第2章(3)
大学生……しかも同い年だ。つまり、大学に入ってまだ一か月余りということになる。せっかく入学したのに、いったい、彼はなぜ過去に戻りたいのだろう。
空岡を隣に乗せて車を運転しながら、俺は高三だった去年のことを思い出していた。
「道はいろいろあっても選べるのは一本だ。おそらくお前はそれが怖いんだろう」
担任だった初老の男の先生の顔と声が頭に浮かぶ。白髪の混じった髪にカッと見開いた眼。声は掠れて聞き取りづらく、黒板の字も汚くて読めなかったため、先生が担当していた国語の授業はお経のような感じだった。
それでも生徒から人気だった先生は去年をもって定年を迎えられた。俺たちは先生にとって最後の教え子だったということだ。そのことをまったく知らされてなかったので、卒業の少し前に先生がその話をしたときは驚きとともに涙を流す生徒も多くいた。けれど、一番泣いていたのは先生自身だった。ありがとう、と何度も言いながら男泣きしていた。
そんな人情派の先生との進路相談を俺は昨日のことのように覚えている。
当時の俺は進路を全然絞り込めていなかった。普通は高二の段階で、ある程度の方向性は出しておくものだが、俺はそれをしないまま過ごしてしまった。進路希望調査の紙も「未定」で提出し、親にも「わからない」で通し、友達にも「どうしよっかな」といった調子でフラフラと日々を送っていた。
とは言っても、何も考えてないわけではなかった。公務員試験の勉強はしていたし、適当に大学の資料を取り寄せてみたりもした。
ただ、ここに行きたいと思えるところがなかった。勉強不足と言われればそれまでだが、特に興味のある分野もなかったし、やりたい仕事もなかった。
だが、当然いつまでもそうは言っていられない。
ちょうど去年の今頃だった。先生が放課後の時間を使って生徒一人一人と進路相談を始めたのだ。その時期にはほとんどの生徒の相談は具体的な進路先についてだったが、俺はまだ進学か就職かの段階だった。
「進学するのか、就職するのか、お前はどっちが良いんだ?」
俺の進路希望調査の紙を片手に持ってフーンと眺めながら先生は尋ねた。
「わかりません。まだ決められないんです」
俺は心の内を正直に明かした。嘘でも何か言えば良かったのかもしれないが、それをする気も起きなかった。
「そうか。まあ、それも無理はない」
意外にも先生はあっさり俺の言葉を受け入れた。そして、戸惑う俺を見てカッカッと笑いながら自らの昔話を始めた。
「私も十七、八の頃は何がやりたいのかまったくわからなくてな、親や先生を困らせたもんだ。勉強が嫌いではなかったから進学しようとは思っていたが、その先どうしたいという夢も特になかった」
先生は淡々と話を進めていく。信じてくれ、と主張していないところが逆に話に真実味を与えていた。
「同級生に医者の息子がおってな。そいつは当然のように医学部を志望していた。それを見ていて私は羨ましくなって、本人に言ったんだ。『道が決まっていていいな』って。そうしたら何て返されたと思う? 間庭、当ててみな」
「道が決まっているのも大変だ、みたいな感じですか?」
「まあ、遠くはない。正確には『道がいろいろあるほうが羨ましい』だ。彼は自分で道を決めたのではなく、気がついたら決められていたのだ。無論、彼自身の意思がまったく反映されていないわけではない。けれども、他のあらゆる道が彼には見えないように隠されていた。周りの人たちによって仕組まれていたのだ。それは彼もよくわかっていたようだ。そして、それに対して悪口を言うこともなかった」
一息ついて、先生は話を続けた。
「そんな彼だからこそ、あんなことを言ったのだろう。あれは皮肉などではない。彼は純粋に羨ましかったのだ。まだ道の定まっていない、自由に道を探して進む権利を持った私のことが」
先生の話を聞いた俺は何も言えなくなっていた。
他に誰もいない教室でお互いの呼吸音だけが聞こえる。普段なら聞こえてくるはずの、外で部活をする生徒の声も廊下を通る人の足音もそのときは耳に入らない。
まるで教室全体がどこかの時空を彷徨うタイムマシンのようだった。
「間庭、一つ大事なことを教える」
先生が改めてこちらを見たので、俺は思わず唾を飲み込んだ。
「どんなにたくさんの選択肢があったとしても最終的には他の道を捨て、どれか一つを選ばなければならない。道はいろいろあっても選べるのは一本だ。おそらくお前はそれが怖いんだろう。だがな……」
ふいに先生が表情を緩めた。すると、今まであった緊迫した空気が緩まっていき、時空を彷徨っていた教室号は一つの答えへと着地する。
大丈夫だ。どんな未来でも生きていける。
心がすうっと晴れ渡った気がした。先生の顔は穏やかで、この世のすべての不安を取り除く神様のように目の前で優しくこちらに微笑みかけていた。そんな先生の表情はそれ以前も、それ以降も見ていない。
あれは本当に神様が舞い降りたのかもしれない、と今でも思う。
その後、いろいろ考慮して公務員になろうと決めた俺は、流れ流れてこの仕事に就くことになった。当然ながら、それはまったく想定していない未来だった。けれど、そんな突然の未来でも受け入れることができたのはあの先生の言葉があったおかげだろう。
今度仕事がひと段落したら、会いに行ってみるか。
回想を終えたところでチラッと横を見る。静かな車の中、空岡はぼんやりとした目でただ通り過ぎる建物を眺めていた。
――そういえば、空岡はどうしてこの仕事をしているのだろう。
ふと、疑問が頭をよぎったところで、俺はすかさず訊いてみることにした。
なぜか? それは車内があまりにも静かすぎるからだ。
「そういや、空岡はどういう経緯でこの仕事に就いたんだ?」
回りくどい訊き方は嫌だったのでストレートに尋ねた。
突然の質問に、空岡はビクッとこちらを振り向く。驚かせてしまったようだ。言い方も何だか冷たい感じになっちゃったし悪いことをしたかもしれない。
変な間が空く。何か繋がなきゃと思うが次の言葉が出ず、改めて自分のコミュニケーション能力のなさを思い知る。こういうとき、コミュ力の高い世良や節原ならどうにでも展開させられるのだろうが、あいにく俺にはその引き出しがない。
まずいな。このままだとこの気まずい空気を引きずることになってしまう。
「私は……」
そんな状況の中、黙っていた空岡がようやくか細い声を発した。
「答えにくかったらいいけど」
悩んでいる様子の彼女にそう助け舟を出したが、空岡は首を小さく横に振った。
「ううん。答えるよ。私がこの仕事に就けた一番の大きな要因はお父さんが時空に関する研究をしていたからかな。そのおかげで私もここに入れたの」
「そうだったのか」
俺たちは出会って一か月以上が経つが、それぞれの家族についてはほとんど話題に上ることがないので空岡の父親のこともまったく知らなかった。
「お父さん、研究者だったんだな」
「うん。もう過去の話だけど……」
言葉が耳を通り抜ける。聞き間違いか。いや、確かに聞こえた。「過去の話」だと。
えっ、じゃあ、今は? 口には出さなかったが、俺がそう疑問に思ったことを察してしまったようだ。空岡はため息をつき、悲しげに呟いた。
「お父さんね、私が小学生のとき行方不明になったの」
あまりに現実感のない台詞が頭の中にこだまする。
――お父さんね、私が小学生のとき行方不明になったの。
嘘だろ、と言いそうになった。だって、普段の空岡の様子からはそんな深い悲しみを背負っているなんて想像ができなかったから。
彼女は決して快活というわけではないかもしれない。でも、俺や他のメンバーといるときにはピュアで明るい笑顔を浮かべていた。
あれは悲しみを隠す仮面だったということか。
どこにでもいる普通の女の子。ずっとそう思っていた。
でも、それは違った。もちろん、誰にだって悩みの一つ二つはあるだろうが、空岡が抱えていたのは俺の予想を遥かに超えるものだった。
どうやら訊くべきではなかった。軽い気持ちで触れてしまったことに後悔する。
「悪い。嫌なこと思い出させちゃって」
「ううん。大丈夫だよ。もう昔のことだから」
大丈夫……なわけがない。空岡のように真面目で気の優しい人間が、昔のことだからと言って父親の失踪を受け流せるはずがないだろう。絶対に忘れたりなんかしない。今もまだ苦しんでいるに違いない。
とにかく、彼女のためにもこれ以上この話を続けるべきではない。
しかし、この期に及んで良い話題など思いつくはずもなかった。どうしたらいいのかわからず、車内には再び沈黙が流れる。先ほどとは全然違う、遥かに重い沈黙が。
そんなとき、救いの手が差し伸べられた。本部からの着信だ。
「二人とも聞こえる?」
車内に設置されたテレビ電話の画面に現れたのは雨谷だった。
「中里がさっき家を出たみたい。だから、今家に行ってもおそらく誰もいないわ」
本部には時空の歪みの発生地点を算出する特殊なシステムがある。雨谷はそれを使ってターゲットの位置を追尾しているのだ。
「じゃあ、どうするんだ?」
「あなたたちのいる位置だと家まであと十五分くらいね。それなら、とりあえず家まで行ってちょうだい。アパートの二○三号室が彼の部屋だけど、隣の二○二号室に住んでいる男性と話をつけておいたからその人に会って話を聞いて。中里の行き先がまだはっきりとわからない以上、それが得策だと思うわ」
「了解」
指示を受け、俺は電話を切る。
ちなみに、なぜ雨谷は俺たちのいる場所も特定できたかというと、この車に最新鋭のGPSが取り付けられているからである。なので、少しでも寄り道などしたら本部にまるわかりだ。前にこの車でスーパーに寄って夕飯の買い物をしたときにはそれがすべてばれていた。事件を解決した後だったので特にお咎めはなかったが、それ以来、この車に乗るときには軽率な行動をとらないようにと心に決めている。
「寧々さん、やっぱりかっこいいな。私なんかじゃ到底追いつけない」
電話が切れた後も暗くなった画面を見つめていた空岡がポツリと感想を漏らした。
多くの女性にとって雨谷寧々は憧れの対象となるようだ。彼女を慕う女の人が周りに集まっている光景をよく目にする。
仕事ができて見た目も美人で、となればそうなるのも無理はない。
「でも、私もしっかりしないとね。同じ職場で働く一員なんだから」
空岡は霧が晴れたような表情で力強く前を向いた。
その言葉を受けて、俺も先ほどまでの考えを改める。確かに空岡が育ってきた環境は普通ではないかもしれない。平凡な環境で育ち、気がついたらこの仕事に就いている俺とは何もかもがまったく違うのかもしれない。
だが、経緯はどうであれ、今の俺たちはこうして同じ職場で働く「仲間」なのだ。
だったら、普通かどうかなんて別にどうでもいい。
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