第1章 時間退行観測庁
第1章(1)
高層ビルが立ち並ぶ街。都会に憧れる者なら誰もが羨ましく思うような勤務先だ。かくいう自分もそれに当てはまり、仕事内容云々よりもこういった都会で働けるのが何となくかっこいいと思っていた。
だが、まさかこんな仕事をあてがわれるなんて。
黒光りするビル群の隙間から見える太陽を目を細めて眺めながら、俺は大きくそびえ立つ立派な建物の中にゆっくりと足を踏み入れた。
「おはようございます。今日も一日頑張ってください」
受付で頭を下げ、お出迎えをしてくれるのは明るい笑顔のお姉さん。働き出してもう一か月になるがこの笑顔には未だに慣れない。俺も慌てて軽く頭を下げて挨拶を済ませ、足早にその場を後にする。
受付を通り過ぎ、次に待ち受けているのは仁王立ちした強面の警備員だ。変に焦って怪しまれないよう一呼吸置き、落ち着いて鞄から職員証を取り出すと、目の前にある自動改札機にタッチした。
――ピッ。
俺と警備員が同時に横にあるモニターに目を向ける。
名前や年齢とともに、俺の顔写真が大きく表示されている。前髪が伸びていて寝起きのような自分の顔がそこにはあった。証明写真だというのにそこには身だしなみを整えようという気持ちが微塵も感じられない。今にも欠伸をしそうな間抜けな顔だ。言い訳をするようだが、この写真は「必要だから」と言われていきなり撮られたもので、まさかこのような使われ方をされるとはまったくもって知らなかった。さすがに知っていればもう少しきちんとした格好で臨んだだろう。
「……通っていいぞ」
警備員の許可が下りる。毎回ながらこの瞬間は思わず息を止めてしまう。もし認証エラーでも起こしたら、いったいこの男はどんな顔をするのだろう。考えただけでも恐ろしい。
改札機を通り抜けると、前方に大きな両開きの扉が見えてくる。その扉の先が俺たちの活動を支える指令室となっている。
力を入れて、そのズシっと重たい扉を押し開ける。中からは人々の活気ある声が聞こえてきた。朝早いにもかかわらず、すでに大勢の人がスーツ姿で仕事に就いている。
収容人数百人ほどの室内には個人で使う小さなコンピュータや、他のところでは見たこともないような大型のスーパーコンピュータが部屋の前半分に置かれていて、そのコンピュータによって解析された情報が前方にある大型モニターに映し出されている。イメージ的には宇宙開発を行う航空宇宙局のような感じだろうか。あくまでそれは外見的なイメージの話でやっていることはまったく違うのだが。
俺はいつもの自分のスペースである部屋の後方へと向かう。ちなみに、この部屋に自分のデスクはない。
「間庭君、おはよう」
囁くような小さな声のするほうを向くと、細身の体をした女の子がやや緊張気味な面持ちで立っていた。彼女の名前は
他人事のように言ったが、それは俺も同じだった。目線を合わせるのもそこそこにして、ボソッとした声で彼女に「おはよう」と告げる。
「どうした、賢次? 朝から元気ないな? そんなんじゃ今日一日もたないぜ。俺が気合入れてやろうか?」
「いいよ。というかやめてくれ」
「そう遠慮すんなって!」
大きな手で背中をバシッと叩かれる。手加減はしているのだろうが力が結構加わっていて、叩かれた場所がヒリヒリと痛い。俺は叩いたその男のほうをキッと睨む。
朝から元気なこの男の名は
そして、ここにはもう一人そういうタイプの人間がいる。
「やっほー、みんな早いね。今日は私のほうが早いと思ったのに」
肩にかかるゆるふわカールな栗色の髪を揺らし、世良と同じく朝からテンション高めで現れたのは
「おかしいなぁ。何で私がいつも最後なんだろう?」
「やっぱメイクに時間かけ過ぎなんじゃないの?」
「そんなことないから。すっぴん……とは言わないけどさ」
「じゃあ、いつもの食べ過ぎか」
「『いつもの』って、さっきから明弘君ひどいよ。朝は普通に朝食を食べて……えっと、その後にケーキを……」
「朝からケーキ食べたのかよ? さすがだな」
「しょうがなかったの。だって賞味期限が」
世良と節原の陽気な争いは朝のお決まりの光景になりつつある。今日は世良が早めに彼女の弱点を突いたため早々に決着がついたようだ。やや体型がふっくらとしている(あくまで空岡と比べて、という意味で)節原はそれを指摘されるとたちまち弱々しくなる。
「もういいでしょ。明日からダイエットするから」
この一か月で何度聞いたかわからないダイエット宣言を節原がし終えると同時に、一人の女性がコツコツと靴音を立てて室内に入ってきた。いかにも厳しい上司と言った感じの眼光鋭いこの女性は、わずか三十歳にして主任という立場に立つ
彼女が入ってくると途端に場の空気がピンと張りつめる。室内にいる全員がシーンと静まり返って彼女の第一声を待っていた。
勢野は皆の前に立つと、長い黒髪をバッと掻き上げた。
「朝からご苦労。今日も抜かりなく仕事に当たってくれ。わかっているとは思うが、我々の仕事は失敗が許されない。油断していたでは済まされないのだ。それを肝に銘じでおいて欲しい。私からは以上だ。各自仕事に戻れ」
大型モニターの前にいる彼女から発せられた言葉が後方にいる俺の耳にもしっかりと届く。ほぼ毎日同じような台詞を彼女は述べているが、その言葉からは一切怠慢が感じられない。厳しい現実が俺たち、そして彼女自身にも向けられているからだろう。
――我々の仕事は失敗が許されない。
俺は他の仕事のことはわからないが、少なくとも自分たちの仕事が失敗を許容できないということは重々承知しているつもりだ。
俺たちの仕事。それは「人が過去に戻りそうになるのを止めること」である。
過去に戻りたいという想いは人々が遥か昔からずっと募らせてきたものだろう。過去に戻ってやり直せたなら。そんな願いを胸に人類はこれまでも様々な方法を考えてきた。
その一つがタイムマシンである。あるときは車型だったり、またあるときは絨毯型だったりと、その形状は多種多様ながら過去に戻れるという共通の機能を持ち、人々を夢と冒険の世界へ誘ってくれる。俺も小さい頃はそんな夢物語に憧れ、いつかそのような時代が訪れることを望んでいたかもしれない。
だが、それはあくまで空想の話だとどこかで割り切っていた。そんなことが現実に起こるはずはない、と。
しかし、そのような時代が実際に来てしまったのだ。
ただ、前述のようなタイムマシンはこの世にはまだ存在しない。そうは言っても、時間退行が実際に起こるようになってしまった今、タイムマシンがすでに出来ていたとしても何の不思議もない。例えば、俺たちの組織の上層部の間で秘密裏に開発を進めている、なんてことは十二分に考えられる。もし仮にそうだったとしても下っ端の俺にはほとんど情報が出回ることはないだろうけど。
まあ、それについては今考えたところで推測の域を出ないので、とりあえずは俺たちの所属する組織について話すことにする。
時間退行観測庁――というのが俺たちが所属する組織の名称である。十数年ほど前に時空の歪みの観測がなされてから、急遽、内閣府に極秘で設置された庁で公にはされていない。そもそも、普通の人々は時間退行が可能なことすら知らないのだ。俺自身も去年まではそうだった。
その名前と仕事内容を初めて聞いたときは何かの冗談だと思った。そんな馬鹿げた組織があるわけがない、と。ただでさえそのときは過去に戻れるという現実一つを受け入れるので精一杯だったのに、それに加えて人が過去に戻るのを阻止する組織があると言われても受け入れがたかったのである。
だが、実際にこのような立派な施設があり、多くの人が真剣な表情で働いているのを見るとどうやらそれが本当であることが理解できた。それでも最初はドッキリか何かかと疑ったが、俺一人を騙すのにこんなに壮大な仕掛けをするメリットがどこにもないのでその考えは徐々に薄れていった。
時間退行観測庁、などという大それた名前がついているが、一応立場的には公務員である。ここにいる人たちが皆そうなのかは知らないが、少なくとも俺は公務員試験を受けて入った。
ちなみに時間退行観測庁の支部は全国にあって、その中でもここ「東京支部」が最も大きくて実質「本部」のような扱いになっており、組織の長官の部屋もここに用意されている。ただ、大きいとは言っても延べ人数は百人にも満たない。存在自体が極秘であるため、あまり人数は増やせないのだろう。
現在、ここで働くようになってから一か月が経った。まだまだ不慣れな部分はあるが、何とか仕事の流れを掴んできたところだ。それでも知らないことが未だにたくさんあるのだろうけど、知らないことは説明ができない。
というわけで、ひとまず俺が知っている「基本的な仕事の流れ」を述べていきたいと思う。
まず始めに一番重要なのは、時間退行を起こしそうな人間を見つけることである。
その方法は「時空の歪みを検知する」というものだ。
時間退行が発生しそうになるとその地点の時空が大きく歪む。俺たちはその性質を利用して過去に戻ろうとしている人間を特定し、それを止めに行くのである。
なお、なぜ時空が歪むのか、その検出の仕組みはどうなっているのか、については俺にはわからない。それらは時間退行の研究者たちの範疇である。果たして、彼ら彼女らはどれだけ優秀な頭脳を持っているのだろうか。見当もつかない。
ちなみに、時間退行を止める方法は至ってシンプルだ。時間退行能力を発動しそうな人に会いに行き、過去に戻ろうと願うのをやめさせればいいだけ。
俺、空岡、世良、節原の四人は事務官として採用されていて、実際に現場に赴き、観測システムを操る技官たちの命令を受けて交渉に当たる。どうやら去年までは技官たちがその仕事も担っていたらしいが、それでは手が足りないからと今年から交渉役として事務官が動員されたようである。
『過去に戻りそうな人間を見つけ出す技術があるんだから、それを止める技術も開発して欲しいわよね』
かつて節原が愚痴るように言った言葉だ。まったくもってその通りだと俺も思った。だが、最後の最後は人間の交渉によって決まるというのは悪い気がしない。その仕事までコンピュータに奪われてしまったら何だかむなしい。俺の仕事なくなっちゃうし。
今日も大型モニターには細かい文字や図が映し出されているが、未だに見方がよくわからないところがある。出力の際には難しい言葉や文字はできるだけ使わないようにしてあるらしいが、それでもわからないということはもはや諦めるしかないのだろう。
それでも必要最低限のことは見てわかる。俺としてはそれで十分だ。
「今日もレベル3以上の発生はなさそうだ。というわけで、現段階でレベル2のこの二人の対応に当たって欲しい」
話を終えた勢野が資料を持って俺たち四人の前に来て、てきぱきとそれらを配りながら厳粛に話を進める。
「間庭と節原はその男の子を、世良と空岡はその女性を担当してくれ。どちらもレベル2だから緊急性はないが、芽は早めに摘んでおかなければならない」
「おっ、綺麗な人だなぁ」
「世良、浮かれるなっ。その油断が世界を滅ぼすことに繋がりかねないんだぞ!」
「わかってますって」
「いや、わかってないな。やっぱり男の子のほうを担当してもらおうか。間庭と代われ」
主任である勢野に交代を告げられた瞬間、世良は慌てて彼女の腕にすがりつく。
「本当にしっかりやりますって。だから担当を変えないでくださいよ」
誰の担当になるかでそんなに必死になれるものかと思いながら、俺は空岡の手にある資料に載っている顔写真を横目で見ると、そこに映っている女性は確かに凛々しくて美人だった。「カワイイ系よりもキレイ系」を主張する世良としては是非とも会って話がしたいのだろう。
「その言葉に偽りはないな? まあいいだろう。じゃあよろしく頼む」
勢野は厳しい表情を変えないまま、くるっと背を向け去っていった。
「賢次君、早速この子のもとへ向かおうか?」
節原が柔らかい表情でこちらを見て言う。
「そうだな」
俺はレベル2と判定された男の子の資料を一通り眺めながら答えた。
時間退行能力の中にもレベルというものがある。時空の歪みの度合いからどれだけの危険性があるのかを判断していて、レベルが上がるごとに早急な対応が必要になってくる。組織の定めによればそれは以下の通りである。
レベル1 平常とは異なる小さな時空の歪みが見られる。
レベル2 レベル1よりも危険で、緊急性はないが適切な対応をする必要がある。
レベル3 大きな時空の歪みが確認され、早急に対応する必要あり。
レベル4 非常に危険。レベル5に移行する前に速やかに対処すること。
レベル5 時間退行が可能なレベル。人員を総動員してそれを阻止すること。
ここで働くようになって一か月が経ったが、緊急性のあるレベル3以上の発生というのはあまりない。それは組織で働く人々の日々の努力の成果なのだろう。基本的には時空の歪みは段階を追って強くなるので、低いレベルのうちに対処すれば時間退行が起きることはないのだ。
以前はレベル4、5クラスの発生も珍しくなかったそうだが、監視体制が整った今、それは滅多に起きなくなっていた。素早く対応することによってレベル2、悪くてもレベル3の段階で何とか食い止めることができているのである。
万が一、時間退行能力が発動してしまったら……。
俺は研究者ではないのでその影響を推し量ることはできない。ある研究者の説によれば誰か一人が時間退行を起こしただけでこの世界はとてつもない変貌を遂げるらしく、また別の研究者の説では未来に多少の変化はあるが、例えば世界が消滅してしまうような大惨事にはならないとのことだ。
ただほとんどの人が口を揃えて言うのは、「時間退行により世界が危険にさらされるのは間違いなく、その発生は防がなければならない」ということだった。
そして、俺たちの組織は誕生したのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます