◇ウルズの追憶:5

 一部始終を、影から見ていた。


 彼の人の操る美しい炎の中で、燃える村。

 それを背景にして、鈍く光る銀の剣を振るうのは、この世の何よりも美しく正しい、まったき光の、彼の人。


 絵画から抜け出たような、完璧だったはずのその光景に。醜い染みを残したのは、後から現れた黒い影だった。

 憎らしいその邪魔な汚点は、やはり醜い剣を美しきあの人に向け。


 彼の人は、バルドルは、あの男に貫かれた。


 おぞましい影の手が幾本も伸び、彼の人を、その高潔な魂を、まるであの人に似つかわしくない不細工な剣の中へと連れ去っていく。

 そうして魂を抜かれた彼の人の抜け殻は、楔をなくして倒れ込んだ。

 血を流して倒れ伏したその姿すら、神々しくて。


 僕は何が起きたのか分からず。

 炎が彼の人と心中するかのようにふっと消え、真っ暗闇になった森の中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 やがて、あの忌まわしい男の姿が見えなくなった頃。

 ようやく、僕の足は動いた。


 もはや彼の人のいなくなった、空っぽの身体の傍らに座り込み。


「……にい、さん」


 それが、初めてだった。

 彼の人から、そうなのだと声をかけてもらったにも関わらず。

 今まで使うことのなかったその呼び名で。

 僕は、初めて呼ぶ。


「兄さん。兄、さん。

 兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん!」


 どんなに呼びかけても。

 どんなに語りかけても。

 彼の人は、兄さんは、動かない。


 僕を闇から連れだしてくれた人。

 初めて、まっとうな生を教えてくれた人。

 初めて、僕に名前をくれた人。


 それなのに僕は、兄さんを花嫁に引き合わせてあげることができなかった。



 けれど、そうだ。

 兄さんは、まだ



 僕は、兄さんが握りしめていた剣を手に取った。

 そうだ。僕はなさねばならない。


 なぜなら、僕の名は、ヴァーリ。



 僕は、なのだから。



 剣を腰に差し、汚らわしいあの男に二度と触れさせることのないように兄さんを抱き上げて、森へ隠す。

 長身のはずの兄さんの体躯は、驚くほど軽かった。

 今は兄さんの根幹たる魂が抜かれ、あのおぞましい影に囚われているのだ。無理はないのかもしれなかった。


 僕は後ろを振り返り、どこかに姿をくらましたあの男へ向け、誰もいない空間へ睨みをきかせながら。

 心からの祝福の言葉を送る。



「呪わしきあんたのその身を、呪い呪って、死の淵まで追い込んでやる。

 忘れたままに逃げ延びることは許さない。

 全てを思い出し、全てを受け入れ、全ての絶望を抱いて死ね」



 今度こそ、その運命を覆すために。

 今度こそ、その命運を貫くために。


 僕の世界の全てを破壊した男。

 愛おしき兄さんバルドルを殺した、忌まわしき兄さんヘズを殺すため。


 僕は、僕自身の意志で、立ち上がった。




「待っててよ、兄さんヘゼルティ

 定めのとおりに。

 今度は、僕が君を殺してあげる」

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