第2章(4)

 アパートの階段は踏むたびにキィキィと音がした。まもなく築三十年を迎えるということで、外壁の色は何となくくすんでいたり、階段の手すりもメッキが剥がれて錆びている。そんな感じで多少なりとも難があるが、だからといって住むのに重大な支障があるわけではなく、値段が安ければそれなりに入居者はいそうな物件だ。


「二○三。ここが中里の部屋か」


 俺と空岡は階段を上り、奥部屋のターゲットの家の前に立った。念のため呼び鈴を鳴らしてみるが誰も出てこない。


「やっぱりいないみたいだね」

「よし。隣に行くか」


 いつまでも開かないドアの前にいても仕方がない。俺たちは雨谷が許可を取ったという男に話を聞くため隣の部屋の前に移動した。


 矢部やべという苗字らしい。チャイムを鳴らして表札を見ていると、家の中からぼさぼさの髪に青ひげを生やした三十歳くらいの男が出てきた。


「すみません。私たち中里さんについてお話を聞きに来た者ですが……」


 空岡が丁寧な口調で確認を取る。矢部は「あー」と間の抜けた返事をし、「どうぞ」と俺たちを家の中に招き入れた。


 薄暗い部屋に入って目に留まったのは、そこら中に散乱したコンビニ弁当の容器、空の缶やペットボトル、スナック菓子の袋。閉め切った部屋の中で、ちゃぶ台の上にある電源の入ったノートパソコンだけが怪しげに光を放っていた。


「食事とか全部買って済ませてるんですよ。そのほうが楽ですしね。仕事も基本的に夜勤なんでこの時間はいつもダラダラしてます」


 矢部はそう言いながらカーテンを開け、散らかったごみを片付けつつ、俺たちをちゃぶ台の周りに座らせる。


 正直言ってあまり居心地は良くないが、重要な証言を聞き逃すわけにはいかないのでここは我慢するしかない。さっさと話を進めよう。


 俺は腰を下ろすと早速目の前の男に尋ねた。


「矢部さんは中里さんとはよく話すんですか?」

「まあ、お隣さんだからね。それなりには。ただ向こうはまだ引っ越してきて間もないし、すごい親しくしているわけではないけどね」


 俺の質問に軽く答えると、矢部は憐れむような言い方で特徴を述べる。


「痩せ細った兄ちゃんだよ、彼は。声も小さいし、覇気もない」


 顔写真しか見ていないが、何となくそんな感じはしていた。気の弱そうな眼鏡の男、というのが写真から判断した中里の印象である。


「それでも四月の頃はまだ良かったよ。挨拶すればちゃんと笑顔で返してくるし、そのまま十分近く立ち話をしたりもしてね。『趣味は何?』とか『大学生活はどう?』とかそういう質問にも答えてくれたんだけど……。五月に入ってからかな。段々と表情が暗くなり始めて、挨拶してもほとんど返事もしなくなって。何というか抜け殻のような状態で」


 新しい環境にうまく適応できなかったのだろうか。五月病という言葉もあるくらいだし、中里がそのような状態になっていたとしても不思議ではない。それくらいこの時期は気疲れする出来事が多いものだ。


「最近は大学にも行ってないんじゃないかな。朝も姿見なくなったし」

「そうですか」


 空岡が心苦しそうに視線を落とす。真面目な彼女は共感する力も強い。他者の痛みを感じ取り、自分のことのように苦しむことができる。そういう人間なのである。


「中里さん、今日出かけているみたいなんですが行き先に心当たりありませんか? 俺たちは彼にも会って話を聞きたいんです」

「あっ、いなかった? ええと、行き先か……。さすがにわからないな」


 矢部は顎の辺りを手で掻きながら、「悪いけど」と後から付け加える。


「いえ、こちらこそ突然伺ってすみませんでした。いろいろと教えていただきありがとうございます。中里さんは自分たちで捜しますので」


 関わった相手には失礼のないようにする、というのが組織のモットーだ。仕事を円滑に行うためにも余計なトラブルを招かないことが大事なのである。


 あくまで隠密に、そして間違いのないように。

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