はしているが、それでも高レベルの時間退行能力者は生まれてしまう。


 確かに俺がここに入ってからはレベル4以上の発生はなかった。しかし、それはほんのひとときの平和に過ぎなかったということである。


「特定はできたか?」


 職人のように集中し切った顔でパソコンに向かっているのはベテラン男性技官の差波。勢野に声をかけられると、静かに頷き、返事をする。


「はい。ターゲットの名前は豊田とよだトキ。八十一歳。女性」

「やはり来たか」

「そのようです。しばらくレベル2で推移していたのがここ一日でレベルが二段階上昇。まさかここまで上がるとは。本当に仰る通りでした。さすが主任です」


 差波は驚きの声を上げながら勢野を称賛していた。理由はわからなかったが、言葉を聞く限り、あらかじめレベル4の発生が予想できていたような口ぶりだ。


 今日はもう一つ来る。勢野が言ったその「予言」は単なる直感ではなく、具体的な根拠があったということだろうか。


「今、豊田さんは病院か?」

「はい。時空の歪みの発生地点を見る限り、現在地は病院で間違いないと思います。最期を家で迎えるという可能性もあるので、引き続き移動がないか監視します」

「頼んだ。レベルの変化からも目を離さないでくれ」


 差波に要請する勢野はどこか悲しみを帯びた表情をしていた。どうやら何か深い事情があるようだ。


 しかし、彼女はすぐにいつもの主任としての厳しい顔に戻り、俺たちのほうに近寄ってきた。


「間庭、世良。ちょっと込み入った話がある。落ち着いて聞いてくれ」

「何ですか、込み入った話って? それより、すぐにでもターゲットのもとへ向かったほうがいいんじゃないですか? あれ、レベル4なんでしょう?」


 世良は情報が徐々に開示されている大型モニターのほうを指差しながら、落ち着かない様子で訊き返す。


「慌てるな。大事な話だ。心して聞いて欲しい」


 勢野はそう諭すと、重い口調で話し出した。


「今回のターゲット、豊田トキさんの余命はあと数日だ。癌が体中に転移していて、もう現代の医療の力では手の施しようがないらしい」


 俺と世良は同時に言葉を失う。


「……どうしようもないんですか?」


 やっと発することのできた声に、勢野はコクリと頷いた。


「実は二週間くらい前から、私と数人の技官で彼女のことを追っていた。そのときにはすでに余命宣告をされて彼女は病院に入院していて、家族や親戚、友人たちと最後の時間を過ごし始めていた」


 勢野の話には疑問点がいくつかあった。だが、余命数日という抗えない絶対的な事実を前にすると、それらを問うべきか迷ってしまう。


 しかし、勢野はそんなことはお見通しなようで、すっかり押し黙ってしまった俺たちの心情を汲み取るように説明を続ける。


「二週間もあったのになぜその間にお前らを派遣しなかったのか、と思っているだろう。確かに時間退行能力の面だけで見れば豊田さんは危険度が高かった。いつレベルが上がってもおかしくない状況だったのは間違いない。しかし、そこで我々が介入するということは彼女の最後の貴重な時間を奪うことになる。だから、できる限り接触せずに様子を見ようということになった」


 きっとその決断をするまでにはいろいろと苦悩があったのだろう。言葉の一つ一つからそれが伝わってくる。


 時間退行が起きれば世界が危機に陥る可能性もあるが、一人の人間が大切な命を失いかけているのも事実なのだ。


 しかも、それは絶対に避けられない。


「だが、レベル4となればそうは言っていられない」

「……直接話を聞きに行くってことですか?」

「そうだ。お前と世良の二人で行ってもらう」


 戸惑う俺たちに勢野はなおも続ける。


「大丈夫だ。本人や親族に話を聞く手筈はすでに整えてある。こういう事態を想定して、状況が許す限りで準備はしてきたのだ。あとはお前らが病院に行って話を聞き、豊田さんが過去に戻りたい原因を探るだけだ」

「でも、親族や友人が集まって最後の時間を過ごしている中に俺たちが構わず入っていくっていうのは……」


 今度は世良が躊躇ったが、そんな俺たちを勢野は真っ直ぐな台詞で導こうとする。


「仕方がないことだ。それが我々の仕事なのだから。辛い任務だとは思うが頼む」


 実際は彼女だって心が痛んでいるに違いない。できれば介入しないようにしたいと考えていたからこそ、これまでずっと近づかずに様子を見てきたのだ。


 それでも、今は時間退行観測庁の主任として任務を遂行することを決意したのである。


 そのような重い覚悟を背負っている彼女の姿を見ると、俺も世良も「行けない」とは言えないのだった。


「主任。こちらを彼らに」


 俺たちが命令を受理するとすぐ、先ほどまでパソコンの前にいた差波がこちらへ駆け寄って来た。


「ありがとう。ご苦労だった」


 勢野は労をねぎらい、差し出された紙を受け取った。


「今まで得た情報はすべてこれにまとめておいた。病院に行くまでの間に目を通しておいて欲しい。それから、何かあったらすぐに本部に連絡をしろ。勝手な行動はするなよ。いいな」


 主任から文字や写真がびっしりと載った資料が手渡される。俺は頷きながらそれに少しだけ目をやった。


 ――豊田トキ。レベル4。余命数日。


 目に飛び込んでくる単語が頭の中でぐるぐると渦巻いていく。それらと今から向き合うのだ。単なる言葉ではない。現実だ。


 そして、たとえこの任務が成功しても、最後には避けようのない「終わり」が待っている。


 そんな仕事に俺たちは取りかかろうとしていた。

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