第1章(7)

 案内された想汰の部屋は子供が羨むようなもので溢れていた。床には最新のゲームやおもちゃ、本棚には漫画本がずらり。さらに特筆すべきは部屋の構造。木材を縦横無尽に組み立てて、一つのアスレチックな空間が作られていた。ここでならチャンバラごっこをしてしまうのも無理はないというようなわくわくする部屋である。


「俺もこんな部屋が良かったな」


 つい心の声が漏れる。子供の頃を思い出すと、俺は友達の家にお邪魔することのほうが多かった。


 理由は明白で、俺の家に来ても遊ぶものが何もないからだ。ゲームもおもちゃも漫画もほとんどなく、特に訪れても面白味のない部屋(実際に小学生のとき、友達に「つまらない部屋」と言われた)なので、誰かの家で遊ぶとなったときにはいつも俺の家は選択肢に入らなかった。


 そんなときに決まって選ばれるのが、こういう何でも揃っているような家である。想汰たちの遊び事情を細かく把握しているわけではないが、おそらく同じような感じなのではないかと思われる。想汰の部屋は「友達を集める部屋」なのだ。


「巧君から聞いたんだけど、遊んでて壁に傷つけちゃったんだって? 私たちにその傷を見せてもらえるかな?」


 節原が早速、想汰にお願いをする。


 夏目想汰は写真で見た通り、心優しそうな少年である。その黒くて丸い目は、老若男女問わず、困っている人を絶対に見捨てたりしないような、悪いものを見つけたら勇気をもってそれを正すことができるような目だった。


 そんな思いやりと正義の心を持っていそうな少年――想汰は節原の要請に素直に応じた。


「これだよ」


 なぜそんなことを訊くのかと訝る様子もなく、彼は漫画か何かのキャラクターが描かれた大きなポスターを壁から取り外す。すると、そこには遠目から見てもわかるくらいはっきりとした傷ができていた。白い壁だから余計に目立つ。


「あー、派手にやっちゃったねー」


 節原はその窪んだ部分をまじまじと見つめながら手でなぞっている。

「気をつけてたんだけど……」


 想汰は反省しているようで、俯きながら答える。しゅんとした顔からは本当に後悔していることが窺えた。


「でも、ちゃんとお父さんとお母さんに話さなきゃダメだよ。友達をかばいたい気持ちはわかるけど、こういう隠し事は良くないと思うな。私が付いてってあげるからさ、正直にこのことを話して謝ろう。ねっ?」


 ここでも節原は優しいお姉さんとして少年を導こうとしていた。膝を折り曲げて彼と同じ目線になることで「味方だよ」という安心感を与えている。彼女のこういった姿勢は俺も見習うべきだろう。いつまでも頼ってばかりというわけにはいかない。


 ただ、この場面においては彼女の導きは失敗した。いや、導きが失敗したというより彼女の推理が間違っていたというべきだろう。想汰の口からは意外な言葉が発せられた。


「もう話して謝ったよ」

「えっ? そうなの?」


 予期せぬ言葉に節原は目を丸くしていた。


「うん。友達が帰った後、すぐにお母さんに見せて『ごめんなさい』って。それからおばあちゃんにも言って、夜、お父さんが帰ってきたらお父さんにも謝ったよ。そうしたらお父さんが、『すぐに直すのは難しいから何かで見えないように覆っときなさい』ってアドバイスしてくれたんだ。それで、ちょうどまだ張ってないポスターがあったからそれを貼ってみたんだけど。やっぱり変かなあ」


 想汰は「もういい?」という目で節原を見ると、広げたまま持っていたポスターを首を傾げながら元の位置に貼り直していた。


「巧君がやったってことは言ったの?」

「ううん。言ってないよ。『友達と四人で遊んでて傷つけちゃった』って言っただけ。でも、嘘はついてないよ。だって僕たち四人で遊んでて傷つけたのは本当だし。実際に傷をつけたのは冬川君かもしれないけど、それはそんなに重要じゃないと思うんだ。壁の傷は僕たち四人がつけたものだよ。こういうの連帯責任って言うんだっけ?」


 淀みなく話すさまはとても小学四年生には思えなかった。自分の意思をもってしっかりと言葉を紡いでいる。その考え方の良い悪いは置いといて、こうやって自分の意見が言えるというのは素晴らしいことであると思う。


 だが、こうなってくると一つの疑問が生じる。


 ――夏目想汰はなぜ過去に戻りたいのか。


 時間退行能力は過去に戻りたいという強い願いから生まれるものだ。想汰のようにレベル2まで達している者は何らかの明確な理由を持っているはずである。俺たちの仕事はその理由を特定した上で解決策を考えるというものであるから、過去に戻りたい理由がはっきりとしない以上、動きようがないのだ。


 今一度、本当の理由を探さなければならない。


「連帯責任、か。想汰君いろいろと考えてるんだね。いや、想汰君だけじゃない。巧君も、それから他の友達もそう。私、想汰君たちのことを子供だからと思って甘く見てるところがあったよ。ごめんね」

「そんなふうには感じなかったよ」

「ありがとう。許してくれて」


 自分が間違えていると思ったら素直に謝る。この辺りも節原の人柄の良さだろう。彼女は許しを得るとホッと一息ついていた。


「それにしても……」


 そして、彼女の脳は再び仕事モードへと切り替わったようだ。瞬きもせずに想汰の顔をじいっと見つめている。振り出しに戻されてしまった推理をもう一度組み立てようとしているに違いない。


「一つ質問してもいいか?」


 そんな中、俺は想汰に向けて言った。頭の中にある考えが浮かんだためだった。


「うん。いいよ」


 想汰は従順な声で答える。ならば訊いてみよう、と俺は口を開いた。


「想汰のおじいちゃんがもし生きてたとしたらさ、今回のことを知ってどんなことを言うんだろうな?」

「えっ?」


 想太は意表を突かれたような声を上げてこちらを見た。彼の表情は固まっている。おそらくそこに触れられるとは思っていなかったのだろう。


 祖父の存在。それが彼にとってどれほどの影響を持っていたのかはわからない。


 だが、この部屋は祖父からの最高のプレゼントだったはずだ。それに傷をつけてしまったのだから、想汰の心の中に祖父のことが浮かんでいたとしても不思議ではない。


「えっと……」


 想汰はまだ困惑していた。無理もない。いきなり難しい質問をしてしまったのだから。やはりもっと答えやすいものから訊いていけば良かったかもしれない。


「ごめん。変な質問しちゃって。そんなの答えにくいよな」


 このままではまずい、とすぐに謝った。どうも俺は訊き方というのがわかってないようで、いつもそれで相手を戸惑わせてしまう。ましてや今回の相手は小学生なのだから、そういうところにはより気をつけなければいけなかったはずなのに。


 とにかく質問を変えようと焦っていると、想汰は首を横に振って言った。


「ううん。そんなことないよ。僕はその質問に答えたい」

「いいのか?」


 俺が確認すると彼は頷き、懐かしむようにそっと語り出した。


「おじいちゃんは本当に優しかった。僕が困っている姿を見るとすぐに助けてくれる。幼稚園に行くようになって最初の頃、僕は周りにうまく馴染めなかったんだ。それまで同い年の子たちがたくさんいる中で過ごすっていう経験がなかったから、どうしていいかわからなかったんだと思う。それでよく『行きたくない』って泣いてて」


 よくは覚えてないが、俺が幼稚園児のときもそんな感じだったかもしれない。親が近くにいないのが不安でしょうがなかったのだけは感覚として残っている。


「そんな様子を見かねたおじいちゃんがある日言ったんだ。『想汰に友達ができるように良いものを作るから待っててくれ』って」


 まさに今その台詞を言われたかのように、想汰の顔には温かい笑みが浮かぶ。


「当時の僕は『良いもの』が何なのかまったく見当がつかなかったんだ。だけど良いものというからにはきっと素晴らしいものに違いないって楽しみにしてたんだ。そのうちに幼稚園のほうでも少しずつ友達ができていったんだけど、それはもしかしたら『良いもの』をもらえるから大丈夫だって思えたからなのかもしれないね」

「家……あっ、いや『良いもの』が完成したのはいつなんだ?」

「僕が小学生になってからだよ。結局、幼稚園に通っているときには間に合わなかったんだ。何も知らない僕は、おじいちゃんと目を合わせるたびに『良いものはまだ?』って急かしちゃってた。あとからお母さんに聞いたんだけど、相当厳しいスケジュールだったみたい。悪いことしちゃったなって今でも思ってるよ」


 これだけ立派な家を建てるのはさぞかし大変だっただろう。だが、その苦労も孫のためを思えば吹き飛んでしまうのかもしれない。


 自分を信じて待ってくれている。そんな相手がいたのだから。


「家が完成したとき、おじいちゃんは真っ先に僕の部屋を見せてくれたんだ。この広い空間が全部自分の部屋なんだ、って思ったらもう興奮が抑えられなくて、部屋の端から端まで駆け回ったり柱をよじ登ったりしてひたすら暴れ回ってた」


 小さな子供にとって、ここは一つのアトラクション施設のように見えるだろう。ずっと遊んでいたいと思う夢の空間。それを与えられたときの想汰の喜びがどれほどのものだったか。自分の立場に置き換えて想像しただけでもわくわくしてくる。


「そうしたらね、壁を勢いよく蹴っちゃったんだ。ドーンって。別に僕の足は痛くも何ともなかったんだけど、僕は焦ったんだ。どうしよう。僕のために必死になって作ってくれたのにいきなり壊しちゃったかもしれないって。慌てて壁を確認したら、幸いなことにへこんだりもしてなくて綺麗なままだったんだけど、きっと怒られるなと思っておじいちゃんのほうを振り返ったんだ」


 話を聞く節原と俺が同時に大きく息を吸っていた。想汰はそれに合わせるように何秒か間をおいて言葉を発した。


「だけど、いつもの優しいおじいちゃんだった。『痛くなかったか?』って僕の足をさすって心配してくれて。それで、そのあと一つお願いをされたんだ」

「お願い?」


 流れからして「暴れないで欲しい」というようなものだろうか。


 例えば同じことを伝えるのでも、注意ではなくお願いという形にすることで受け取る側の感じ方は大きく変わる。言い方一つで、怒られているというようには思わなくなったりもするものだ。


 そんなことを考えたが、それ以前にそのお願い自体が俺の予想とは違うものだった。


「『怪我をしないように暴れなさい』」


 想汰が突然低い声を出す。おそらくおじいちゃんのまねをしているのだろう。本人の声を知らないので似ているかどうかは判断できないが、優しそうな口調だった。


 それにしても「暴れなさい」だとは。


「てっきり『暴れないで欲しい』って言われたのかと思ったな」

「そうだよね。私もそう思った。想汰君のおじいちゃんはなかなかの人格者だね」


 人格者というものが十歳の子供に理解できるのかは疑問である。何年も余計に生きている俺だってその定義はまだわからないのだ。


 それでも、その言葉は想汰の祖父に相応しい気がした。


「それからね、もう一つ言われたよ。『もしどこか傷つけたりしたら隠さずに教えて欲しい』って。だから今回もすぐにお母さんに知らせたんだ」

「お願いを守ったんだね」

「うん。大切なお願いだから」


 大切な、という言葉にはかけがえのないという意味がある。


 他に代わるものがない、ただ一人の人物からのお願い。


 もう二度と会うことができない、優しい祖父からのお願い。


 おそらく想汰はきっと……。


「僕、おじいちゃんに会いたくなっちゃった」


 これこそが、夏目想汰が過去に戻りたい理由だった。

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