『そんなの、あんまりじゃないか』
運命の悪戯か。
図らずもその日、僕は遣いで村を出ていて、一日不在にしており。
帰り着いた時には、既に手遅れだった。
煌々と燃え盛る炎が、村を飲む。
まるで現実離れした光景に、最初はそれが現実なのだと信じることができなかった。
訳が分からないままに、家へ走る。炎に包まれ半壊した自宅には、とても近付けない。だが家に入らずとも、家族の姿は確認することができた。
彼らは全員、家の外で死んでいたからだ。
まるで、何者かの侵入を拒むために立ち塞がったかのような死に様だった。彼らは既に炎に焼かれ、黒くただれ始めていた。肉を焼く匂いが鼻をつき、吐き気を催す。
目の前の光景が受け入れられず、数歩後ずさると、足が何か柔らかいものを踏みつけた。斬り殺された子どもの亡骸だった。まだ年齢が二桁にも満たない、隣の家の子どもだ。まだ炎に飲まれてはいない。綺麗な死体だった。
いよいよ耐えきれず、口を抑えてその場に伏した。
胃の中のものを全て吐き出してしまってから、呆然と顔を上げる。
今は夜だ。しかし村全てを飲み込んだ炎のせいで、まるで昼間のように明るかった。
もつれる足を無理やり動かし、走る。
誰か生き残りがいないか、隠れている人はいないか、逃げのびた人はいないか。
けれども。息をしている人は、既にいなかった。
ある者は切り殺され。
ある者は焼き殺され。
村人は、例外なく事切れていた。
彼らをなめる炎を見上げて立ち尽くす、一人の男以外。
「久しいな、ヘゼル」
「……兄さん」
四年前に姿を消したはずの、僕の兄。
彼は昔と変わらぬ容貌で。けれども狂気を孕んだ美しさを湛えて、こちらを振り返る。
口には薄っすらと笑みを浮かべ、手には黒い液体の滴る剣を持っていた。
「まさか、兄さんが――」
「知らなかったよ」
僕の言葉を遮り、兄さんは熱に浮かされたように言った。
いや。遮るも何も、はなから僕の言葉など、聞いていなかったのだろう。
「お前が、影を遣えるようになっていたなんて。おかげで随分と徒労をかけてしまった」
兄の言葉に、四年前の出来事が蘇る。
僕が夜の精霊の声を聞けることを知り、老婦人から託され、彼女を逃したあの日。
これまでは彼女のことを兄から隠し通せていた。しかし兄の口ぶりからして、彼女を隠していた方法と、それが僕の術によるものであることは見抜かれてしまったようだった。
僕の思考を読み取ったかのように、兄は続ける。
「彼女の影は燃やしたよ。
けれど、また似たように目くらましをされてはたまらない。
悪いけど死んではくれまいか、ヘゼル」
そう言って、兄は鋭い剣の切っ先を僕に向けた。
兄の口調には、一切の躊躇も慈悲もない。
「僕とて、長年共に暮らした弟を手に掛けるのは忍びない。
けれど障害は取り除かねばならないからな」
ただ確定事項としてそう告げた、その男の姿には。
かつて優しかった兄の面影は、もはやなかった。
「どうして」
様々な思いが去来して。けれどもそれらを言葉にすることはできず。
かすれた声で、ようやく僕は尋ねる。
「どうして。殺すなら、僕だけを殺せばよかった」
「術者を殺しても、別の術者がいないとも限らない。どのみち彼女の身代わりの影は、消さねばならなかったんだよ。
けど彼女の影がどこにあるのか、誰も教えてはくれなかったからな。なら、村ごと燃やすしかないだろう」
至極、当たり前のことのように口にする兄に。
それこそ胸の奥が、燃えたぎるようにかっと熱くなった。
「そのために! ……そんなことのために、皆を殺したのか!」
「そんなこと、ではない。それが全て。それが始まりなのだ」
「……意味が分からない」
首を横に振り、僕は背中に手をかけた。
ほとんど肌身離さず持ち歩き、孤独な日々に共に鍛錬を重ね、僕の身に馴染んだそれ。
それは、少しでも、兄に追いつきたかったからだというのに。
「あの日から、兄さんの言っていることは意味が分からない。妄執にとらわれて、何もかも見失ってる」
「何も見失ってなどいない。むしろ、見出したのだ」
炎を背にし、朗々と歌うように語る。
その様はまるで戯曲でも見ているかのようで。
けれども耳に届く、村の惨状を嘆く精霊たちの悲鳴が。
鼻に侵入する、肉塊と化した村人の焼ける匂いが。
目に映る、無慈悲に冷徹に村を焼き払う炎が。
否応なしに、これが愚かで悲しい現実なのだと僕に教えてくれる。
「彼女の存在は、僕にとっての定めだ。
私にとってそれは真実、過去であり、未来となるべきものなのだ」
死んだ村の人々を思い。
恐怖に震えた少女を思う。
そして目の前で笑う、ただ自分の信ずる真実のみに突き動かされた男を思う。
そんな未来は。
こさせちゃ、いけない。
一呼吸おいて、地面を蹴った。
彼も、気付いて反応する。
けれども。
「僕は」
その手に確かな感触を感じ。
僕は、じっと目を閉じる。
「僕は、兄さんのことが好きだった。家族の中でも、一番兄さんのことを、尊敬していたんだ。いつでも兄さんだけが、僕の味方でいてくれた」
兄の胸には。深々と、剣が刺さっていた。
僕の方が、早かったのだ。
当然だ。落ちこぼれだった代わり。剣だけは、ずっと握ってきたのだから。
兄はくぐもった咳をして、口からも赤い血を流すと。
確信したように、目にぎらついた光を浮かべる。
「そうか。お前は、今回も『弟』なのだな」
「……何を、言っているんだ?」
「仕方ない。お前が私を殺すのも、定めなのだから」
不意に放たれたその言葉に戸惑って、一瞬、腰が引ける。
その隙に。
「大丈夫だ。これくらいで私は死なない」
兄は、自身に刺さった剣を素手で握り締めた。そのまま、手が切り裂かれるのもお構いなしに、凄まじい力でそれを引き抜く。
胸から、口から、手から。今や兄は、全身が赤に染まっていた。
その姿に臆して、僕は息を呑む。
「たとえ肉体が滅ぼうとも、私は彼女を追って蘇ろう。かつて、彼女が私を追ってきてくれたように、今度は私が彼女を追うのだ。
必ず迎えに行ってみせよう、私の花嫁よ」
その有様で、兄は笑っていた。
人を焼いた炎の中で、自身も血を流しながら、哄笑を上げていたのだ。
常軌を逸したその兄の姿が。
正気を失ってなお、狂気の中で美しく笑う兄の姿が。
僕はたまらなく恐ろしかった。
だからきっと、その時。
無我夢中だった、のだろう。
「闇よ。封じろ!」
ほとんど無意識に口をついて出た言葉だった。
これ以上。狂った兄の姿を、見るのが耐えられなかったのだ。
兄を貫いた剣から、細長い幾筋もの黒い影が伸びる。影は兄を囚えると、彼の身体の中から何かを掴みだし。それを、剣の中に引きずり込んだ。
途端。兄の身体は、地面に崩れ落ちた。
それきり、兄は動かなくなった。
僕は、支えを失ったようにその場にへたり込む。
不思議なことに、あれほど燃え広がっていた業火は、やがてすぐに鎮火した。
兄の術に因る炎だったらしい。おそらく精霊たちにとっても不本意な炎だったようだ。術者の兄がいなくなって、彼らはすぐに燃やすのをやめたのだろう。
今度は、光一つない闇に飲まれた村で、一人、僕は地面に手をついた。
「……彼女の存在が兄さんにとっての定めだったというのなら」
兄が姿を消す間際。
放たれた不可解な言葉を、反芻する。
「僕が兄さんを殺すというのも、定め」
僕は、握りしめた剣へ視線を落とす。
兄を刺し貫いた剣。
この手で、止めを刺した剣。
「……そんなの」
柄を握りしめたまま、それを抱き込むようにして僕はうずくまった。
「そんなの、あんまりじゃないか……!」
どんな理由があろうとも。
どんな事情があったとも。
揺らぐことはない事実があった。
「……僕が、兄さんを、殺した」
兄だった。
どんなことがあっても、彼は、僕の兄さんだった。
目の前の凄惨な現実と共に。
どんな呪いよりも、その事実が僕を苛んだ。
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