第4章(3)
病院の内部は人で溢れていた。受付で待たされてイライラしている中年の男、あっちこっちの部屋を慌ただしく出たり入ったりする若い看護師、車椅子に乗るボーっとした顔のおじいさんとそれを押すひどく腰の曲がったおばあさん。
明るく綺麗な病院の内装とどこか陰鬱とした人々の表情が歪な形で混ざり合っていた。
そもそも病院というのは楽しい場所ではない。病気や怪我をしている人間が集まっているのだからそんなに陽気な雰囲気であるはずがない。
だけど、もう少し明るい未来を感じられるような空間にならないだろうか。
そんなことを考えていたら、点滴をしたまま車椅子で移動する小さな少女がこちらに手を振ってくれた。俺と世良が手を振り返すと、少女は笑顔になって俺たちとすれ違っていった。
彼女の病気については何も知らないが、早く良くなって欲しいと願った。
「えーっと、トキさんの病室は四階だったよな? 何号室だっけ?」
「四一二号室」
俺は本部を出る前にもらった資料を見ながら一歩前を歩く世良に伝える。
「じゃあ、とにかく病室の前まで行ってみるとするか。どんな様子かは知らんが行けば何とかなるだろ。後のことは成行きに任せようぜ」
「随分と場当たり的だな。どういうふうに話を切り出すか、とかちゃんと計画を練っておいたほうが良くないか?」
「そうかもしれねぇけどさ……」
世良は茶色く染めたロン毛をガシガシと掻きむしる。
「なんか考えれば考えるほど気が進まなくなるんだよな。どうしてもそっとしておきたいって気持ちが強くなるわけよ。だから、早く行って終わらせたいって思っちゃってさ。……焦っちゃダメだよな。しっかり計画を立ててから行かないと」
「まあ、焦る気持ちはわかるよ」
俺だってできることなら行きたくない。命のタイムリミットが迫る中、知り合いでもなんでもない俺たちが大切な時間を浪費してしまうのは心が痛んでならない。だから世良の言うことにはものすごく共感できた。
でも、時間退行は絶対に止めなければならないのだ。
「計画って言っても、そんな具体的に考えられるわけじゃないけど」
そう前置きして俺は一つ提案する。
「今の豊田さんの望みが、そのまま過去に戻りたい理由に繋がってる可能性は高いと思うんだ。だから、彼女の最後のお願いを叶えてあげるということにすれば、話も聞きやすいし、時間退行も阻止できるんじゃないか」
「……なるほど」
「恩着せがましいかもしれないけどな」
実際、最後のお願いを叶えてあげる、なんて図々しいにもほどがある。
俺たちが知る必要があるのは過去に戻りたい理由であって、それさえわかれば必ずしも願いを成就させなければならないということはない。むしろ下手に協力すると過去への想いを強くしてしまうかもしれないので危険である。
願いを叶えることと時間退行を止めることはイコールとは限らない。
それでも、世良は自分に言い聞かせるように何度も大きく頷いていた。
「いや、すげぇよ、賢次。そう考えればだいぶ気も楽だ。そうか。俺たちはトキさんのお願いを叶えるために行く」
俺の言っていることが都合の良い解釈であることは、きっと彼だってわかっているはずだ。
けれども、本当に願いを叶えてあげられるならば自分たちの介入も許される気がする。
「よっしゃ! じゃあ願いの内容を聞きに行こうぜ!」
世良は大袈裟にニカッと笑って前を向き、ずんずんとエレベーターのほうへ歩き始めた。
そうだな、と呟きながら俺もそのあとについて行った。
空元気、なのかもしれない。前を行く世良の大きな後ろ姿は頼もしくも見えるが、どこか無理しているようにも見える。
それでも明るく振舞おうとするのは、自分たちが訪ねたことでトキさんの気持ちを沈ませたくないからだろう。死が待っているのだから悲しいのは当たり前である。だけど、せめて最後は有意義で楽しい時間を過ごして欲しい。
そんな思いが、世良と俺に刹那的な元気を与えていた。
俺たちが四一二号室に辿り着くと、病室のドアは開いていた。室内にはベッドで横になるおばあさんと、その横の椅子に座り、おばあさんの顔を覗き込むようにして話しかけている初老の女性がいた。
深呼吸をした世良が、勇気を出して声をかける。
「あの、すみません。俺たち、豊田トキさんに話を伺いに来たんですが」
椅子に座っていた女性がパッと振り返り、「あらっ」と声を発した。
「あなたたちがそうなのですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ。今、椅子を準備しますから」
「いえ、俺たちは立ったままで大丈夫です」
壁際に置かれていた椅子を出そうとする彼女を世良が慌てて止める。
「そうですか……」
その女性は静かに呟き、再び椅子に腰かけた。
「えーっと、最初に伺っておきたいんですが、あなたは豊田トキさんの……」
「はい。娘の
世良が相手に言わせる形で尋ねると、彼女はゆっくりとした口調で答えた。その所作や喋り方からは気品が感じられる。先ほどの資料には彼女のことも書かれていた。
豊田真理恵。トキさんの長女で、年齢は五十六歳。現在は専業主婦で、旦那さんと息子二人、それからトキさんの五人で暮らしている。トキさんはご主人を四年前に亡くし、一人になった彼女を真理恵さんが受け入れたそうだ。家庭内のトラブルは特になかったようで、その線での能力の発動は考えにくい。まあ、これはあくまで見かけ上の話ではあるが。
「あの、私はここにいてもいいのでしょうか?」
真理恵さんは心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「構いませんよ。そのまま座っていてください。そんなにお手間は取らせませんので」
俺は慌てずに回答する。信用を得るためにも、受け入れられそうな要求は素直にのむのが鉄則だ。
「ありがとうございます」
彼女は深く丁寧なお辞儀をした。それに対し、俺たちも「こちらこそいきなり来てしまってすみません」と頭を下げる。
そのとき、近くからフフッと笑う声がした。
「みんなでぺこぺこ頭を下げ合っちゃって。何だか可笑しいねえ」
トキさんの声だった。ベッドに寝ていた彼女は柔らかい目つきでこちらを見ていた。
「話を聞きに来るって言ったからどんな人が来るのかと思ったら、こんなに若い子が来るなんて。こりゃあ、ちゃんとお化粧をしておくべきだったよ」
「まあ、お母さんったらそんなことを」
明るい二人分の笑顔が浮かぶ。笑っている彼女らは本当に仲の良い親子なのだと感じだ。
「いくつになっても綺麗に見られたいなんてしょうがないねえ。そこのお二人さん、もっと顔をよく見せておくれ。話があるんだろう?」
トキさんにそう言われ、俺たちはベッドのすぐ側まで移動した。
改めて上から見下ろすように彼女のことを見ると、顔や体は骨ばっていて肉がほとんどついておらず、腕などは折れそうなくらい細い。その弱々しい姿からも余命数日という現実が嫌というほど伝わってくる。
だが、そんな現実などないかのようにトキさんは楽しげに話しかけてきた。
「それで、何を訊きたいんだい?」
「あっ、いや、それはですねー」
さすがに本人を前にすると言い出しにくいのだろう。世良が困ったような顔で俺のほうを見る。
病室に入るときには先陣を切ってもらったし、今度は俺の番か。
俺は世良に自分が訊くという合図をし、トキさんに向かってゆっくりと質問した。
「今、欲しいものとかありませんか?」
「欲しいものかい?」
トキさんはとぼけた口調で返事をした。
「はい。やりたいこととかでもいいんですけど」
「そう言われてもねえ、この年になると特にそういうものもないんだよ」
言わないだけなのか、それとも本当にないのか。いずれにしても、そう答えられてしまうと先の展開に困る。
悩んでいると、真理恵さんが先ほどの発言に突っ込んだ。
「でも、お母さん、男の人には今でも良く見られたいんでしょう?」
「そういえばそうだった。欲しいものは『若さ』だねえ、きっと」
「いやいや、トキさんは今でも十分若いですって」
「もう、いやだねえ。そんなに褒めないでおくれよ」
世良の突っ込みも入り、場は大いに盛り上がっていく。
それは結構なことだったが、肝心な話はなかなか進展しなかった。
とはいえ、この賑やかな雰囲気を壊したくもなかったので、ゆったりと話を続けながら真相を探っていく方向に切り替えた。
そして、一時間ほど経過した頃、いよいよ過去に戻りたい理由に繋がるかもしれない話が始まった。
きっかけは歌だった。トキさんは歌が上手だという話になり、いろいろと昔の歌を歌い出したのである。
ちなみに、なぜ歌がうまいという話が出てきたのかというと、その前に踊りがうまいという話が出たのがきっかけで、ではなぜ踊りがうまいという話が出てきたのかというと……何でだったか思い出せない。まあいいだろう。
とにかくトキさんは本当に歌がうまかった。そして、何より歌が好きなのだということがよく伝わってきた。太陽の光を浴びた花のような笑顔。歌っている今この瞬間が最高に幸せなのだとわかる。
そんな感じで勢いづいてきて何曲も歌っていたトキさんだったが、ある曲を歌い出したところで急に表情を曇らせ歌うのをやめてしまった。
「これはやっぱり思い出せないねえ」
はあ、とため息をつき、がっかりした様子で項垂れる。気になった俺はすぐに「どうしたんですか?」と尋ねると、トキさんは悲しそうに笑った。
「この歌はどうしても出だしの部分しか出てこなくて。聴けば思い出せるんだろうけど、何しろ曲の名前もわからないからどうしようもなくてねえ」
「いつ頃の歌ですか?」
「どうなんだろうね。私がまだ若かった頃、家の近くの公園でこの歌を歌ってる男の人がいて、それで覚えたんだよ。本当にいい歌だった。私が歌を好きになったきっかけでね。その人は私なんかよりもよっぽど歌が上手だった。でも、どこの誰かもわからないし、年月が流れるうちに会わなくなっちゃって。それ以来、何度もその人が歌っていた歌を思い出そうとしてるんだけどダメでねえ。何とか死ぬ前にもう一度聴いてみたいよ」
……もしかして、それが「理由」なのか。
世良も同じ事を考えたようだ。あっ、と口を開けて俺と目を合わせた。
可能性はある。ここは大胆に訊いてみることにした。
「例えば過去に戻れるとしたら、その歌を聴きに行きたいですか?」
「そんなことが可能なのかい?」
トキさんは目を見開いてそう言った。
「あっ、いや……」
「いいんだよ。無理なことはわかってるんだ。でも、そうだねえ、あの頃に戻れたらぜひ聴いてみたいよ」
首を小さく横に振ったトキさんは寂しそうな目で語った。
「そうですか……」
俺は次の言葉に迷った。実は過去に戻れるということはもちろん言えないし、過去に戻りたい理由が明らかになった今、これ以上何かを言うのは逆に危険だった。変に期待を持たせれば、時間退行能力がレベル5に到達することも考えられる。任務を優先するなら、ここは何も言わずに一旦退いて作戦を練り直すべきだろう。
だが、このまま黙って退散してもいいのだろうか。理由がわかったからといって、トキさんを悲しい気持ちにさせたままにしてもいいのだろうか。
それは何か違う気がした。たとえ任務が大事であろうと。
「俺たちが調べてみます。過去に戻ることはできませんが、当時のことを調べることは今でもできます。どれだけ情報が集められるかはわかりませんが、もしかしたらその歌の手掛かりを見つけることができるかもしれません。俺たちに任せてくれませんか?」
気がつけば、自然とそう宣言していた。トキさんと真理恵さん、それから世良もまじまじと俺のことを見ていた。
「そこまでしてくれなくてもいいんだよ」
トキさんは優しく笑った。悟ったような笑顔だった。長年生きてきたからこそこういう表情ができるのだろうと思う。
それでも、きっと心の奥では諦めてはいないのだ。もし本当に諦めているのなら、そもそも時空の歪みは発生していない。
死ぬ前にもう一度思い出したい。その気持ちをまだ強く持っているからこそ、彼女はレベル4の人間として俺たちの前に現れたのである。
トキさんの諦観の言葉に、俺は「でも、やってみます」と小さく返事した。
彼女が諦めていないのなら、俺たちも放っておくわけにはいかない。ただ純粋に彼女の願いを叶えてあげたい。それだけだ。
トキさんのために、忘れてしまった歌を探しに行こう。
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