◇ノルニルの回顧:1

 ヘズは盲目である。

 しかし、戦神であった。


「この呼称は。返上した方が、いいと思うんだ」

「なにを言っているのよ。見えなくてもそんなに強いくせして」


 隣に座るナンナが、花がほころぶように、くすくすと笑う。

 けれどもその愛くるしい笑顔を、彼は見ることができなかった。


 ヘズの目の前に広がるのは、ただただ真っ暗な闇。いくら目を凝らしても、光の刺さぬ漆黒の世界に、彼女の姿はない。

 光溢れる世界の中にあっても、いっとう弾けるような彼女の笑顔を。ただ一度だけ見たい、という彼のささやかな願いは、叶わない。

 当たり前のその事実が、ひどく苦しく、ひどく悲しい。


 けれども彼は、闇にあってもまだ孤独ではなかった。

 拳一つ分の距離を空けて座る、彼女の柔らかな香りが、耳をくすぐる声が、にわかに近づいた時に伝わる温かな温度が。彼女という存在を、暗闇の中に形作ってくれるからだった。


 それでも、と悟られぬようにヘズは密かにため息をつく。

 彼にとっての幸福の塊は、もう永遠に手放さなければならないのだ。


「ナンナ。もう、僕に会いに来るのはよくない」

「何故?」

「だって、君は。兄の、バルドルの妻になるんだろう」

「そうね。そう決められてしまったものね」

「……そういう言い方は、よくない、と思う」

「だって事実だもの」


 しめやかな気配が、辺りに漂う。それから声はしないし身じろぎもしない。その上、彼女の表情は寸分たりとも見えないというのに、深い憂いが滲んでいるような気がして、ヘズは息を詰まらせた。

 実際、それは正しかった。

 ナンナはそれ以上、余分なことは言わない。おいそれと口に出してはいけないこととは、彼女とて重々、分かっていた。


「僕の目が見えていれば。変えられたんだろうか」


 詮無いことを、呟いた。と、言ってから彼も思った。

 ヘズの後悔は彼女にも伝わったようで、ナンナは優しく彼の手を取る。

 そして彼の手を握りしめ。まるで祈るように、こう言った。


「たとえ光のない世界だって。変わらず私はあなたのことが好きよ」


 詮無いことよ、と彼女は笑った。

 ヘズは、見えないはずのその目を、一度大きく見開いてから。やはり何も映さないその瞳を、彼女に向けた。

 彼の目には見えないが、彼の瞳には、ナンナの姿が映る。彼の瞳に映ったナンナを見ることができるのは、彼女本人だけだ。


 ――違うんだよ、ナンナ。君がいたから、僕は光を失わずに済んだんだ。

 ――君がいないのならば。真実、僕は闇の中だ。


 ヘズは、そう心の中で呟いて。

 彼は黙って、再び瞼を閉じた。




 そうしてヘズは、真実、盲目になった。

 朝日の強いまばゆさも。

 昼の晴れ渡った蒼穹も。

 夕日に赤く焼ける空も。

 夜のきらめく星明りも。

 あらゆる美しく尊いものたちも、あらゆる醜く忌むべきものたちも。

 二度と彼の目に、心に、届くことはない。






+++++



「ようヘズ。どうして騒ぎに加わらないんだ」


 ぼんやりと立ち尽くすヘズの元に、聞き覚えのある声が届く。

 変身者ロキのものだった。


 彼らのいる広場では、人の輪の中心にいるバルドルに向けて、人々が次々にバルドルを射たり、切りつけたり、石を投げつけている。けれどもそれは、決してバルドルを、彼の兄を傷つけはしなかった。

 バルドルを深く愛する彼の母が、世界中のあらゆるものに、彼を傷つけないようにと誓いを取り付けたからだった。

 彼らのしていることは。全てのものから愛され、全てのものから許される、光の神バルドルに敬意を示す、儀式のようなものだった。


 ただその中でヘズは一人。盲目であるがゆえに、兄を称えるその遊びに興じることができず。

 熱を帯びたその気配だけを感じながら、輪の外で立ち尽くしていた。


 光の中に生きるバルドルと、闇の中に生きるヘズとは。

 まるで、示し合わせたように対極だった。

 疎みこそしない。だが、その兄の隣に寄り添い立つ存在のことを思って。

 ヘズは、息が詰まる。


「僕は、盲目だからね。兄さんがどこに立っているのか見えないし、武器をもっていないから」

「なぁに。そんなことか」


 ロキはヘズの手に、細長い木の枝を握らせた。

 ヤドリギの矢だ。


「俺様がバルドルの位置を教えてやろう。この矢で、俺様のいうとおりに射るんだ。お前も他の連中と同じように、バルドルに敬意を示すがいいさ。

 なぁに。バルドルは、

 全てのものは、彼を傷つけやしない。当たったところで、決して死にゃしないさ」


 ロキの囁きに。

 ヘズは、ヤドリギの矢を、つがえた。

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